第23話 水着回(その二)
海の家でかき氷を食べたのち、千秋がトイレに行きたいと言うので、太郎もついでに連れションすることにした。
海岸線の道路沿いには公衆トイレが設備されている。
その男子トイレの小便器の前に立ち、太郎が用を足そうとしたところ――。
千秋はそそくさと個室の中に入っていった。
「千秋、ウンコか?」
「そ、そうじゃなくて……小のほう……」
ドアの向こうから千秋がそう返す
どこかバツが悪そうな声の響きだ。
「ションベンならこっちですればいいじゃん」
「そ、それはそうなんだけど……僕、海パンじゃないから個室のほうがいいというか……」
「そっか。じゃあ俺、外で待ってるからな」
ラッシュガードを着ていようが、小便器でおしっこはできるのではないか。
と思いつつも、太郎はひとまずおしっこを済ませ、トイレの外で待つことにした。
ほどなくして――。
「ねえねえ、知ってる? この海、出るらしいよ」
「なにが出るの?」
「幽霊に決まってるじゃん」
「この海でそんな噂あったっけ?」
女子トイレの中からそんな会話が聞き届く。
どうやら二人の女の子が、手洗い場で話し込んでいるらしい。
太郎はなんの気なしに彼女たちの会話に耳を傾けた。
「最近、失踪事件で戻ってきた女の子いるじゃん?」
「たしか西高の……ユクエダフメコ、だっけ……?」
そういえば、そんな事件を太郞も耳にした。
あれは氷華とはじめて出会った日のことだ。
厳鉄をぶちのめそうと旭山家に忍び込み、氷華の部屋でそんなニュースを見た。
太郞が地獄耳で記憶した事件の詳細はこうである。
『一年ほど前、北海道A市で失踪した女子高生、行方田歩芽子さんが、昨日の早朝、同市近郊の路上で発見されました。しかし、行方田さんは自分の名前や失踪時のことを覚えておらず、かなり衰弱しているとのことです。すぐに病院に運ばれましたが、胸部にはなにかで突き刺したような傷が二ヶ所あり、警察では事件と断定し捜査を進めていくとのことです』
彼女たちは、この事件のことを話しているのだ。
ちなみに、太郞は勉強の記憶力は並以下である。
「その行方田歩芽子って子が、精神不安定になってこの海で自殺したんだって」
「幽霊が出るっていうのは、その子のこと?」
「うん、恨めしや~、って、海に引きずり込まれるらしいよ」
「ちょっとやめてよ、あたし、幽霊とか超苦手なんだから」
そして彼女たちは、半ば冗談めかしてトイレをあとにした。
怪談話を信じているわけではさそうだ。
そんなところに、千秋もトイレから戻ってきた。
「ごめん太郞君、お待たせ」
「千秋、やっぱウンコしてただろ。ションベンにしては時間かかりすぎじゃね?」
「し、してないってば!」
「ウンコぐらいで恥ずかしがることないって。俺なんて毎日ブリッと――ん?」
そこで太郞は手のひらを上にして空を見上げた。
いつの間にか、ポツリポツリと雨が降っている。
お天道様もすっかりと顔を隠し、空にはどんよりとした雨雲が広がっていた。
次第に雨脚がどんどん強くなり、ビーチからも慌ただしく人がはけていく。
「千秋、ひとまず戻ろうぜ」
「うん」
太郞は千秋を連れ、駆け足でビーチに戻った。
しかし、そこには自分の立てたパラソルがあるだけで、ひとみと氷華の姿は見当たらない。
海の家に雨宿りに行ったのだろう。
そんなとき――。
「エリコー! エリコー! どこに行ったのー!」
波打ち際をおろおろと歩く中年の女性が、娘と思しき名前を叫んでいた。
そんな彼女は全身びしょ濡れとなりながら、海に向かって必死に名前を叫び続けている。
子どもが行方不明になったのだ。
しかし、海面を叩きつけるような雨脚なので、泳いでいる者は誰もいない。
太郞が海岸線に目を走らせても、それらしい子どもの姿は見つけられなかった。
そんなとき――。
「太郞君、あそこ!」
千秋が沖の方へ指を指す。
すると、二十メートルほど先の沖合で、子どもが手を伸ばして溺れかけている。
あの子がエリコだ。
「待ってろ! 今助けに行くぞ!」
太郞は競泳選手のように海に飛び込んだ。
正直、海で泳ぐのはこれがはじめてだ。
それどころか、波打ち際で波と戯れたことすらない。
しかし、太郞は血の池地獄で水泳の練習を積んでいる。
全身べっとりと血だらけになりながらも、血の池地獄で水泳をマスターしたのだ。
ゆえに、泳ぎになら自信がある。
太郞はトビウオのようにバタフライで水面をかっ飛ばした。
「もう大丈夫だぞ!」
幸い、女の子が溺れる前に救助に成功した。
小学校低学年ほどなので、胸に抱きかかえながら泳ぐことはできそうだ。
しかし――。
重い。
女の子が異常に重いのだ。
まるで大人を運んでいるような重さを感じ、なかなか思うように泳げない。
「足が……足が……お兄ちゃん助けて……足が引っ張られてるの……」
女の子は泣きながそう訴えた。
もしかして、海藻にでもからまっているのか、と思い、太郞は海面から女の子の足を覗き込む。
すると――。
女の子の足を引っ張っていたのは、海藻ではなかった。
海の中から恨めしそうにこちらを見上げる、長い髪の女が足を引っ張っていたのだ。
その女は学校の制服を着ているのだが、この世の者でないことは太郞にもわかった。
仮にも自分は閻魔大王の息子、それぐらいの見分けはつく。
これは間違いなく幽霊だ。
「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」
太郞は無我夢中で念仏を連呼した。
しかし、幽霊は成仏してくれそうにもない。
それどころか、瞳をグワッと見開き、よりいっそう怨念を強めている。
このままでは、自分まで海の底に引きずり込まれてしまうだろう。
「しかたねー! 強制浄化だ!」
強制浄化。
それは業火の炎で幽霊を強制的に浄化させるというものだ。
本来であれば、死者の霊魂は地獄なり天国へと運ばれる。
だが、強制浄化を執行すると、霊魂そのものが消滅し、二度と輪廻転生することはない。
とはいえ今は緊急事態、選択肢は一つに限られる。
それに太郎自身、負の作用で失われた力は、ある程度回復している。
いくら幽霊の怨念が強くとも、強制浄化が失敗に終わることはない。
「ピュリフィケーション!」
どこぞの女神様をマネしたわけではないが、太郞は強制浄化の詠唱を口にした。
そして、手のひらを幽霊に突き出し、業火の炎を解き放つ。
火炎放射のように解き放たれた、真っ赤に燃え盛る業火の炎。
それは幽霊の体を螺旋状に包み込み、煉獄という名の炎光を激しくスパークさせた。
業火の炎は物理的法則を凌駕する。
水の中であろうが、宇宙空間であろうが、決してその勢いが衰えることはない。
「ギエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
幽霊は断末魔の雄叫びを上げた。
まるで生きたまま火葬場の炉で焼かれるように、烈火の炎の中でもがき苦しんでいる。
太郎は「ごめん」と
おそらく、これは行方田歩芽子の幽霊だ。
彼女はなんらかの事件に巻き込まれ、精神を病んで海に身を投げた。
そして、成仏もできぬまま、この暗い海の底でさまよっていたのだ。
本来は成仏に導くのが己の務め。
それができないからこそ、太郎は深く憐憫の情を抱いた。
ほどなくして、すべてを焼き尽くし、行方田歩芽子の霊魂は無に帰した。
それを見届けた太郎は女の子を海岸まで運び、そして、嗚咽を漏らす母親に何度何度も頭を下げられた。
これでよかったのだ。
命を天秤にかけるわけではないが、女の子の命が救われたのだから。
その後、雨が止むことはなく、海水浴は中止を余儀なくされた。
帰りの車の中では、ひとみと氷華はソワソワした様子で一言も口を利くことなかった。
ハンドルを握るノボルは、「クソ、あのパチンコ屋、遠隔してんるじゃないのか」と、終始イライラを募らせていた。
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