溝口水晶の嫌悪感にあまり遠くない違和感②

 そのままで視線を留めていると、男は瞑っていた瞼をぱっと剥いて僕の方へと向けた。

 こけた頬が規律の正しさ語っているかのよう精悍な顔つきである。

 すっと立ち上がり、小さく会釈をして風のように通り過ぎていく。

 毅然と歩く後姿に気圧されたが、僕はその後姿に自然と声を掛けていた。

 ――初老の男は立ち止まって、少しだけ空を見上げたような気がした。

「……何でしょうか」

 静かな口調で振り向きざまに言う。


「いえ、少しお話を宜しいでしょうか」

 そう言って僕は素性を説明してから、いくつかの質問をしたいと申し出た。

 初老の男は、遠く眼下に広がる海に目をやっているようだった。

 そうして、観念したみたいに「どうそ」と答えた。


「有難うございます。あと、ICレコダーも回させて頂きますけど大丈夫ですか」


「はい、構いませんよ」

 深みのある声。よほどの人生経験が無いと出せない声だろう。


 僕は後れを取らないように切り出した。

「では……単刀直入に伺いますが、どなたへの献花だったのでしょうか」


 ――「はい。私の大切な人のです」

 初老の男は、長い中指で数回ほど眉毛を掻いてから、少し歩きませんかと僕を促した。

 吹き抜けた海風に煽られたビニール袋が二人を追い抜いていく。

 僕たちは小さな公園のベンチに腰を下ろした。


 男は「これも神の思し召しなのかもしれませんね」と言って、一つだけこもった咳をした。

「――私どもはカトリック教徒です。ローマ教皇を中心として、全世界に12億人以上と言われる信徒を有するキリスト教の教派のひとつ……百合子さんは仙台支部の主任司祭様の一人娘でした」

 過去形で語れたその名前には覚えがあった。先程、町役場で読んだ記事に載っていた、そう、この目の前にあるアパートの1階で焼け死んだとされる母親の名前だ。

 ――牧原百合子マキハラユリコ 

 僕は声を出す代わりに小さく頷いた。


「私は幼い頃から百合子お嬢様のお世話係をしていた米良と申します。お嬢様はとてもお優しく慈しみに溢れた女性でした。それだけにあの男に出会わなければと、実に悔やまれます」

 急に顔つきが曇ったのが見て取れた。山の天気みたいだなと思う。

 そうして、渡した名刺にチラリと目をやると、視線を僕に移してから、まじまじと観察した。

「溝口さんはお嬢様より少々お若いでしょうか」

 それは質問のようだが答えは必要としないらしい。男は間を開けずに話し始める。


「カトリック教徒である私が言うのも変なのですが、恐らくは因果応報だったのかも知れませんね。あの時、お嬢さんを助けなければこんな事にはならなかったと、今更ながら自責の念に堪えません」

 助けたことが善い行いではなかったという事なのだろうか。……だから、焼け死んだ?


「そこら辺をもう少し詳しくお願いします」

 僕は慌てずに丁寧に促した。


「では、順を追ってお話し致しましょう。……あの男がお嬢さんの家庭教師として招かれたのが、確か、お嬢さんが高1の頃でした。両親を早いうちに亡くし苦労しただけあって誠実な男でした。始めはある程度、距離を取って接していたように見えましたが、それでもお嬢さんは気立ても良くて、とりわけ美人でしたし……また俗に言う「いいところ」の学校へ通っておられましたので、あまり、その何と申しますか、そうですね。免疫のようなものが、お嬢様には無かったのでしょう。あっという間に心と身体にその病魔が蔓延ってしまったようなのです」

 ……何だろう、実に大仰な言い回しだ。その言葉の選択に、嘗てヨーロッパで多くの命を奪ったとされるペストを想起したと彼に告げた。

 勿論、半分冗談のつもりだった。さらに、身体と言ったことにもピンと来たと続けた。

 ――「子供が出来たのですね」


「あなたは聡明な方だ。その通りです。……簡単なことだとお思いになるでしょうが、それは我々にとっては大問題だったのです」

 その歪んだ顔に当時の苦悩が窺えた。


「汝、殺すなかれ、ご存知でしょうか」


「えーと確か、モーゼの十戒の中に記されている言葉ですよね」


 男は大きく頷いた。

「……それは神の意思。私共にとっては絶対的なものなのです。特に我々カトリックにとっては、中絶を『大罪』とみなして、通常の許しの秘跡では許されないという厳しい態度を維持してきた経緯がありますので、とても看過できる問題ではありませんでした。勿論、お嬢様もそのことは重々ご承知でした」

 そうだ。確かに僕は直ぐに、その行為を思い浮かべていたのだ。ふらりとマックに入るような手軽ささえも……日本が中絶天国だと揶揄される所以なのかもしれない。


「お嬢様には決められた婚約者がいましたから、とても、お父様である主任司祭様やお母さまには言うことは出来ません。泣きながら私に頼ってきたのも当然なのでしょう。産みたい、産みたいと悲痛な叫びを上げて、懇願する姿には人間としての純粋なものを感じました。……お嬢様は本当にお優しいのです」


「それで助けたのですね」


「はい。ここで二人を匿うことにしました。仙台からも80キロ近く離れていましたし、また若い頃、と言っても、まあ40代の頃ですけど、私はここで、少しの間ですが水商売のようなことをしていましたから、この辺りには馴染みもありました。また、拙いですけど伝手のほうも……それでも若い二人には……特にお嬢様は人生経験が乏しく、相当の覚悟と忍耐が必要だったでしょう。苦労されておられました。ただ、二人は本当に頑張っていました。生まれてくる子供の為に、男は大学を辞めて日中問わず働きました。また、お嬢さんも身重な体で、掃除、洗濯、料理と初めての経験ばかりで相当のストレスだったでしょうけど、いつも笑顔を絶やさずに、男の帰りを一人暗い部屋で待っていました」

 何だか昔話を聞いているようだった。


「それから丁度、半年が過ぎた頃、女の子が生まれたのです。お嬢様はその子に茉莉亜マリアという名を授けました。それは特別な名前です」


「聖母マリア……ですか?」

 僕は言った。


「そうです。私共には聖母崇敬という概念があります。ただ、恐らくあなた方と私共とでは認識が少々異なっております。――カトリック教において、その名には『すべての恩恵の仲介者』という称号が与えられ、それは弁護者、扶助者、援助者という意味を持つとされています。おおよそ、お嬢さんは主任司祭様、いや私共カトリック教会との未来をその子に託そうとしたのでしょう。

 ……不思議な女の子でした。泣いた姿を私は殆ど見たことが無いのです。いつも屈託なくニコニコと笑うお顔は、まさにマリア様のようでした。誰の心にも安寧と幸福を与えるのです。……もしかしたら、それが仇となったのかもしれません。溝口さんもご存知でしょう。茉莉亜さまが小学5年の時、あの痛ましい事件に巻き込まれたことを」


「はい。烏丸少将連続誘拐殺人事件ですね」


「それが起こったことによって、二人は肉体的にも、また金銭的にも参ったようでした。また、何よりお嬢さんの居場所が明らかになったことで、彼らは精神的に追い詰められていきました。ただ、それでも茉莉亜さまは、いつもと変わらず屈託なくニコニコと笑っておられるのです。当然、唯一の救いとなったことでしょう。それからは恐らく監視の者が付いたはずです。ただ、不思議でした。主任司祭様は強引に連れ戻そうとしないのです」  

 そこまで言ってから男は大きく息を吐いた。徐々に首が垂れていく姿に、萎れてゆく花を目にするようだった。


 ――「悲劇が悲劇を呼ぶというのは、こういったことなのでしょうか。負の連鎖は続いていきます。どこで誰が何を間違ったのでしょうか。その2年後には、ご承知のようにお嬢様は焼き殺されてしまいます。そして、茉莉亜さまにも、またご不幸が……私は絶望しました」

 ああ、大きな溜息だ。もう疲労の色が隠せない。

 すると、男は絞り出すように言った。

「……もう、これ以上はお話しすることは出来そうもありません」


 僕は焦って質問した――。

「まーちゃん、ふーちゃんについて心当たりは?」


「……報道にあったあれですね。茉莉亜さまはもしかしたら、そう呼ばれていたのかもしれませんが、もう一方については、全く心当たりはありません」

 男は既に目を閉じている。まさに枯れる寸前だろう。


「最後に、もう一つだけお伺いしたい。何故、牧原茉莉亜はもう一度、違う男に誘拐監禁されたのでしょうか。また、どうやって……どうして、八王子に連れていかれたのでしょうか」


「それは私にも分かりません。ただ一つ分かっていることがあるとすれば、容疑者とされた森永弥里は所謂、無罪となったということです。考えてみて下さい。おかしなことでしょう」  

 それから大きく目を見開いて、きっぱりと言った。

 ――「恐らく彼女はもう一人の方だったのです」


「もう一人の方……」


 自然と口を衝く。彼女とは誰のことを指すのだろうか。

 すると、視線が手元のICレコダーへ移ったのが分かった。

 僕は頷いてからそれを切る。


「宗教に禁止事項が多いのはご承知だとは思いますが、中絶のように教派を問わず罪としてきたことの中に、もう一つ私共にとっては『大罪』とみなされることがあります。だから、主任司祭様は被害届を取り下げてまで、このことをひたすら隠そうとした。絶対にばれてはならない事象として葬り去ったのです」

 そう話すと、男は暫く考え始めた。

 そして、……やはり忘れて下さいと言ったきり、もう一切口を開かなくなってしまった。

 そこには闇深いものがある。それ以上は追及出来なかった。  

 ……「もう一つの大罪」言葉がゆっくりと消えていく。


 当分の間、僕らは黙って海を見た。それはのっぺりとして遠目にも穏やかであった。

 そうして、男が漸く開いた口から「……昔は良かった」と言葉を零すと、そこからは彼の独り言を聞いているみたいだった。


「小さい頃、お嬢様が庭に咲いていたと言って私に小さな白い花をくれたのを憶えています。何の花だったのかは分かりません。ただ、真っ白で、お嬢様に似て可憐で清楚で可愛らしく守ってあげたくなるような花でした。でも、今思うと、それは恐らく思い違いをしていたのです。それは花ではなく、白い葉を数枚ほど付けていたのでしょう」


「だから、今日は白い花を手向けました」

 もう一度、どこからかやり直したい気持ちだったに違いない。どこで男は間違えてしまったのだろうか。

 再び海の方へと視線をやって深呼吸した。

 多分、これが最後になるのだろう。


「幸運にもここは高台にあってか、あの黒い津波も届きませんでした。それでも、この町に生きていたはずの数百人の命があっけなく持っていかれたと聞きます。だから、今日、あなたに話したのかもしれませんね」

 男はさらに遠くを見つめた。

 そして、「……神の思し召しなんかではなかったようですね」そう言って笑うと、あのアパートの前で見せたように、静かにもう一度だけ目を閉じて祈りを捧げた。


 最後に、――「ペストは生き残った人たちの生活形態や意識を一変させたと聞きます」

 そう口にすると男はまるで風のように去っていった。



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