第16話 ご褒美のキス

 千秋との親睦を深め、家に帰った太郞は、夕食前にリビングの掃除に勤しんでいた。

 組員からもらったお古のジャージ姿で雑巾をかけていたところ――。


「おい、チンカス、ちょっとマッサージしろや」


 厳鉄にそう声をかけられる。

 むろん、ヒエラルキーの頂点に逆らえるはずもない。

 太郞は厳鉄をリビングの床に寝かせると、渋々マッサージを開始した。

 一応、地獄の鬼に指圧術は教わっている。

 ゆえに、マッサージをすることじたい、それほど苦にはならなかった。


「なんか、昨日から体の調子が悪くてな。全身の筋肉がだるくて歩くのも億劫だ」


 うつ伏せでマッサージを受ける厳鉄は、不機嫌そうに大きく息を吐いた。

 おそらく、その原因は憑き物落としだ。

 氷華に取り憑いた生霊が浄化されたことで、こうして本人の体に悪影響が現れている。

 厳鉄はそれについてなにも知らないし、あえて言う必要もない。

 そこで太郞は考えた。

 今ならこいつに勝てるのではないか。

 手水場の負の作用を受け、本来の力を失ってしまったが、ある程度の回復は実感している。

 そう簡単に負けることはないだろう。

 そして、勝負に勝ったあかつきには、娘への干渉をやめるよう、厳鉄に誓ってもらうのだ。

 氷華の憑き物が落ちた今、残る問題はたった一つ。

 厳鉄の過剰な溺愛だけである。

 それをどうにかすることが、氷華との約束でもあるのだ。


「おじさん……」

「なんだ、チンカス?」

「俺と勝負してほしいんですけど……」

「なんだと? 勝負だとコラ?」


 厳鉄はあぐらで身を起こし、太郞の顔を下から覗き込む。

 あのノボルをナンバー2に従える、旭山組の組長である。

 やはり威圧感はハンパがない。

 しかし、この男を倒さない限り、氷華に安息の日が訪れることはないのだ。


「もし俺が勝ったら、氷華をもっと自由にしてやってほしい。それと、氷華を溺愛するもやめてほしい」

「ぬかせ青二才のチンカスが! 表に出ろやコラ!」


 五臓六腑が煮えくり返るように激怒し、厳鉄は掃き出し窓を出て庭へ向かった。

 正直、足がすくむ思いだが、ここまできたらやるしかない。

 太郎はそう覚悟を決め、厳鉄のあとに続いてバトルフィールドに赴く。

 騒ぎを聞きつけ、ギャリーもゾロゾロと集まってきた。


「おい太郞! 親っさんに殺されるぞ! 死んだらオレと一緒に風呂入れねーんだぞ!」


 ノボルが必死に訴える。

 ウホっとした悲痛な叫びだ。


「太郞く~ん! 頑張ってね~! 生命保険はかけておいたから~!」


 志麻は満面の笑みで応援してくれている。

 だが、極道の妻としての、裏の顔が見えたような気がした。


「わしのために戦うというのか……。命を懸けてまでわしに愛を捧げるというのか……」


 菊代ばあさんはプルプルと震えながら涙を流している。

 思い込みが激しいというより、これはボケの兆候かもわからない。


「どっちが勝つと思う?」

「やっぱり太郎じゃないか?」

「いやいや、太郎はまだ完全復活してないっしょ。勝つのはおっさんのほうじゃね?」


 最近、フェードアウト気味だったケルベロス。

 彼らは三つ頭の巨体を曝け出し、あーでもないこーでもないと議論を交わしていた。

 他のギャラリーは誰もそれに気づかない。


「太郞! もし勝ったら、ほっぺにキスぐらいしてあげてもいいわよ!」


 氷華は手を振ってエールを送ってくれている。

 ほっぺにキスどころか、口と口でキスをしたのだ。

 太郎には、彼女の言動がまるで理解できなかった。

 そして、ほっぺにキス、という娘の言葉を耳にした厳鉄は、怒りの矛先を太郎に向け、全身から漲る憎悪をぶちまけた。


「ふんぬ!」


 厳鉄は筋肉を肥大させて胸を反らす。

 すると、上半身のスエットシャツが、紙吹雪のようにバラバラにはち切れた。

 鋼の筋肉にぬっと浮かび上がるのは、風神と雷神の入れ墨である。

 墨にほんのりと青みを帯びた、山水画のような色合い。

 それは太郎の目を静かに引きつけ、そして、震えあがるほどの恐怖を心に植えつけた。


「かかってこいやチンカス!」


 試合のゴングが鳴った。


「いきます!」


 太郞は己の心に鞭を入れ、地面を強く蹴って間合いを詰めた。

 頭を低くした姿勢で風を切りながら、厳鉄の懐に飛び込んで下から拳を突き上げる。


「ウラァ!」


 それを迎え撃つ厳鉄もまた、剛腕のひと振りで拳を一気に叩き落とした。

 次の瞬間――。

 両者の拳がぶつかり合い、その拳と拳の間から、四方八方に電光がほとばしる。

 雷鳴にも似た轟音が地を揺らし、二人を中心にして広がる核のような衝撃波が、庭の草木を洗いざらいなぎ倒した。


「姐さん! 氷華お嬢様!」


 ノボルは覆い被さるようにして、志麻と氷華の盾となる。


「ばあさん!」

「ばあさん!」

「ばっちゃん!」


 ケルベロスもまたその巨体を盾に、菊代ばあさんの身を守った。

 その必死な姿。

 食事係のばあさんだけは絶対に死なせない、そんなゲスな感情が垣間見えている。

 ほかの組員らは空の彼方に吹っ飛び、主要メンバーだけがその場に残された。

 そして、太郎と厳鉄は、その拮抗を保ったまま、互いの眼光をぶつけて口をひらいた。


「おじさん、俺の全力のパンチを受け止めるとは、さすがやりますね」

「ふっ、笑止。貴様の全力のパンチなど、俺からしてみればパチンコ玉ていどの威力。調子に乗るなよ? このチンカスがァ!」


 厳鉄は片足を大きく後方に反らし、弾丸シュートの勢いで太郎の股間を蹴り上げた。


「フゴッ!」


 太郎はくぐもった声で悶絶し、股間を押さえてうずくまる。

 まさかの金的攻撃。

 それも、金タマは友だちじゃないと言わんばかりの、容赦のないひと蹴りである。


「くっ……ひ、卑怯だぞ……」

「卑怯もへったくれもあるか。誰がそんなルール決めたんだ? この勝負、おまえの負けだな。ガッハハハ!」


 と笑い声を上げ、厳鉄は大威張りでその場から立ち去っていく。

 たしかにこれでは戦えない。

 タマタタマがもうやめてと悲鳴を上げている以上、勝敗は喫した。

 そもそも、肉弾戦で勝負を仕掛けたのが間違いだった。

 本来の力を発揮できなくとも、業火の力で勝負に臨むべきだった。

 そうすれば、厳鉄の角刈りヘアーぐらい、チリチリにさせてやることができたのだ。

 しかし、それももうあとの祭り。

 今回の勝負、素直に負けを認めるしかないだろう。

 太郞がそう敗北宣言を出したところで、氷華がこちらの方に駆け寄ってきた。

 そんな彼女は身を屈め、案じるように太郞の股間に目を向けた。


「ねえ太郞、大丈夫なの……?」

「タマタマ全治三週間……ってところだな……」

「でも、あたしとの約束覚えててくれたんだ」

「まあな……。今回は負けちゃったけど……次は必ず勝ってやる……。だから……そのときまでもう少し待っててくれ……イタタタ……」

「あたし、あんたのこと少しは見直した。やるじゃん、太郞」


 氷華はそう言って、パチリと片目をつぶった。

 そして彼女は、チュッ、と、太郞のほっぺに優しくキスをした。

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