星のランプに手が届く。
久保あきらは「ある日の久保あきらのスケジュール」の中で一つだけ嘘を書いていた。
あの日、行ったのは大塚のピンサロではなく、新宿にある会員制のデートクラブだったのだ。
嘘を付くにはそれなりの理由があった……。
ある日の夜半過ぎのこと。アイスコーヒーを手に2階の席にいた。
長テーブルに、だらりと身を倒して、絡んだ二匹の蛇のような腕の上に顔を傾けている――。
顔を向けていない方の席に人が座った。十分に空いているはずの店内で隣にわざわざ座るこの違和感。
そのままの態勢を暫く続けた。目を瞑り寝たふりをしていると、うなじ辺りに微かな息遣いを感じる。
「……Arrested at last……」
耳元で囁くような声がした。ただ、人工的な音が雑ざって肉声ではないように思えた。
竦然として慌てて背筋を伸ばし振り返ると、華奢な後ろ姿が目に映る。
――あの少女だ。
エスニック刺繍の白いレースのようなワンピースを着ているが、紛れもなく探している少女だった。
ただ、動くことが出来ない。正確に言うと心臓が高鳴り、呼吸が乱れ、全身が震えている。
恐らく防衛本能が私をそこに貼り付けたのだろう。
少女は階段を降りる際、その端麗な顔立ちをすっと私に向けて、薄い唇を割って、――「またね」確かにそう動かして消えてしまった。
少女は私のことを分かっている。一瞬にして理解した。
これは谷崎潤一郎の「秘密」に状況が似すぎている。確かに処女作のあとがきに影響を受けた小説として、それを挙げて持論を述べていた。
少女は私の本を読んでいる。そして、計画的に近づいて来たのだ。
ガラスに映った私が震えている。興奮なのか怯えなのかは分からない。
繋がりを切るよう一旦、目を閉じて、鼻の頭を親指と人差し指とでグリグリ揉んでから再び目を開く。
――それは別で誂えた私が映っていた。同じ顔をして同時にアイスコーヒーを手にするのだが何かが微妙にずれている。
その違和感と目を合わせたままで、これから起こるであろうことに思いを馳せていく。
すると、何だろう、こう何かむず痒いものを下半身に感じるのを禁じ得ないのだった。
……えっ、私が笑った?
それからは以前に増して違和感を探した。
いつもの見慣れた渋谷の騒擾も、私の目には凡てが新しく映って、慣れ親しんだ平凡が濃い色彩を施されているかのようだった。
何日か経ったが少女は現れない。それでも核心めいたものがある。
それは雨が上がれば必ず月が顔を出すように、すごく自然なものに思えてならない。そう、彼女こそが私の宿願なのだから。
これ見よがしに脚をホットパンツから伸ばして、漆黒のBUTTEROのブーツを履いた女がギターを背負ったGジャン女とキスをしている。
舌を絡ませているのだろう、やけに長い。ビルの壁に押し付けるようにして貪りついている。顔を交互に傾けながらも唾液を交換しているかのようで、一旦、離れた私でさえ気が引けた。
さらに、その横ではライダースジャケットを着たツンツン頭のピアス野郎とサングラスをかけたスキンヘッド男がいちゃついている。
二人ともマッチ棒のように線が細くて、人差し指と親指だけで簡単に折れてしまいそうだった。
すると今度は、BUTTERO女とツンツン野郎が舌を絡めだす。
ああこれまた長い。あとの二人は笑いながらそれを見ている。
何なのだ。この連中は……ただ、このバンドが作る「Diversity(ダイバーシティー)」という楽曲を勝手に想像して、ひとりほくそ笑むのであった。
渋谷は土曜の夜とあっていつもより人が多いようだ。
さらには異常気象なのか、6月の終わりにしては暑過ぎる。薄着の女性が多いのも頷ける。
中には下着となんら変わらない出で立ちの女性も散見した。
また、その多くがバックをクロス掛けにして胸の形を露わにしながら堂々と街中を闊歩する。
……どうも彼女らの羞恥のラインが分からない。
確かに、明るい部屋で頑なに股を開くのを拒否した風俗嬢もいた。
その猫耳のカチューシャをした背の高い少女は私が見せてと言っても恥ずかしいと言うのだ。――「えっ見せたことあるでしょう?」と聞いたら、黙って頷いて人によると答えていた。
ええっ私は多分、君と二度と会うことはないはず。私で恥ずかしいのなら誰だったら恥ずかしくないの? 頭の中で言葉にしたが、面倒くさくなって、そのままに飲み込んだ。
――「Arrested at last」思わず口にした。
同じ格好で同じ場所に、あの少女が立っている。
……なんて違和感だろう。有象無象ひしめく中でも確かにそこだけは異空間に思える。
それはまるで息をのむ妖刀の佇まい。流れてきた人たちが吸い込まれるが如く、簡単に斬り裂かれていくようだった。
ただ、その反面、脆弱で無垢なものが、この渋谷に不意に生まれたようにも見える。
早くしないと穢されてしまうイメージにハラハラしながら見惚れていた。
すると突然だった。ゆっくりと顔を上げて視線を私に向ける。
思わず仰け反ると、椅子の音だけが店内に響いた。周りが怪訝そうな表情でこちらを見た。
少女は妖刀の眼差しで私を見つけ出し、すっと手を差し伸べたのだ。そして、慌てて視線を逸らしたのを合図にして少女は歩き出す。
あああ、かぐや姫が月に帰って行く――。
あの時よりも早くノートパソコンを畳んで、さらに大股でエスカレーターを降りていった。私は決めていたのだ。今度見つけたら後を追う。
さすれば見たかったものを見られる気がしていた。
同じ目線まで降りた渋谷の街は打ち込まれたピンボールの中のように賑やかだった。
キャリーバックを引きずる年増や、クールビズ狂の会社員、写真を撮りまくる異邦人や、スカートを履いたマイノリティー、それぞれが釘のように佇んで、私を上下左右に弾いていく。
それでもセンター街を上へと少女を追った。
……大丈夫、見失わない。だって違和感が目印なのだから。
少女は人込みの中を左に折れて、109を右に見ながら道玄坂を上がって行く――。
ライラック色の空に白く浮かび上がった、その丸いビルには女の口元だけの巨大な広告が張ってある。
旅行会社時代に訪れたヤムナー川沿いの都市アグラに聳える白亜の霊廟タージ・マハルを想起する。肌の薄黒い頬の扱けた人々が祈りを捧げている姿を思い描く。
――暑かったあの日、サリーを着た少女を買った。
「バクシーシって言葉は施しを受けるという意味ではなくて、あなたにカルマ(徳)を積むチャンスを与える。……そういう意味なの」
あくまで選択するのは「わたし」だと言う少女の青い虹彩が忘れられない。
私には宗教やUFOや化学とかは、みな欲望と同じグループに思える。
この街のように寛容なのだろうか。それとも余程のものに出逢わなければ何の感興も湧かないか……そんなことを考えながらも目の前の不可解な少女を追っているのが愉快でならなかった。
渋谷は坂の街。緩やかな上り坂には道路を挟んで多種多彩なビルが立ち並び妖艶な光を発している。
香港の繁華街「尖沙咀(チムサーチョイ)」を思いながら歩いた。
――あれは寒い夜だった。Shangri₋Laホテルにチェックインして、ゴールデンマイルと呼ばれる通りへと出掛けたときのこと。
地下鉄に通じる天井の低い地下道で、構内の隅にいた物乞いが「Give me」と呟いた。彼は盲目のようだった。
近づいてポケットにあった、くしゃくしゃの100香港ドル紙幣を、その浅黒い掌に置いて踵を返すと、背中越しに「お前はどこに向かう?」そうはっきりと声がする。
肩を掴まれたように振り返るが、言葉が出てこない。
物乞いは目を大きく見開いて、「……ようこそ天国へ」と言って、数本しかない黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑った。
まるで濁流のような人波の中、足が竦んだのを憶えている。
その少女はビルの麓を流れる支流の如く、一定の速度で歩いていく。
エンジンの掛かった古いアメ車の列も、葉巻バーの前で戯れる人込みも、時間の概念さえ切り裂くようにして足を進めている。
ひと際、派手な看板の前で呼び込みの女たちの声がする。
――「おにいさん、いい娘(こ)いるよ」
その片言の日本語にはバンコクのペッブリー通り沿いにあるマッサージパーラーの金魚鉢で足を組む売春婦たちと同じ響きがあった。
笑顔のその目は笑っていない。
映画館を越えて有名ラーメン店を左に暫く進むと、横断歩道の先にカプセルサウナがある。
その手前を右に折れて閑寂な歩道に入って行った。
ふと、皮膚に触れる空気感が変化したのが分かる。不思議な感覚だった。ここは初めて歩く道。
静かに辺りを傍観しながら足を進めた。
すると、すっと雲がかかった月のようにして、少女は一瞬、姿をくらませる。
慌てて速足になって後を追うと何かの建物の麓に迷い込んだ。
丁度、川瀬に出来た淀んだ淵のような、その空間では丁寧に切り揃えられた芝生がS字の道を作っている。
ビルの窓から漏れる灯りを頼りに周辺を見回した。
それは視界の外からいきなり入ってきたように思えた。ベンチに座り携帯を触る少女がいる。追ってきた少女とは明らかに別人だった。
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