5月中旬のこと
ノートパソコンを前に打つ手は止まる。
アイスコーヒーは雨水を溜めたようで、もうとても飲む気にはなれない。
ストローを指で弾いていると隣で伏せていた女が大きな音を立てて席を立った。
終電はとっくに終わっている。
深夜のTSUTAYAから見下ろす風景は、久保あきらの目に渋谷そのものを映すようだった。
欲望を孕んだ一枚の、――この絵画は騒がしいのに不思議な統一感がある。
多分、バラバラだけど皆同じグループなのだろう。
ショートメールの着信音が鳴る。テーブルに裏返していた携帯を取った。
――「29番様へ 珍しいグリーンの毛をした片足の猫を捕まえました。是非この機会にお飼い求め下さい。会員の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げます」
ある夜、雑踏の中、長い口付けを交わした男が自転車で交差点を颯爽と横切っていった。掌を振り終えた女も後姿を見送りながら交差点を駅へと人込みに紛れていく。
その白いワンピースの女は黒髪の頭と同じぐらいのバッグを肩から下げている。
すぅーとスーツ姿の背の高い男が近寄ってきた。並ぶようにして暫く歩くと二人は足を止めた。
男は外人が見せるような仕草で両手を大袈裟に動かしている。女は組んでいた腕をだらりと解いて男の右肩を叩いて笑う。
そして、二人して寄り添いながら渡った交差点をセンター街へと戻って行った。
その一方で、Free Hugsと書かれた看板の前でチェックのネルシャツを着た小太りの青年が笑っている。
金髪の白人女は掲げていた看板をアスファルトに逆向きに下ろし、隣の日本の若者と談笑する。
あなたのことは見えていません。そう態度で語っているようだった。
それでも青年は白人女を見て笑っている。看板は既に意味をなさない。
青年が近づき何かを言う。
彼らは一斉に青年の方を向いた。
3人で協議が始まったのが面白い。何語で話しているのか気になったが、暫くすると白人女が青年の背と同じ程度に膝を曲げて両手を広げた。
Tシャツの下にある豊満な胸の形がくっきりと浮かぶ――。
すると、青年は躊躇なく白人女の胸元に飛び込んでいった。
私は、その体勢にテレビで見た相撲部屋の朝稽古を思った。
――青年は抱き着いたままで離れない。両手を白人女の脇の下に入れ胸元に顔を埋めて擦りつけている。さらに自身の腰をグッと引き付けてから、太もも辺りでクイクイ動かすと、さすがに堪らず白人女は顔を歪めて声を上げた。
今度は日本語ではないのがはっきりと解った。
日本の若者が、二人の首筋に腕を入れて力任せに引き離す。
青年はその勢いのまま地面に叩きつけられた。
茹でたエビのように丸まる青年の腹に白人女がスニーカーの先で蹴りを入れる。小気味よく2、3回続けた。周りが携帯で撮り始める。
そして汚物が付いていないかと、しかめ面で確認する白人女のTシャツには、love & peaceの文字が躍っていた。
私は思った。悪いのは一体誰なのだ。
手にある携帯をテーブルに置いて、久保あきらは息をつく。
低い背もたれに寄りかかり距離が出来ると、ガラスには、ぼんやりと腕組みする自身が映っていた。
ずっと小説を書いている。そういえば昼間の風俗嬢も同じことを言っていた。
兄の書いた漫画を文章にしてネットで売っているらしい……。ただ、完売したと喜んでいた彼女の顔をどうも思い出せない。
始まる前、いつでも「かわいいね」って言う。聞こえてないのか白い背中の風俗嬢は両足の間に潜り込み膝に掌を合わせて、猫耳のカチュ―シャをした緑色の頭を上下に揺らし始めた。
――視線を産毛の生え揃った首筋から背骨に沿って尾骶骨までを舐めるように何度も這わす。それから邪魔にならないように、そっと頭を撫でてから両手を輪郭沿いにそのまま頬へと滑らせて、その頬の窪みを指の腹で確認する。
ああ異物が混入している。
女の薄い皮膚越しに確かに、あんなものがそこにあるのが分かる。
久保あきらは昔からそんなことに強く興奮を覚えるのだ。
そして、女の頬の窪みがさらに深くなったとき「なんだ。聞こえているのだ」そう思うのだった。
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