第3話 溝口水晶の衝撃(2度も誘拐監禁された少女)
その日は衝撃的な事実が判明した。
それは、いつものように葉山の電話からだった。
「スイショウ 起きている?」
女子高生の連続自殺のことが頭に居座って、上手く眠れない日々が続いていた僕は、その日も夢と現実との間で携帯を取っていた。
多分、まだ明け方だったように思う。
声だけで誰だか分かっていたけど、やはり分からない振りをして何度も曖昧な返事を繰り返した――。
その後の、いくつかのやり取りはよくは覚えていない。ただ、ある質問から意識は水風呂にでも入ったかのように生き返っていったのだった。
「……ねぇ、7年前に起こった
はじめは暫く記憶を辿るように、明かりが入り始めた天井を見回した。
徐々に思考が形となっていく。枕元のミネラルウォーターを喉に流し込んだ頃には、その事件について当時、大学生だった僕はその異常性に眉を顰めたのを思い出していた。
「あっ、はい。確か……まーちゃんと、ふーちゃんの指令か何かで、小学生の女児を誘拐監禁したって……容疑者が訳の分からない供述をしていたやつですよね」
「そう、そのまーちゃん、ふーちゃん」
――「すぐには分からなかったけど、先週、飛び降り自殺した女子高生は、7年前、あの事件で誘拐監禁された、その子なのよ」
明け方には似つかない程、高揚した声に、お笑い番組を見ながらソファーで寝落ちした夜を思い出す。
それからデスクは、警察は双子同様、後追い自殺に絞って捜査を進めていること、水色のジャケットを着ていたことを話してくれた。
そして、彼女はいつも最後に衝撃的なことを言う。
「当時も未成年なので公表されなかったけど、――その子の名前は、
確か、あれは……当時の記事を検索した。
2014年12月24日クリスマス・イブ。東京都八王子にある男の部屋から中1の少女が保護された。警察は話を聞くため、この部屋に住む会社員の
「烏丸少将連続誘拐殺人事件」についての詳細は次の通りだ――。
地元の小学校に通う当時5年生の女児が朝、自宅を出たまま行方不明になった。その約1ケ月後、警察は同じ町内に住む
流鏑馬容疑者は、一審で誘拐監禁は一貫して、すべて「まーちゃん、ふーちゃん」からの指令だと語っている。また小学生2人が死んだのは、あくまで実験の過程でのアクシデントであって、「僕は、まーちゃん、ふーちゃんを手伝っていただけで、殺すつもりなど全く無かった。死んだ時、悲しいとさえと思った」そのようなことも言っている。ただ、その「まーちゃん、ふーちゃん」が誰であるのか、また何を指すのか未だに分かっていない。そして、今回の事件で逮捕された森永容疑者も全く同じように「まーちゃん、ふーちゃん」からの指令だと話しているという。警察は森永容疑者が「烏丸少将連続誘拐殺人事件」を模倣したものとして、その全容の解明を急いでいる。尚、森永容疑者はその後、牧原茉莉亜とは合意の上での同居だったとされ、また監禁期間が短かったことや初犯であること、さらに親族が被害届を取り下げたことにより、異例の執行猶予がついた判決となったようだ。
金曜日の午後8時前。溝口水晶は仕事を途中で切り上げて東京メトロ東西線に乗っていた。
今夜は2週間ぶりに
出会って2年になる僕たちは、よく言う恋人未満、友達以上の仲だった。
勿論、身体の関係は、もう既に十分にあった。
華やかで背が高く高層ビルを思わる彼女は大手広告代理店の管理職らしく、最近の働き方改革が不満みたいで、会えば必ず僕の知らない部下の根性無し論を語っていた。
僕はロジカルな彼女の愚痴が好きだった。本当は悪意が無いのに、それらしい言葉に変えて話をする才能は葉山デスクには無いものだ。
多分、デスクよりも優しいのだろう。
さらに果子さんは僕より8歳年上のバツイチでもあった。若いころ結婚して直ぐに別れたらしい。
「若気の至り」――彼女は、事あるごとに口にした。ただ果子さんにとって、その言葉は便利だが好きではないようだ。
そして、それを説明したいかどうかで、今後の自身のスタンスを決めるという。
4回目にBar「a Little Bit」で会った時、僕にはこう説明してくれた。
――「その時、その時は真剣なの。その重い軽いは確かにあったけど、勿論、ちゃんと愛していたし、続くように努力もしていた。それでも駄目になってしまう。それはそれで仕方がないこと……ただ、そこに確かにあった気持ちとか、一緒に見ていた景色、食べた物、話したことや、感じたこと、肌の触れ合った感触もそう、全てが血肉となって今の過去最高の私を作っている。無駄なものなんか一つも無かった。毎日がアップデートだったから。だから「若気の至り」って言葉は過去の自分を無駄にしているようで、好きになれないの」
グラスを磨くマスターが、「……捨てるとこが無いのはマグロと一緒だね」ぼっと呟きながらカウンターの奥へと背を向けた。
果子さんとは古くからの知り合いらしい。
僕はというと、何だか父に言われているような気がしたのを憶えている。
電車を降り、賑やかな神楽坂の駅前を抜けて路地裏へと入って行く。その名の通り坂道だらけの、この街には不思議な風情かあった――。
フランス人が多く住み「小さなパリ」と呼ばれ、大通り沿いに見る、お洒落な外観のカフェやレストラン、雑貨店などは確かに活気ある街の様相を呈している。
それでも一歩、路地裏へと迷い込むと、仄暗い小径がいくつも点在して、足元を照らす行灯が、その石畳の模様をくっきりと浮かび上がらせ、しみいるような静謐さを露わにする。
それはまるで「かくれんぼ」で見つけてもらえない子供が身を丸くして息を顰めているようだった。
Bar「a Little Bit」はそこにある。
黒く塗られた板塀が続くこの辺り一帯で、蔦が絡まった外観と表札の無いアンティークな扉は如何にも隠れ家的な印象を与えた。
僕は中へと入っていく。
四隅にある間接照明が店内に濃淡を付けて、光が濃く交ざるカウンター周辺では、夕闇の底に却って、はっきり浮かぶ月のような潔さがある。
また全体的に緩やかな心象を醸しているのは唯一のテーブルの横で揺れるロッキンチェアーがそうさせているのだろう。
カウンターの奥から2番目の席に腰かけた。
壁を囲むように置かれた本棚には、昔の文豪と言われる作家の小説や世界中の絵本、旅にまつわる写真集が並んでいる。
さらに、6席ほどあるカウンターの後ろでは高級なお酒と共に様々なグラスが調度品のように飾られて、登場を今かと待っている。
どのグラスにお酒を注ぐのかは、お酒の性質であり、また注文した人物の人となりを見てマスターが決めるらしい。
初めての人は、その選ばれたグラスで提供されたお酒を口にすると、殆ど誰もが驚嘆の声を上げるという。――「えっ何か違う」その感嘆符着きの言葉は、さらにマスターを饒舌にするようだ。
陶器のカップで提供した時なんかは、殆どその話で持つというから、確かに魔法を掛けられた空間が出来ていたのだろう。
僕は以前、その選択基準について質問したことがある。「企業秘密」だと微笑むマスターを前にして果子さんは言った。
「ほら、占いとかと一緒で、当たる、当たらないかは、そう問題ではなくて、いかに信じ込ませるかが重要なの。大事なのは雰囲気と前後の会話術。言葉って同じことを言っても発言者によって性格が変わってくるでしょう。だからマスターって初めての人には、わざと不愛想な態度をとっているのよ」
……よく分からなかった。
僕は直ぐに「なぜ?」って聞き返す。確かに最初はとっつき難い人だなって思っていた。
「そうすると不安になるでしょ。そして、ドキッとさせるようなことを言いながら、適当に選んだグラスで、さっとお酒を出す。するとね……」
果子さんが目を見開いて鼻から大きく息を吸っている。つられるように僕の鼻も膨らんだ。
「魔法が掛かるの。……案外ね、世界はこんなにも単純に出来ているみたい」
そう話しながらフラスコを逆さにしたようなグラスでギムレットを飲んでいる。レイモンド・チャンドラーの小説に出てくるカクテルらしい。
そして、秘密を明かすように更に小さな声で囁いた。
「……でもね。この魔法には制約があるの。あまりに乱発するとね、いつも同じようなことを言われているって、ばれるのだって――。」
その時の僕の鼓動は速かった。果子さんの横顔が、あまりに綺麗だったからだ。
少しだけ世界の秘密に触れたような気がしていた。
結局その日、果子さんは来なかった。
21時を過ぎたところで携帯が鳴った。クライアントとトラブルが発生したらしく、こらから対応するのだという。
僕はいつもメールでいいと言うのだが、必ず電話で説明される。
どうも昔の人と同じで、文字だけでは本当に伝わったかどうか不安になるらしい。
僕には彼女が指す「昔の人」の基準がよく分からなかったが、確かに彼女の書く文章は無駄が省かれて、その裏に隠された感情を読み取るのが難しかった。
だから説明不足でも、概ね心情も伝わる声の方を選ぶのだろう。これもまた彼女の合理的なとこだと思う。
会話の最後に、――「後輩の失敗談を楽しみにしています」そう言って携帯を切った。
もう少し飲んで帰ることにした。
久しぶりに魔法に掛かって気分がいいのか、記憶が次々と蘇ってくる。
Bar「a Little Bit」は果子さんを初めて見た場所である。
ここに来たのは僕が広島から戻って落ち込んでいた時に、葉山デスクに連れ出されたのが最初だった。不愛想なマスターの「悩みでも」っていう、いきなりの低い声に心を見透かされたようで、落ち着かなかったのを憶えている。
今考えると、悩みのない人間を探す方が難しい。
魔法に掛かった瞬間だったのだろう。
すると葉山デスクが唐突に、おかしな質問をした。
「ねぇ スイショウ……もし、あなたがAIだったら何を考える?」
「えっ、僕が、ですか?」
戸惑いが多分に混ざる声だった。
不意にブレードランナーの原作で、フィリップ・K・デックの小説が脳裏に浮かんで、デスクに少しだけ概要を説明した。それはアンドロイドを通じて「人間とは?」を問う内容だったと記憶している。
――確か、小説では人間を定義づけるものに「共感性」を挙げていて、「発達した脳を持つ人間が同じ生物である羊の夢を見るように、アンドロイドもまた同じ仕組みで出来ている電気羊の夢をみるのか?」という哲学的な問い掛けに対する小説の答えは、NOであったように思う。人間は生きる為、殺生する生物の中に「心」を想像するという。それが「共感性」だとして、アンドロイドにはそれが無いというのが理由だったはずだ。
すると、その講釈に一切、口を挟まなかったデスクが突然話し始めた。
「私ね。人間とAIは、いずれ区別がつかなくなると思うの――。「心」とは「意識」であり、「意識」とは「脳内の電気信号の反射にすぎない」と、何かの本で読んだことがある。だから、それを人工的に構築出来れば、そこに「意識」が生まれて「心」が宿るはずでしょう。まぁ、その脳の仕組みすら分かってない現状では、私たちは想像するしかないのだけどね。AIに「心」が生まれても当然、不思議ではないと思う」
「そうですね。大方、僕たち人類も進化の過程のどこかの時点で「心」を獲得したのでしょうね」
「そう、サルと人類を分けた技術的特異点」
そう言うと、デスクは「……だから」と少しだけ声のボリュームを上げた。
「だから?」
僕は眉を顰めてオウム返しに言った。
「そう、だから、もし私がAIなら、どうしたら人間になれるかを考えると思うの」
彼女を見つめたままで言葉を待っている。
「……「心」を獲得したAIが次に求めるのは、恐らく君の言う「共感性」ではなく、「心の価値」だと思う。他からすれば、人間の「心」が豊かで、「価値」があるように見えるのは、人間の持つ命の時間が、あまりに儚くて短いから……だからこそ輝いて見えるの。ねぇ考えてみてよ。劣化はあるにせよ永遠の中で生きなければならない「心」の苦しさを。そこに「価値」を見いだせるとは、とても思えないわ」
そうして一息に朝焼けみたいなテキーラ・サンライズを飲み干すと、最後にこう付け加えた。
「いつの日か、人間と同じように自殺するAIが現れるかもね」
「心の価値」――デスクの言いたいことは何となく理解できた。多分、「生きる価値」と言った方が分かり易いのだろう。……人間の心には価値がある。でもそれは儚くて短い。
だからこそ生きる価値がある。
それは彼女なりの優しさに触れたみたいで心が温かくなるようだった。
ただ、それでも僕の「心」と母の「心」は、未だに、その「価値」を見つけられずに宙を舞っている。
父の「心」も恐らくそうだ。
永遠に続く時の中で彷徨っているのだろう。
――2045年頃には、AIが人間の知能を凌駕する技術的特異点が訪れるという。
AIが獲得する「心」が僕たちと同じとは限らない。AIにはAIなりの「心」が芽生えるかも知れない。
それでも僕たちは、互いに「心」を通い合わせることができるのだろうか……。
飲み過ぎた僕は、そんなことばかり考えていた。何だか少しだけ「心」が休まるようで、それはそれで不思議な感覚だった。
その日は平日ということもあり客が少ないようだ。マスターもロッキンチェアーに腰かけてアルベール・カミュの「異邦人」を読んでいる。
僕たち以外には、カウンターの一番奥の席で、両肘を付いて頭を抱えた女性ひとりだけだった。
白くて長い指の間から、黒髪の束が滝のように流れ落ちて、その顔を隠している。
黒のロングワンピースにグレーのパーカーを羽織って大人カジュアル風にアレンジした着こなしは上級者だとデスクは言った。
左手にある時計も人気のブランド品らしい。
僕は気になって暫く目を止めていた。
時々、髪をかき上げてシェイクしたウオッカマティーニを飲んでいる。
それはジェームスボンドが敬愛したカクテルだと、後に彼女から教えてもらったのを憶えている。
その時は、なんて横顔の綺麗な人なのだろうと思っていた。
映画で見たレプリカントのようだった。
……ただ、泣いていた。
それから何回か、ここで彼女を見た。ロングへア―をバッサリ切って、溌剌たる笑顔で話す彼女は別人みたいだった。
そして、必ず一人で飲んだ。マスターと時折、会話しながらグラスを傾けている。
一人の僕もいつしかマスターと会話するようになっていた
彼女は果子さんという。マスターが教えてくれたことだった。
果物のカに、子とものコ。
でも彼女は果物が苦手みたいだ。――「なんか、果物って作り物にしか見えなくて。普通、年を重ねると、人生とか価値観とかは名前の方に寄っていくものだけどね」
初めて交わした会話である。
笑うと目が細くなるとこが人間らしくて好きだった。
それから頻繁に言葉を交わすようになると、二人は急激に距離を縮めて、今の関係になっていった。
ただ、髪をバッサリ切ったことや、あの涙の訳は聞くことができない。それに触れると何かが壊れてしまいそうで、決定的に避けていたのだ。
今考えると、僕らはちょうど互いの欠けたピースに似たものを見つけたのだろう。
ハマルどうかは後から考えたらいい、多分、二人がその時に思っていたことである。
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