星のランプに手が届く。

 昼下がりの新宿。久保あきらは田舎の公営住宅で目にするような階段を上がっていた。

 これ程までに息が上がったのはいつ以来だろう、スーツを着た背中が汗で、びしょびしょに濡れている。

 革靴の音がカンカンと鳴り響いた。

 このビルは空き部屋が多いせいなのか、人の気配をあまりに感じない。緊張しながら指定された505号室へと足を進めた。

 

 数週間前の、あの少女との邂逅は創作意欲を湧き立たせるものだった――。

 確かにあれは久々の気持ちと行動との紐帯だったように思う。そして次回作の材料になるようにと、「占い」とか「魔術」「呪い」「禁術」の類を無作為に検索していく中で、此処がヒットしたのである。

 

 ――「未来想定師・空想たける事務所」

 ここは占いの類の店らしく、また人気かと言えばそうとは思えなかったが、何となく引かれるものがあったのも事実である。

 そして、メールで何回かやり取りをして、今日の予約に漕ぎつけたのだ。

 但し、日時や時間、その恰好から道順、はたまた当日の朝、口にするものまでが事細かく条件として添えられていた。


 歌舞伎町の人込みを抜けて、1丁目のドンキの裏手を真っ直ぐに行ったところ、高速道路の高架が見えてくる。それを超えて乱雑に入り組んだ住宅街の中にそのビルはあった。

 都会のエアスポットの如く、辺り一帯は、まだ日が高いにも拘わらず道路は湿ったように黒ずんで映った。

 両脇に並ぶ建物は比較的古いようで、所々に空き家も見て取れる。人通りも少なく、車の往来もさほど目にしない、まさに閑散とした場所である。また、息苦しい感じを与えたのは、無数の電線が蜘蛛の巣の如く空を覆っていたからであろう。

 久保あきらは剥げかけた歩行者線の上を辿るように、そのまま進んで個人商店の脇にある細い通りに入っていった。

 丁度、空き地の横に見える鈍色の壁がそうなのだろう。殆ど名前の記載がない郵便ボックスの奥に幅の狭い階段が見えている。


 ○○事務所、そのイメージとは程遠いもので、505号室は外観も当然アパートの一室みたいで生活臭が漂うようだった。

 勿論、看板などは見当たらない。ドアは閉ざされていたが覗き穴から漏れる光と人の声に、一応は営業中であることが分かった。

 呼び鈴を鳴らした。 

 ――30秒経ってからL字型のドアノブを回す。事前に指示されたことである。

「鍵は掛かっていないので、ご勝手にどうぞ。向かって右の部屋にいます。但し条件があります。その部屋に入るときは、一旦、ドアの前で足を止めて、瞬きをせずに、そのまま30数えてからお入り下さい」

 携帯を取り出して、そう書かれたメールを読み返した。


 ドアを開けると、もわっとした異国臭が鼻を突いた。

 顔に熱い吐息を掛けられたようで、嘗て仕事でアジアの空港に降り立った時のことを思い出す。それは赤道が近くにある国特有のものだった。

 西日が射す中、随分と急なタラップを降りていったのを憶えている。


 久保あきらは中へと足を踏み入れた。

 靴を脱がないのも約束事の一つである。

 そこはぬるく冷房の効いた8畳程のフローリングで、天井から吊るされた4つの丸い蛍光灯がやけに白々しく部屋を照らしていた。

 まず目に入ったのは正面にあるカーテンの無い窓越しに見えるベランダだった。

 物干し竿は架かっているものの洗濯物は見当たらない。

 中央にある大きめのテーブルの上には紫色の小さな実を付けた植物が飾ってある。周りに椅子が一切ないのが妙だったが、違和感をまるで覚えない。

 さらには机上に撒かれた数枚の白黒写真が、いや応なしに目に入る。

 ――『手刀で腹部を切開し、その切り口から手を入れて内臓のようなものを取り出そうとしている写真』『人の右目に人差し指を突っ込んで眼球を弄っている写真』『口の中から幼虫みたいなものを引き摺り出している写真』

 余りの不快さに胃の奥の方から朝食に指示されたレバーが込み上げてくるようだった。

 ただ、それらをどこかで見た気がする。

 さらには突然、直に床に置かれた60インチのテレビから大きな音をたてて「Oasis」のPVが流れ始めた。

 大方、外に漏れていたのはこの音なのだろう。 

 

 右側の部屋をノックした。

 ――「どうぞ」微かに男性の声がする。

 指示されたように瞬きを我慢して30数えて入っていく。そのカウントは軽快なリズムと相まって跳ねるように数えた。


 占い師と言えば、よく日本最古のとか、何々の母や父、また奇跡の鑑定士、何とかマスターなど様々な冠が付くようだが、この先生の売りは、「少々の未来想定」といったものである。

 久保あきらは「予想」ではなく、「想定」としたところに、ビックデータ的なものや、深い見識、何らかの根拠みたいなものを頭に描いて、奇術的ではなく、あくまでも科学的な施術のようなものを期待していたのだ。

 そしてそれは驚くべきものであった。


「……失礼します」

 まずは寒さを感じた。しかも真っ暗である。

 先程いた部屋が余りに明るすぎて目が慣れないせいか、何も見えない。それでも確かに彼の存在はある。

  

「左手に椅子がありますから、お座り下さい」

 隅の方から声がした。段々と縁取られてきたその人物は、部屋の奥の方にいるようだった。

 壁に沿って置いてある椅子を手探りで引き寄せて腰掛けた。

 よく見ると全ての壁が黒く塗られているのが分かる。

 空想たけるは何かを書いているようだった。


 ――「何を書いているのですか?」


「あなたの人となりです」

 空想たけるは言った。ある程度、年配の方みたいだ。


「それで、何かわかりましたか?」


 空想たけるは暫く黙っていた。その間も鉛筆か何かが紙の上を滑るシャシャシャという音だけが聞こえてくる。

 何だろう。マンガでよく見る自動書記みたいだと思った。意思とは別にその手は動いているのだろうか、迷いのようなものが、その音からは一切感じ取れない。   

 すると、ふと気付く。先程の写真は子供の頃、テレビで見た心霊手術であると……

 ああ、それはもう嫌な予感でしかなかった。汗が全身に湧いてきた。


 目が段々と慣れてくると、彼が床に胡坐をかいていることが分かった。

 ただ、形が少し変である。よくよく目を凝らすと、ムスリムの女性がしている黒色のブルカのようなものを頭から被っている。

 それが小さな山のように彼を模って見せたのである。

 低い声で話し始めた。


「……ご存じでしょうか。世の中にある『善と悪』、『美と醜』、『理性と信仰』それぞれを天秤にかけると、全て丁度、うまい具合に釣り合ってしまうことを……いつの世も悪魔の仕業としか思えない疫病が憚り、性懲りもなく醜いいざこざが幼子の命を奪う。信仰は必要以上に未来を煽って、人々を盲目にして徒党を組ます。明らかに後者の方が蔓延っている筈なのに、何故こんなにも釣り合ってしまうのでしょうか。余りにも不公平に思えます。そうです。賢明なあなたならもうお分かりでしょう。それは死という存在を前にすると、全てがすべてZeroを掛けたように、急に重さをなくしてしまうからです。いくら跋扈して、重なり、連なり、産み、増えようとも結局は無となってしまうのです。破壊神フィリップは言いました。生を受けた時点で、既に死とは愛し合っていた。そして、その全てに於いて当然であるが故、その愛を放棄した。その証拠に貴殿は死ぬことを考えたことが有りますでしょうか? つまりは……」

(※後に分かるのだが、これらは早川夭介「論記文・死生について」(民生書房)で、主人公が言った台詞を抜粋したものであった)

 ――唯々、その時は心に深く突き刺さっていたのである。


「……つまり」

糸のような声が久保あきらの唇にのぼった。


「そう、つまりは死を視点にして物事を見つめない限り、本当にあなたが見たいものが見えないということです」

(※これも「ビビを見た!」という絵本の解説で作者の大海赫が後書きに書いたものである)

 それはずっと考えていたことの答えのようであった。すぅーと腑に落ちていく自分がいる。


 すると、空想たけるは言った。

「あなたは近いうちにその目を開くことになるでしょう。本当に見たいものは目に映るのではなく、あなたの脳が決めるのです。人はそれを意思とも覚悟とも選択とも言います。さぁ、理解出来たのなら、今は目を瞑って出て行きなさい。もうお会いすることもないでしょうから……」


 暫くして目を閉じてから腰を上げた。胸の鼓動が痛いくらい高鳴っている。


 ――唐突に彼の気配がしなくなったのを感じる。はっと思い、目を開いて暗闇を探るように部屋を見回したが誰もいない。

 何だか人の夢にいるみたいだった。

 ただ、床には黒いブルカが抜け殻のように皺を作っている。幾つもの汗が首筋を這ってシャツの中へと垂れる。

 やけに息苦しいのは気のせいなのか。やはり、いつの間にか消えていたのである。


 空想たけるは、自身がトランス状態であるように見せることで、相手を支配していたのだ。あの真っ暗な部屋や明る過ぎる部屋もそう。

 事細かな指示、机の心霊手術の写真、彼の格好、ビルまでの道のりさえ、その演出の一部なのだろう。

 さらに新宿という場所が、そうした土壌が、彼の占いを受け入れ易くしている要因でもあるように思えた。

 後で気付いたのだが、あの時は異常なまでに汗を掻いていた。恐らく彼は途中でクーラーを切ったのだろう。

 ああ、それさえ身体の異常な変化として捉えて、躓きの小石としたのである。

 今日体験したそれら全ては、本来は好んで否定し、看過すべきものであったが、久保あきらは心酔していくのを止められないでいた。


 本当に見たいものを見てみたい。そんな有様ばかりが頭の中で明瞭に描かれる。







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