星のランプに手が届く。――君野二葉――

 それは祈りのようだった。

 久保あきらは穏やかに目を閉じた。本当に見たいものを見るために――。



2018年 10月9日 

 折から朝日が大地に射して、ミャンマー・バガン遺跡群は朽ちた葉色に照った。

「Bulethi」(ブレディ)と呼ばれる仏塔の上で、徐々に明ける地平と対峙するかのよう、目を細めるガイドのタンさんが震えていたのを憶えている。


「狂気とは同じことを繰り返しながら違う結果を期待すること。アインシュタインの言葉です。だからこの国は今、狂気に満ちています」

 彼が口にした流暢な日本語が忘れられない。


 私は、あの時と同じように掌に息を吹きかけた。

 雲の下半分が濃い色を付けている。多分、あの下には太陽があるのだろう。大きく息を吐いてから視線を返した。


 鼻歌が聞こえる。

 それは自身を鼓舞する祈り――。ビルの屋上を吹きすさぶ風を物ともしない強さがある。


 君野二葉キミノフタバは、しっかりと目線を前に置いてアキレス腱を伸ばし始めた。

 口遊んでいるのは「アルプス一万尺」そう、彼女はこれから星のランプに手が届くのだ。



 その姿を食い入るように見つめるルカに視線を移した。

 緊張しているのが瞬きの多さで分かる。体内にある物が逆流しそうなのは私も同じ。互いに掌を口に当てて小さく頷く。

 すると、二葉が膝を折って靴ひもを結び直した。その見覚えのあるシューズは吐き込まれたのが容易に想像できるほど元の色を変えていた。

 そしてやはりだが、二葉は青色のジャケットを着ている。


 空を飛ぶのにジャケットって邪魔にならないの?

 いつか聞いたことがある。……確か、あれは瞳に映る自身に言い聞かすような手話だった。


「ただのゲームよ。だからこそスタイルは大事なの。結果なんかよりもはるかにね」

 その横でルカが言葉にする。

 さらに、――「わたしの好きなマンガの受け売り。でもさすがにウェルテルのように褐色の長靴は履けないわね」

 そう続けたのだった。


 幼少期より耳が聞こえない君野二葉は言葉を持たない。正確に言うと音としてのそれが欠けている。

 ただ、そのしなやかな指先で紡がれる言葉の羅列には、どんな高尚な文章よりも煌びやかで、刹那的な響きが含まれていた。

 それをルカが上手に汲み取って音のある言葉に変えている。

 私はそんな二人のいつものやり取りに、よく言う「密接」とは少しニュアンスの違う何かを見ているようだった。

 敢えて言葉にするのなら、「両性具有」が一番相応しい気がする。


 着々と準備が整うにつれ、屋上のコンクリートに映る影が濃くなっていく。太陽は完全に顔を出したが、未だ、ここには一日の始まりを疑うような気配が充ちていた。


 ふと腕時計に目をやると、側頭部付近に二葉の視線があるのが分かる。

 ――午前7時ジャストに飛ぶ。これも彼女のスタイルなのだろう。

 顔を起こして、「6時40分」そう口を動かしてからノートパソコンを立ち上げた。



 事の起こりは、去年の5月に突然届いた一通のメールだった。

 その内容は二葉からの執筆依頼。

 ――あなたは断れないはずだと綴られた文章を今でも取ってある。

 そして、私はビルとビルの間をジャンプする聾唖の女子高生を書くことになった。

 ネットにあった。「悪魔とは既存の価値観を揺さぶり、選択を強いる者」二葉はまさにそれだった。小説家として倫理観と引き換えに悪魔と取引した。

 これを本にする。そう決めたのだ。


 6時52分。あと8分。ルカを見た。堂々とした態度に変わっている。

 覚悟が足りないのはどうも自分だけのようだ。正直、悩んでいた。職業作家として追い詰められていた。

 ――4年前、大手出版社の新人賞に応募した作品が賞を取り、会社を辞めて東京に出た。続けて上梓した旅行会社時代の体験談を綴った2作目も相応に売れた。自信と希望はまるで比例するかのようで、私の視線をどんどんと上げていった。

 ただ、そんなに甘くはない。灼熱の太陽に自慢の翼は見事に溶かされ、案の定墜落したのである。(……何を書いても意味が滑り落ちていく。イップスのようなものかな)

 今は唯々、渋谷のTSUTAYAのテーブルで、夜な夜な身を伏せて現状を嘆いている。

 そんな中で出会ったのだ。

 不協和音に似た彼女に興奮したのを憶えている。



 6時57分。二葉はすーと立ち上がり直立したままで目を閉じた。

 私はキーボードを打ち始める。彼女の一挙手一頭足を見逃さないように、用いる才能の全てでそれらを記録していく。

 佇まい、息遣い、額の汗、横顔、揺れる髪、周辺の様子、ルカの仕草――殊に、それらを出来る限り客観的に書いていく。

 そこに他人の主観が入るのは彼女が一番嫌がることだから。


 ルカが60秒前と声を掛けた。聞こえないはずの二葉が、はっと目を見開く。

 剥き出しの内臓を見せるようだった。そのまま暫く前だけを見つめている。

 その姿に「まるで未来を見ているようだ」と指が動いたところで、back spaceを連続で叩いてその文章を消去した。

 ふぅー客観的に、客観的に、客観的に、客観的に……そう心の中で幾度となく反芻する。

 ただ、私はその行為を「視る」という文字で書き留めた。それから、「彼女は神様の生贄なのか?」と疑問符をつけて唯一の感想を綴ったのだった。


 10秒前とルカが声を発すると、二葉はクラウチングポーズをとる。

 女子高生の走り幅跳びの記録保持者は6mを飛ぶと云う。彼女が飛ぼうとしているビルとビルの間は何メートルあるのだろうか?

 まるで飛べる像が結べない。ルカも無理だろう。それでも二葉なら……心臓が早鐘となって胸を打つと同時に悪い予感も顔を出し始める。

 ああ、一体どちらの二葉が見たいのだろうか? 

 激しく興奮する私が在る。


 すると、ルカが右腕を天に突き付け、その掌をぱっと開いた。可憐な花が咲いたようだ。

 白い花弁が一秒ごとに折れていく……フォー、スリ―、ツー、ワン、そして……GO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!と絶叫ながら手を振り下ろしたのを合図に、ついに二葉は低い姿勢のままで一歩を踏み出していった。



 コンクリートを這うように走る前傾姿勢に何故か実家で見たヤモリを想起した。

 二葉は大きなストライドで体を徐々に起こしながら加速していく。

 私は指を動かすのを忘れて食い入るように見ている。

 青色のジャケットが風を受けて膨らんだ。彼女の後姿が見えた時、あああ、右足でコンクリートを蹴った。

 その衝撃の強さが伝わる。


 二葉は大きく両手を振り挙げて午前7時の空へと飛び立っていった。







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