溝口水晶の嫌悪感にあまり遠くない違和感③
僕は車のシートを少しだけ倒した。
手にした携帯で「十戒」を検索する。男との会話で気になったことがあったのだ。
――確信はあったけど、やはり、その第七戒に「姦淫してはならない」というのがある。婚姻関係以外の性交渉を禁じたものだ。牧原茉莉亜は、自らの意思かどうかは別として、森永弥里とそのような関係になってしまい、それが外に漏れるのを恐れた主任司祭が事件を隠した。十分筋が通ると思う。
さらには男の話にはひとつ矛盾があった。
冒頭の因果応報のところで、助けたことを悪として、それによって彼女が死んだものだと考えていると言った点だ。ただ、よく考えてみると、初老の男は、お嬢さんの純粋な思いを組んだのと合わせて、教義を忠実に守ったに過ぎなかったのだ。 それはカトリック教徒にとっての正しいことだったはず。
だから絶望したのだろう。
男は本当に破門されたのだろうか。そして、徐々に世俗化されて、今はそんな思いに至ったのか。
……ただ、男が抗えないものを経験することによって、人生観が大きく変わったのは間違いないようだ。
彼にとって神はいなかったのだ。
海の近くへと移動した。気持ちのいい風が吹き抜ける。
目を閉じて耳を澄ますと、……恐怖・無念・憤怒・後悔・怨恨・絶望・達観――その声は確かにここにある。
声を挙げられないままで沈殿している。
いつか何かで読んだことがある。
「顕在化しなかったことは、必ずしも存在しなかったのではない。聴き取れなかったことが、それを存在しなかったことにするのです」
僕には聴こえない声があまりに多いようだ。
だけどそれは確かにここで起きたのだ。
すると、ふと広島の土砂災害を目にした時に思い出せなかった一枚の絵画のことが頭に浮かんできた。
……あっ、ゲルニカだ。あれはピカソのゲルニカである。
それはスペイン内戦中に描かれた、ドイツ軍によって行われたゲルニカという都市の無差別爆撃を主題としたものだった。この絵画を描いたピカソは、「これはお前が描いたのか?」と質問するドイツの役人に対して、「違う。お前たちがやったのだ」そう答えたという。
凪いだ海を見ながら思った。
……これらは一体、誰がやったのだろうか。冷め果てた蔑みの眼差しを海に向ける。ただ、神はあくまで沈黙しているようだった。
そして、このような抗えない絶対的なものに対して、僕はこの限りない無力さに、自身を責めることでしか贖罪されることはないような気がしていた。
帰りの道中、携帯が鳴った。母からだった。話したくなかったので、そのまま手にすることもなく、コールを数回聞いているうちに切れてしまっていた。
ラジオからは、ビートルズの「In My Life」が流れる。合わせるよう、ポツポツとボンネットで雨粒が鳴った。
今度はショートメールの着信音がした。手に取ってその文字を読んだ。
――「父さんが見つかりました」
熱いものが腹の底から込み上げてくるようだった。ただただ涙が溢れてきた。
これは何の感情なのだろう、僕は嗚咽するわけでもなく自然と泣いているのだ。
不意に果子さんの横顔が浮かんだ。
……会いたい。それは確かな感情だった。
郡山駅で新幹線を待っていると、ショートメールが届いた。
「どうしたの?」恐らく果子さんは今、話せない状況なのだろう。
そうして、殆ど間を開けずに届いた次のメールには、「22時にいつもの場所で」と書いてあった。
ただ、僕は果子さんに話すべきことが、何なのか分からなくなっている。
もうすでに外は大雨であった。
一番奥のいつもの席に果子さんはいた。スーツを着て、いつもより濃い目の化粧をしている。すでに何杯か飲んでいたようで、僕に気付くと、赤い頬を吊り上げて「……大丈夫」と口にした。
互いにわざと造った笑顔に、すべてが見透かされたようで、僕は立ったままで泣いていた。
そして父が見つかったこと、母への葛藤などを一気に話した。
果子さんはその間、口元に手を置いて何度も小さく頷いた。途中、ギムレットを頼んだ際、何か言いたそうに視線を泳がせたけど、結局、最後まで黙っていた。
そうして僕が、「母のことが理解できない」とカウンターを音立てたのを合図にして、しゃべり出す。
「ねぇ、忘れていくってことは、すごく大事なことよ。その君の強い想いは、少なくとも、自分側の勝手な思い込みであって、その人を、もしかしたら縛りつけているだけのものなのかもしれない。だから、私は少しずつでも忘れることにしているの。そうすることで、その人は、ちゃんと成仏できると思うから……」
僕は黙って聞いていた。ただ、「成仏できる」と言った彼女が、あまりにも自分の知らない果子さんのようで、その話は違和感でしかなかった。
強い視線を留めたまま唇を噛んでいると、更に果子さんは続けた。
「私ね……4歳になる娘がいたの」
直ぐには理解できなかった。僕は「どうゆうこと」と聞き返していた。
「その言葉どおりよ。5年前に、先天性の病気で死んじゃったの」
曖昧な表情を浮かべて彼女を見つめていると、口に含んだギムレットを微かな音を立てて喉を通していく。
「……はじめはボロボロだったわ。生きる希望が見つからないの。毎日毎日、あの子の笑顔だけが思い出されて、いつでも、どこでも、何をするにでも、ほんと、バッカみたいにキョロキョロしながら、あの子の欠片を探していた。……そして、居ないことに気付いては、自分を責めて落ち込むの。ああ、いっそ死んじゃえば楽になるのかなぁとか、あの子に会えるのかなぁって、そんなことばかり考えていた」
――「でもね。ここでマスターに言われたの。ちゃんと忘れてあげなさい……って。そして、こうも言われたわ。死んだ人の気持ちになってごらんなさい。いつまでもウジウジされるのが愛された人にとって、どれだけ辛いことなのか」
僕は、ようやく見つかった父の気持ちを少しだけ考えてみた。
すると、「……ねぇ、君と初めて会った日のこと憶えている?」僕を見つめたままで声にする。
「はい、よく覚えています」真っすぐに答えた。
「あの日ね。娘の命日だったの……私ね。徐々に忘れてしまう罪悪感に苛まれ、良心の呵責を感じていた。すると、マスターが話してくれたの。一年に一度、ちゃんと思い出して、おもいっきり泣いてあげて下さい。それはすごく大事なことで、死者もまた生者によって生かされているのだから……。このカウンターの一番奥の席は、あなたの予約席として毎年確保しておきますから、どうぞお洒落をしてご来店下さいって……急に目の前がパッとなった気がしたわ」
そう言ってから更に1杯注文した。もう既に7、8杯目のようであった。
Bar「a Little Bit」には悲しい秘密があった。
30年間連れ添ったマスターの奥さんは、このバーが開店する1週間前に急性骨髄性白血病で亡くなっていたのだ。
このバーは二人の夢だったと聞く。突然、半年という余命宣告を受けた奥さんの為、マスターは大手証券会社を辞めて開店を急いだという。
ただ、次第に病状が悪化していく奥さんのことを考えると、ギリギリの時間であったし、また、全てを掛けて準備をするマスターの体力と気力も恐らくギリギリだった。
そして、ようやく目処が立って、もう少しで開店するという時に、奥さんはひとり静かに息を引き取ったのだ。
マスターは奥さんの笑顔が見たくて、いつでも「……もう少し」そう言って笑っていたという。
――「a Little Bit」に続く言葉は、Please give me a timeもしくは、Please Liveなのだろう。
このバーには、マスターの切ない想いが込められている。
周りを見渡すと、僕たち以外は誰もいない。
今日もマスターはロッキンチェアーを揺らしながら「フィリピンの奇術。その科学的証明」という本を読んでいた。
やはり寒いわけだ。雪が降っている。
携帯が鳴った――。
それは会計を済ませて底冷えする夜の街を果子さんと並んで歩いた24時過ぎのことであった。
「――今度は学校の屋上から少女が身を投げた」
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