第17話 婚姻の証
七月の終わりに差しかかり、夏休みがやってきた。
夏休みだとはいえ、居候の太郞は遊んではいられない。
朝から晩まで掃除や雑用が待っている。
それでも、千秋にもらったパソコンがあるので、シコシコと欲望を満たすことができた。
この家にきた当初に比べれば天国だ。
そして夕食後。
太郞がリビングで厳鉄にマッサージをしていたところ――。
「親っさん! 大変です!」
ノボルが慌ててリビングに駆けてきた。
彼がここまで動揺するも珍しい。
マッサージは一時中断。
太郎は厳鉄とともにあぐらで座り、ノボルの次の言葉を待った。
「家の前の道路に、どこかの組と思われる車が!」
「なんだと!? どんな車だ!」
厳鉄の顔に緊張の色が走る。
「黒塗りのベンツです!」
「カチコミか!」
厳鉄はリビングに飾られた日本刀を手に、玄関から外にすっ飛んでいく。
ちなみに、あの日本刀は模造刀ではなく真剣だ。
今はそれについてツッコミを入れている場合ではない。
太郞もノボルと一緒に鍋の蓋を持ち、厳冬に続いて家の前の道路に急いだ。
するとそこには、ピカピカに光った黒塗りのベンツが駐車していた。
ベンツに罪はない。
ベンツ=ヤクザというのは大きな間違いだ。
しかし、ヤクザの家の前に駐車しているベンツは、限りなく怪しいベンツである。
そんなとき――。
後部座席のドアがひらかれ、そこから見慣れた顔の男女が降りてきた。
男のほうは、父の閻魔大王。
女のほうは、母の閻魔万寿。
太郎の両親にして、地獄界トップに君臨する最強の二人である。
そんな父と母は、ヤクザの襲名式に出席するような黒い和服に身を包んでいた。
運転席に座る、サングラスをかけたダークスーツの男、あれは部下の鬼だ。
鬼はその妖力を使い、人の姿に変身することができる。
「ど、どうして……父ちゃんと母ちゃんが……」
父と母にギロリと睨まれ、太郎は震える声を漏らした。
手にした鍋の蓋がアスファルトに落ち、カラン、とむなしく音を立てた。
ノボルは今なお鍋の蓋を構え、緊張した面持ちで情勢を見守っている。
そこに厳鉄が鞘から日本刀を抜き、それを突きつけてこう問うた。
「て、てめーら! どこの組のもんだ!」
その声色にも狼狽の色が見て取れる。
それもそのはず。
閻魔大王は厳鉄をも凌ぐ体格をしており、その身長は二メートルを優に超えている。
いつもの道服とは違うので、冠帽子は被ってはいない。
頭はさっぱりした五分刈りヘアだ。
それでも、山羊ヒゲをもてあそぶその姿は、他者を圧倒するほどの貫禄を醸し出していた。
そんな閻魔大王が太郎を指差して口をひらく。
「ワシは閻魔組の組長、閻魔大王だ。そこにワシのバカ息子もいる」
その言葉を受けて、ノボルと厳鉄が太郎に方に振り向いた。
「太郎……おまえヤクザの息子だったのか……」
「おいチンカス……閻魔組って、神戸あたりの暴力団か……?」
二人はなにか勘違いをしているらしい。
場所はリビング。
テーブルを挟んだソファセットでは、両家の親同士が顔を向かい合わせている。
カチコミではないとわかり、厳鉄が二人を招き入れたのだ。
太郎はキッチンテーブルからそれを見守り、氷華もその隣で固唾を呑んでいた。
ケルベロスはどこにも見当たらない。
おそらく、二階の物置がどこかで、しっぽを丸めて震えているのだろう。
「ねえ、太郎、あんた家出してきたんでしょ? なんで居場所がバレたの?」
氷華の言うとおりだ。
しかし、太郎には思い当たる節があった。
「たぶん、日本地図に刺さったダーツの場所を見て、俺の足跡を辿ったんじゃないかな」
「まったく意味がわかんないんだけど」
「そんなことより、あの二人、なにしに人間界までやってきたんだ?」
頭にハテナマークを浮かべる氷華をよそに、太郎は疑問を巡らせた。
連れ戻しにきたのなら、二人一緒に来る必要はないはずだ。
いや、それだけなら、部下の鬼を寄越すだけでこと足りる。
服装もやけに堅苦しい和服を着ているし、なにかべつな目的があるのかもしれない。
「粗茶ですが」
そこへ菊代ばあさんがお茶を差し出した。
それを合図にしたかのように、厳鉄が最初に口をひらいた。
「ところでお二人さん、用件はなんだ?」
「うちのバカ息子が世話をかけて申し訳ない。その礼も兼ねて挨拶にきた次第だ」
「うちの息子が大変お世話になっております」
閻魔大王は数センチ頭を下げた。
その隣では、妻の万寿がしおらしく腰を折る。
二人がここに来る前から、すでに居場所はバレていたらしい。
「いえいえ、いいんですのよ。一人ぐらい増えたところで、うちはなんにも困ることはないんですから。女性の下着を被るのは困りものですけど。オーホホホ!」
志麻は奥様言葉で高らかに笑い声を上げた。
キッチンの片隅では、菊代ばあさんが頬をポッと赤く染めている。
パンツの件もすでにバレていたらしい。
「ねえ太郎、お母さん、なんのことを言ってるの?」
「い、いや……俺にもちょっとよくわからないな……」
太郎は冷や汗タラタラではぐらかす。
というか、これ以上志麻が暴露すると、両親から末恐ろしい罰を受けることになる。
幸い、その心配は杞憂に終わり、閻魔大王が本題を切り出した。
「うちのバカ息子を、もうしばらくこの家に置いてはくれんか。人間界についての勉強にはちょうどいい。不自由のない地獄界にいても、バカ息子の成長にはならんからな」
ふざけるな、と太郞は思う。
パソコンを破壊され、なにか悪さをすればすぐに飯抜きだ。
自由なんてあったものではない。
そんな地獄界にいるよりも、この家で暮らすほうが百倍も幸せだ。
「しかしな……おまえさんは本当に地獄の閻魔大王なのか……? どうも信じられん……」
厳鉄は首をう~んと捻って腕を組んだ。
一応、太郎も家の者には秘密を打ち明けている。
しかし、それを信じているのは志麻と氷華の二人だけである。
「なら、証拠を見せてやろう」
閻魔大王は立ち上がり、庭に面した掃き出し窓をひらいた。
そして、「ハァッ!」と気合いを一発、庭に向かって手のひらをズンと突き出した。
すると――。
掌底から龍の姿をした炎が噴き出し、それは庭の松の木にとぐろを巻いてからみつく。
松の木は瞬く間に燃え上がり、木炭と化して根元から崩れ落ちた。
そして、龍の炎は天を駆け抜け、日没した薄暗い空に溶け込むように消えていった。
業火の力の一つ、その名も『炎天龍』である。
ちなみに、太郎が勝手に命名したわけでない。
これが正式名称だ。
「これで信じてもらえたかな?」
閻魔大王そう言って、さも当然のようにソファに座り直した。
それに対し厳鉄は、口をポッカリと開け、ピンポン玉さながらに眼玉を飛び出させている。
業火の力に驚いているのか。
はたまた、植え直したばかりの松の木にショック受けているのか。
それは太郎にもわからない。
「ところで、そこのお嬢さん」
と、母の万寿がおもむろにキッチンの方へ顔を向けた。
その視線の先にいるのは氷華であり、そんな彼女は「ヘ?」と自分を指差した。
「あなた、うちの息子と口づけを交わしたのですか?」
万寿の問いを受け、真っ先に反応を示したのは太郎だ。
ビクンと背筋を伸ばし、黒目を泳がせて母と氷華を交互に見やる。
なぜ万寿が唐突にそんな質問を放ったのか。
キスの事実を知り得ているのは、キスをした本人同士だけなのだ。
ただ、氷華はあの日の出来事がなかったかのように振舞っている。
釈然としないその理由はさておき、万寿がキスのことを知っているはずがなかった。
「ほ、ほっぺにならしましたけど……」
氷華はモジモジしたようにうつむいた。
先日、タマタマが死にかけたとき、太郎は彼女からほっぺにキスをされた。
それは紛れもない事実だ。
「頬にではありません。うちの息子と唇を重ねたのかどうかを訊いているのです」
「そ、そんなことありません! あたし、ファーストキスだってまだなんです!」
氷華は胸の前で両手をバタつかせた。
やはりこの様子は変だ。
彼女が嘘をついているとは思えない。
だが、太郎はキスしたことをちゃんと覚えている。
激烈な愛の告白を受け、お嫁さんにしてとまで言われたのだ。
「それはおかしいですね? あなた、自分の髪をごらんなさい」
「え、髪ですか?」
氷華は肩にかかった髪を手つかみ、目の前で毛先を確かめた。
「ちょっと日に焼けちゃったかな? 髪の色が少し赤くなっているような……」
「それは日に焼けたのではありません。うちの息子と口づけを交わしたことで、婚姻の契約が結ばれたのです。これから髪はさらに赤くなり、私と同じく、燃えるような赤髪へと変化するでしょう」
万寿は淡々とそう述べると、後ろでまとめた赤髪を手で撫でつけた。
まさに青天の霹靂。
実の息子の太郞ですら、そんな隠しコマンドは一度も耳にしたことがない。
もし、菊代ばあさんに寝込みを襲われ、ブチュッとキスでもされようものなら、シワクチャのババアと結婚してしまうところだった。
これが男に適用されるかどうかはべつにして、ノボルにもその危険性がはらんでいる。
一歩間違えば、スキンヘッドの強面のおっさんがお嫁さんになるところだったのだ。
太郞はそんな二人のウエディングドレス姿を頭に思い浮かべた。
さすがにもう我慢がならない。
太郞はキッチンテーブルを両手で叩きつけ、ちゃぶ台を返す勢いでイスから立ち上がる。
「母ちゃん! なんでそんな大事なこと黙ってたんだよ! 俺にだって結婚相手を選ぶ権利があるんだぞ!」
「これも試練の一つです。あなただけではなく、歴代の閻魔大王もそうしてきました」
「ざっけんな! キスしたぐらいで簡単に結婚が決まってたまるかよ!」
太郞がそう言い放つと――。
「どうせあたしが寝てる間にあんたが勝手にキスしたんでしょ!」
氷華が目尻に涙を浮かべ、瞳をキッと吊り上げた。
このままでは自分だけが悪者になってしまう。
ゆえに、太郎はあの出来事を彼女に突きつけることにした。
「キスを誘ってきたのは氷華のほうなんだぞ!」
「あたしがそんなことするわけないじゃない! 適当なこと言わないでよね!」
「神社でのこと忘れたのかよ!」
「神社もへったくれもクソもないわよ! あたしからキスを誘うなんて絶対にありえない! あんたが夜中にあたしの部屋に忍び込んでキスしたんだわ! 太郎のバカ!」
そして氷華はキッチンからリビングを走り抜け、ドタバタと階段を駆け上がっていった。
状況は最悪だ。
ある意味、これは公開処刑にも等しかった。
現に、すぐそこには、阿修羅と化した二人の父親が佇んでいる。
「おい、太郞。おまえは人様の大切なお嬢さんに、とんでもないことをしたみたいだな」
「この腐れチンカスが。俺様のかわいいかわいい娘に、なにしてくれたんだ? オウ?」
太郞は死を覚悟した。
この最強タッグの制裁を受けて、生きている者がいるわけがない。
次の瞬間――。
閻魔大王の鉄拳アッパーが太郞の顎を貫いた。
それと同時、厳鉄の弾丸シュートが太郞の股間を蹴り上げる。
そして、太郞は一階から二階、三階の天井を突き破り、空の彼方まで打ち上げられ、星のようにキラリンっと輝いた。
翌日のお昼時。
太郎はひとみと共に近所のファミレスにいた。
氷華のことを相談するため、彼女をここへ呼び出したのだ。
もう頼れるのは生徒会長しかいない。
「それで、どういった相談だ?」
ひとみはそう問い返し、フォークに巻いたパスタを口に運んだ。
今日の彼女の服装は、Tシャツに膝下を出したクロップドパンツ姿。
学校の制服や巫女装束を着ている雰囲気とは違って、親しみやすいような印象を抱く。
太郎もカレーライスを食べながら、相談事を切り出すことにした。
「じつは俺……氷華と結婚することになっちゃって……」
次の瞬間――。
ひとみの口から、ブシャーッ! とパスタが吐き出された。
太郎はそのトマトソースを顔面に浴び、血だらけの死体のようになっている。
「け、結婚だと! どうしてそんな話になっているのだ!」
「俺と氷華がキスしたからですよ。俺んちの決まりで、キスした相手と結婚することになってるんです。でも、氷華の奴、キスしたこととか、俺にプロポーズしたこととか、全然覚えてないみたいなんですよね。おっかしいな~……」
「そ、それはまた奇怪な……。あやかしの仕業かもしれん……」
ひとみはやけに落ち着きなく目を泳がせた。
そして、彼女は気を取り直そうと思ったのか、ゴクゴクと牛乳を口いっぱいに含んだ。
ひとまず、太郎は自分の正体を打ち明けることにした。
それを隠したままだと話がうまく伝わらない。
「じつは俺、閻魔大王の息子なんですけ――」
そう言いかけたところで――。
ひとみは口に含んだ大量の牛乳を、ブッシャーッ! と太郎の顔に吐き出した。
トマトソースは牛乳で洗い流され、太郎の顔はバカ殿様のようになっている。
「え、閻魔大王の息子だと! それは本当なのか!」
「本当ですよ……。嘘ついてもしかたないじゃないですか……」
「わ、私はなんという者にキスをしてしまったのだ……」
ひとみは縦筋を浮かべた額に手をあて、ガックリとこうべを垂れた。
彼女はなにか勘違いをしているらしい。
「違いますよ。キスをしたのは俺と氷華ですよ。生徒会長、なに言ってるんですか?」
「す、すまん……そうだったな……。昨夜、ドラマでキスシーンを見たものでな……。つい自分のことのように感情移入してしまった……」
「なんていうドラマですか?」
「た、たしか……ひょっこりひょうたん島ラブストーリーというドラマだ……」
なかなか面白そうなタイトルだ。
今度、機会があれば見てみよう。
太郎はそう思った。
それはさておき、太郎はここまでに至る経緯を詳しく説明した。
主に重点を置いたのは、氷華とのキス、そして昨夜、両親が訪問してきたことである。
「それで生徒会長、俺、どうすればいいですかね? 氷華はあれから部屋に閉じこもりっきりだし、厳鉄のおっさんは本気で殺しにかかってくるし、俺、困っちゃってるんですよね」
昨日の深夜、太郎が寝ていたところ、厳鉄に日本刀で襲われた。
かろうじてかすり傷で済んだものの、毎日これではたまったものではない。
「追って連絡する……」
ひとみは枯れた花のように落胆し、フラフラとした足取りでファミレスを出て行った。
ドラマの見過ぎで寝不足かと思われる。
ひとまず太郎はおしぼりで顔を吹き、ひとみが残したトマトパスタも平らげた。
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