そして弱虫のあーちゃんは死にました
山咋カワズ
『そして弱虫のあーちゃんは死にました』
『あーたーらしーい、あーさがきたー。きーぼーのーあーさーだ……』
砂糖菓子をどろどろに溶かして煮詰まったような朝。まだ目覚めたばかりでピンク色の雲がかかったような頭の中に、これまたふわふわと調子の外れた自分の歌が、スマホのバイブレーションでぶるぶると震えながら入ってくる。
「うひょぇ……」
寝ぼけ眼のまま被っていた布団を這い出して、宇宙人が出してるみたいな怪電波の出どころを手探りで探しだす。いつものように充電器からスマホを引っこ抜いて、我ながら洗練された手付きでアラームを止めた。
「……目覚まし時計止め選手権とかあったら、優勝できたかもしんないなぁ」
寝起き特有の特に意味のないことを呟きながら、仰向けになってスマホを弄る。
ロック解除。着信はゼロ。午前7時ジャストで、天気アプリ曰く本日は晴天、素晴らしき一日也。
「よし」
それだけ確認して、スマホをスリープモードにする。自分でも意外なほどひょっこりとベッドから飛び降りて、そこら中に転がっているぬいぐるみを避けながら、部屋の隅にある姿見の前まで歩いた。
うっすらとホコリで汚れた鏡に写るのは、青と赤の血管が透けるくらいに白くてガリガリに痩せた、嫌になるほど見慣れた自分の顔。中学の頃から着ているせいですっかりよれてしまったロリータパジャマには、セルフブリーチのやり過ぎでごわごわになった髪の毛がひょろりとかかってなんともみすぼらしい。
「もっかいくらい、染めとけばよかったなぁ」
そんなことをぶつぶつとぼやきながらパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットの中から制服を引っ張り出す。
この辺りではいちばんカワイイと評判のセーラー服は、グリーンストライブのリボンとチェックのスカートがアクセントになっていて、お気に入りのピンクのカーディガンとの相性もカンペキだ。ぶっちゃけあたしの持っている服の中では一番カワイイから、特別な日には、ぜったいにこれを着ようと決めていた。
姿見の前であえて着崩して、今日のコーディネートの出来上がり。最後にくるりと回って鏡を背に、17年間じぶんが住んできた部屋を眺めてみる。
床やベッドのそこら中には、買い漁ったぬいぐるみの山、山、山。動物やゾンビや鮫や臓物、恐竜ヒト犬エイリアンと、色とりどり多種多様なふわふわ達の怒涛の洪水。それらが1年位前に衝動的に塗りたくったベビーピンク色の壁に浮かび上がって、部屋の底はちっぽけなUFOキャッチャーみたいだ。
部屋の明かりを点ければ、天井から吊り下がったフラットウッズ・モンスターの頭部型の照明がぬいぐるみ共をファンキーな七色に照らしてくれるのだけれど。真っ昼間の今はそれもなく、夜行性の未確認生物は静かに眠っていた。
「……うーん」
こうして見渡していると、なんとなく名残惜しい気持ちも沸々と湧いてくる。
やるせなしに、片足をぶらぶらと振ってぬいぐるみを蹴飛ばす。するとその下にいた物と、ふと目があった。両手で拾い上げて、その真っ赤な眼と目を合わせてみる。
「ボーパルちゃんじゃん。そんなとこにいたの」
山積みになったぬいぐるみから掘り当てられたのは、真っ赤な瞳と真っ白な毛皮、そして口元から溢れているおびただしい量の鮮血がチャームポイントの殺人ウサギのぬいぐるみ。処女の生首が大好物とかいう設定込みで割とお気に入りだったのだけれど、いつの間にやら、もふもふ山の中に埋もれてしまっていたらしい。
うーんとオデコに指先を当てて、ちょっとだけ悩んでから、決めた。
「まっ、ボーパルちゃんなら良いでしょ。んじゃ、君も一緒に行こっか」
ボーパルちゃんとスマホを学生カバンの中に突っ込んでから、片手で髪留め用の黒と白のマーブル模様のリボンを引っ掴んで部屋を出る。
忘れ物は無さそうだから、これでもうここには帰らなくてもいいだろう。
顔を洗って、歯磨きして、お化粧をして。
とにかく今日は、のんびりしてから家を出ようと思った。
学校に行かなくなったのは、いつからだったっけ。
冬のアスファルトみたいに固くて、カラッカラに乾いた思い出を辿ってみる。
高校に入学してから、半年くらいはちゃんと授業に出ていたように思う。クラスメイトの名前や先生の名前も覚えて、仲良くなれた子たちと一緒にカラオケやゲーセンに行ったりもしていた。それなりのグループにも入ることができてたし、あんまり人に合わせるのが得意じゃないあたしにしては、割と順調にスタートダッシュを切れた気がする。
そのくらいの時期だったと思う。ぷっつりと何かの線が切れたみたいに、なんだか急に、ぜんぶに冷めちゃった。例えるなら、毎日ちゃんとログインしてスタミナも使い切ってたスマホゲームを、ある日突然どうでもよくなって、ポチッとアンインストールした感じ。
そうなった朝からもう学校に通わなくなって、学校や友達からの連絡を全部無視していたら、そのうち通学の催促も無くなった。いつ家に帰ってきているのかもわからないママの方に何らかの通達が行っているのかもしれないけど、もう何ヶ月も顔を合わせていないからそこは謎のままだ。
「せめて、女子高生をクビになってなきゃいいなぁ」
ボソリと呟きながら、ブラブラと学生かばんを振る。ファスナーのすきまからひょっこりと顔を出したボーパルちゃんが息苦しげに揺れて、その殺意いっぱいな表情を憎々しげにあたしに向けた、気がした。
今あたしは、ボーパルちゃんを連れて駅の構内を歩いている。徒歩で17分くらいの場所にある、通学・通勤路として大活躍中である中央線の某駅。もう高校には通っていないけれど特に家ですることもないあたしは、毎朝その構内を散歩することが日課になっていた。
構内の時計を見れば、現在時刻は午前10時。ちょうど通勤通学ラッシュの人たちがいなくなって、緊張感の擦り切れたぼんやりとした雰囲気が駅の中に漂い始める時間だ。人が密集した後に漂う匂いに顔をしかめながら、あたしは隣の駅までの切符を買って、改札の中へと入る。
私の友達だった人たちと、元から友達でもない無数の他人が毎日ここを通っている。たった3時間違うだけで、あたしとあの人達がやってることは変わらない。違うのは、彼らには目的地があって、あたしには無いっていうことだけ。
「まっ、今日はそれも変わんないんだけどね。ねっ、ボーパルちゃん」
同意を求めてみても、かばんから顔を出すボーパルちゃんの血塗れの口は微動だにしない。もちろん返答を期待していたわけじゃないので、黙ってホームへと続く階段を降りる。そしてコツコツと鳴るローファーを足元に感じながら、考える。
もう一つ、彼らと違うところがあるとすれば、私は少し、弱虫だったのかもしれない。
コツリ、ホームへと続く階段を降りる。首刈りウサギの頭がぴょこんと跳ねて、あたしの首に牙を近づけた。
毎日お化粧約30分。駅へと歩いて約17分。電車に乗って約20分。学校職場で約8時間。
脳内で明日の予定を組み立てて、メモ帳で一ヶ月を切り刻んで、家族や先生と10年後の話をして。どれだけ人生を不自由にスケジューリングしても、時刻表みたいにはっきりとした命の最終便は見つからない。
過去現在未来。どれだけ時間をバラバラに刻めば、人間のいのちというものは自明になるのだろう。刻んで叩いて粉々にして。ミンチ肉みたいに満遍なくぐちゃぐちゃになったら、あたしって一体何なんだろう。
いつもその辺りまでボーっと考えて、肉汁たっぷりの粗挽きハンバーグが食べたくなって思考を止める。
ザクザクザク。トントントン。ミチミチミチ。ジュージュージュー。
コツコツコツコツ。ガタンゴトンガタンゴトン。チクタクチクタク、ザワザワザワザワ。
一時期、引きこもり中にすることがなくて、ちえのわにハマっていた。
カチャカチャ冷たい金属を擦り合わせながら、頭から湯気ができるほど考えて。最終的には、力づくで外そうとしてみちゃったり。お金をかけずにだらだらと暇つぶしできるから、特にやりたいこともないあたしには最適のおもちゃだと思ったのだ。
ちえのわ外して、元に戻す。
ちえのわ外して、また戻す。
ちえのわ外して、虚しくなって、ゴミ箱に投げ捨てた。
そういうところが、あたしの弱虫なんじゃないかと思う。続けようと思えば続けられるのに。自分で諦めるまではやめなくていいのに。その先に続いているモノの途方もなさに虚しくなって、そこで全部終えちゃう。
だから今からすることは、ぜんぶ私の弱虫が招いた結果なのだ。
クラスメイトが援交してるだとか。
学校の裏サイトでのあだ名がアバズレでアホのあーちゃんだったとか。
電車に乗る度に変態サラリーマンにお尻や胸を触られてたとか。
会う度にママが違う男に媚びてるとか。
その男の一人に襲われかけたとか。
そういうことが仮にあったとして、マジで一切関係ないから全部端折る。いや"あーちゃん"とかいう薄ら寒いあだ名は死ぬほど嫌いではあるけど、あたしはそんなしょうもないことよりも、マックの新メニューの方が500倍興味ある。
だから当然、誰かに助けてほしいなんて微塵も思わない。それに、かわいそうだとか哀れだとか、そんな気持ちであたしの決断を踏みにじろうとするのは不純にすら感じる。
それならまだ、真摯にあたしの首を狙うボーパルちゃんの方が誠実じゃなかろか。悩める少女でも、生徒でもないあたしをひたむきに殺そうとしてる。
それはさながらロミオとジュリエットのよう。いや違うか。ロミオは別にジュリエットが処女だろうがビッチだろうが気にしないだろうし、そもそもジュリエットはあたしみたいなメンヘラ地雷女じゃない。
「あたしいちおー処女だしねー。リスカも痛そうでしてないから新鮮な血も一杯あるし、ボーパルちゃんもお目が高い」
『セヤロー、ワイの赤い目はゴマカセヘンデー』
裏声のボーパルちゃんと話しながら、ホームへと足をつける。周囲を見渡しても、この時間は人もまばらだ。あたしみたいな女子高生がいても、気にする人はいない。
じきに電車がやってくる。毎日あたしのクラスメイトを乗せて学校まで送り届けるウン10トンのカボチャの馬車が、時速60キロくらいで飛んでくる。
ちょうどこの辺りが構内でのトップスピードだろうと思われる場所で、黄色い線の真上に立つ。
ごつごつとした点字ブロックの上から見えるのは、これまたごつごつとした都会の町並み。タケノコみたいに突き出すビルの群れは、誰かを出し抜かんとすることを強いる資本主義思想の権化のよう。
もうちょっとちっちゃくなればカワイイのにと思って、指でハサミを作ってちょきんと切ってみる。うむ、切れない。ちょっと遠かったか。
『まもなく電車が参ります。黄色い線の内側に立ってお待ち下さい』
「おっ、来た来た」
プオーンというどこか間の抜けた機械の汽笛が聞こえて、線路の上を列車が跳ね回るタップダンスのような音色が近づいてくる。
私のことをテレビのちっちゃな速報で見た人は、電車を遅らせるなんてはた迷惑で馬鹿なやつだなぁって眉をひそめるのだろうか。
学校は不登校歴の長い私のことなんて、しらを切り通して無かったことにするかもしれない。友達だった人たちのところへは警察が行くだろうけど、彼女らは一躍、友人を喪った悲劇のヒロインの仲間入りでクラスの話題の中心になれるから、それでトントンってことにしてほしい。
鉄道会社の人たちは、まあそれも仕事上のリスクとして受け入れておくれ。たくさんかかるらしい賠償金をママは払おうとしないだろうけど、どうせお友達が払ってくれるでしょう。それがたぶん私の値段だろうから、できればリニア新幹線とかのすごい事業にお金を使ってくださいな。
そうこうしてる内に汽笛の音が近づき、横顔を微かな風が撫でた。そのタイミングで、あたしは特に何の感慨もなく、何もない場所へと一歩踏み出して、落ちた。
鉄の塊が私に衝突するまでの一瞬。
かばんの中からこぼれ落ちたボーパルちゃんが、日差しの中でもなお明るい電車のライトに照らされながら、ポツリと呟いた。
『人間って、馬鹿だなぁ』
「あー、違うよ、ボーパルちゃん。……たぶん……私達はね……」
ずっと昔に諦めてしまった言葉が喉元に引っかかって、返答に窮する。困って視線を動かせば、線路の彼方に続く町並みの稜線が、きらきらと光る太陽で美しく輝いていた。
あまりの眩さに目を細める、その時。意識の外側に、お天気アプリが言っていた素晴らしい一日という言葉が蘇った。
最後の最後だったから、ふと、感情が漏れた。
「あぁ、それでも──」
その直後に聞こえた気がしたのは、ぐちゃりと鈍い、何かが潰れる音。
そして弱虫のあーちゃんは、死にました。
・
以下においては、東京都〇〇区で発生したAさん飛び込み自殺事件における、被害者周辺及び社会全般に関する事件後の動向について記載する。
当初、Aさんの飛び込み自殺に関しては、公共交通機関における一般的な人身事故と同等の報道体制が敷かれた。すなわち、一時的な列車の遅延に関する速報のみを各局は伝えていたのである。人身事故それ自体はありふれた類の事件であり、なおかつAさんが未成年であったことがその主な理由であると推察される。
また鉄道を運営する〇〇旅客鉄道は、企業イメージを損なう可能性を考慮してか、Aさんの遺族に対する損害賠償請求を行わなかった。
よってAさんが死亡して一週間以内には事件は終息しており、彼女の自殺への世間の関心は、極めて希薄なままに消え去るものかと思われた。
本当の意味でAさんの死が衆目に晒されるきっかけとなったのは、とある匿名掲示板サイトに貼り付けられた一枚の写真だった。
写真には、自殺現場となった駅の構内を歩くAさんの姿が捉えられている。写真に写り込んでいる事件当時とは異なる店舗や撮影の画角から見るに、事件が起きる以前に彼女の姿を盗撮した写真であることは間違いなかった。
写真を貼り付けた匿名の人物は、人身事故がもたらす列車遅延による社会経済活動への悪影響を繰り返し述べた上で、そのような事態を引き起こした愚か者の象徴としてAさんを槍玉に上げた。
Aさんの写真が貼り付けられると、「髪脱色しているメンヘラじゃねえか社会に迷惑かけず勝手に死ね」、「援交してそう」、「これだから最近のガキは」、「こんなバカ女のせいで俺は会社に遅刻したんだが?」等の、事実無根の情報を含む中傷が多数掲示板に書き込まれた。
その後、一部のネットメディアの手でAさんの写真は広範囲に拡散され、不特定多数からの誹謗中傷を受けることになる。
またAさんという明確な攻撃対象を見つけたことで、度重なる人身事故による電車遅延に不満を有する人々の怒りが爆発。鉄道の運営会社が賠償金を請求するための訴訟を起こしていないことも非難を正当化するうえで度々取り上げられ、『神対応』として評価されるその世評と対比されるような形で、Aさんの行いに対する人々の義憤心は野火のように無節操に広がり続ける。
Aさん飛び込み自殺事件は、事件後約二ヶ月という予熱期間を空けて、俗に『炎上』と呼ばれる事態を招いたのである。
とはいえ、炎上が始まった当初はネット上の一部で騒がれているのみであった。だが、クラスメイトを自称する人物がAさんの住所や本名、通学先等の個人情報を匿名掲示板で流出したことで事態は急転した。
閉じたコミュニティでのエコーチェンバーを繰り返した末に分別を無くした怒りの炎が、現実世界にまでその触肢を伸ばし始めたのだ。
手始めに、東京都〇〇区〇〇町に所在するAさんの自宅が標的となった。いたずら電話や敷地内に忍び込もうとする不審者による被害は序の口として、Aさんやその母親を犯罪者扱いする内容の落書きや、投石による窓ガラスの破損等の物的損害にまで被害は及んだ。この異常な社会的制裁に関しては、Aさんの母親が退去するまでの約二ヶ月間続いた。
並行して人々が目をつけた標的は、Aさんが通っていた私立〇〇高校だった。犯罪者を生み出した高校という暴論を抱えた人々により、私立〇〇高校にはAさんの自宅に行われたものと同様の犯行が相次いだのである。この時期に、Aさんが所属するクラスの担任を務めていた教員がノイローゼを理由に退職していることからも、当時行われた”制裁”の凄まじさが窺える。
もちろん、暴走する人々に対する批判やAさんを擁護する声も数多くあった。けれど理性の冷水は、その性質を変えつつある猛火の勢いを更に増した。
薪として焚べられるのは怒りではなく、むしろ本能的な歓びだったのだ。正義を掲げて他者を征服する快感。マジョリティと一体になる心地よさ。あるいはその行為を非難する人々ですらも、自らの理性の杖を振るうその快楽に酔っていた。
善意と悪意と無関心は決して互いを受け入れようとはしなかった。だが、Aさんが生み出した火種を絶やすまいという意思だけは、各々の正義という混沌の中で共有していたのだ。
しかし燃え尽きるまで終わることがないと思われた混沌の炎は、慮外から放たれた消火剤で急激に鎮火することとなる。
過激な報道で知られるゴシップ誌が、Aさんの境遇についての暴露記事を公開したのである。当該記事には、Aさんが唯一の肉親である母親からネグレクトを受けており、学校ではいじめを受けるなどの過酷な環境で生活していたという内容が同情的な文面で記されていた。(補足:記事内にはAさんの関係者でしか知り得ない情報が含まれていたことから、Aさんの友人や母親が炎上を収束させるために関与したという説もある)
また記事中には、母親の愛人である男性に強姦されたなどという真贋の不確かな情報も書かれていた点については明記しておかなければならない。だが結果として、それらの情報をきっかけに、世論はAさんに対する論調を変えた。
Aさんの立場は「社会に損害を与えた加害者」から、「社会の救いの手からあぶれた哀れな少女」へと一転したのである。これはAさんの母親が自宅を退去してから、一週間も経たぬ間に起きた変化であった。
Aさんの悲惨な境遇に関する情報は、事件の概要とともにSNS等の媒体を介して拡散された。
奇しくも炎上の際と同様の手段で広まった情報は、テレビ番組にも数多く出演している教育評論家の目に止まり、その発信力を介して更に多くの人物に伝搬。その最中に、Aさんの人物像は、著名な女流作家やフェミニズム運動家らの手によって度重なる再解釈が行われる。最終的に彼女のイメージは、愛の無い家庭環境で生まれ育ち、いじめと性犯罪被害で精神の摩耗した薄幸の少女という形で固まった。
その後、Aさんの元自宅や通学していた学校への嫌がらせは嘘のように減少した。
社会の敵を殺すための正当な武器は、誰もが有している。その気になれば仕事や学校の休憩時間を用いるだけで、石を投げるよりも気楽に悪人を裁くことができる。
しかし一人のか弱い少女を殴りつけるための野蛮な棍棒は、誰も欲さなかったのである。そんな悪人のような真似は、社会の一員である彼らには嫌悪してしかるべきものだった。むしろ彼女は保護すべき対象であったとして、皆でかつての行いを悔やみ、Aさん飛び降り自殺事件の真実を語り継ごうという風潮が生まれるのも自明の流れであった。
人間は誰しも、悪を許せない正義の心を持っている。そしてそれと同等に、自らが信じる善を成したいという生理的な欲求を胸の内に抱いている。
二ヶ月と一週間という期間は、人間ひとりをスカベンジャーが消化・解体するには十分すぎる程の時間だ。『世間』による捕食と排泄を繰り返された彼女の死は、既に本来の彼女を判別することが不可能なほどの記号に分解されていた。
真実のAさんがイメージ通りの人物であったかは、もはや論ずるに足る問題ではなくなっていた。
そしてAさんは今も、彼女を語る人々の主義主張の中で生き続けている。
ある時は、性犯罪被害者の声を代弁するために非業の死を遂げた現代女性のジャンヌ・ダルクとして。
またある時には、いじめやネグレクトという社会問題に対して、己が死を通して悲痛なメッセージを発することで立ち向かった声なき声の代弁者として。
今では誰もが彼女のことを
そして彼女の献身を一時的な対症療法に留めないため、彼女がその生涯を通して伝えたかったことを余さず後の世に伝搬するべく、社会全体が一丸となって、彼女が行った行為の尊さについて語り伝えていかねばならない。
その一環として、彼女が飛び降り自殺を図った際に抱いていた〇〇社製の『<血塗れ>ボーパル☆ラビット』(商品名)は、現在ではAちゃんが生まれ育った〇〇区のゆるキャラとして広く認知されている『うさぎのパルちゃん』のモデルの一部となっていることも述べておく。
モチーフとする際に残酷な設定やむやみにグロテスクなデザインは削除され、よりAちゃん本人の優しい心情を考慮した、人々に愛されやすいキャラクターとして生まれ変わっている。〇〇鉄道会社の駅構内や道の駅等で関連グッズも販売中なので、近隣にお立ち寄りの際には是非お求め頂きたい。
近年は報道関係者の暴走や、SNSや掲示板を介した個人情報の漏洩に伴う、独善的な私的制裁が問題視されている。本事件はそのような時流において、世間という巨大な生物が、社会的弱者の苦痛を己が血肉として受け入れる事ができた意義深い事例であると言えるだろう。
本稿を終えるにあたって、今は天国で安らいでいるAちゃんにとある言葉を伝えたい。彼女が命を喪った駅構内にあるAちゃんの献花台に、その髪色に似た淡い黄色のカーネーションの花束と共に置かれていた、メッセージカードの一文である。
『あーちゃんのおかげで、この世界はこんなに素晴らしくなりました。
さびしかったあーちゃんは、まわりの人からの優しさが欲しかったのですね。
あーちゃんが勇気を振り絞って出してくれたSOSを汲み取れなくて、ほんとうにごめんなさい。
みんな今までの間違いを認めて、あーちゃんのこともちゃんと理解できています。
だからあーちゃん、来世でもまた人間に生まれて、こんどは私達と一緒に立派なおとなになってね』
そして弱虫のあーちゃんは死にました 山咋カワズ @Tasuki-Dog
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます