第14話 神眼のひとみ(その二) ※別視点

 七時ちょうどに太郞と氷華はやってきた。

 太郎はTシャツにジーンズ姿、氷華は白いワンピースを着ている。


「いや~ビックリしましたよ。ここが生徒会長の家の神社だったんですか。俺、ここに来たことあるんですよ。あの水を飲んじゃって、体がちょっとおかしくなったんですよね」


 太郞は玄関先で、鳥居近くの手水場を指差した。

 手水場の水は飲むものではなく、穢れを祓うものなのだ。

 どうせ作法も知らないに違いない。

 まず、右手でひしゃくを持ち左手を洗う。

 ひしゃくを左手に持ち替えて右手を洗う。

 もう一度右手にひしゃくを持ち替え、左の手のひらに水を溜めて口に含む。

 その水は飲まずにそっと吐き出す。

 左手をもう一度洗い、最後にひしゃくを立てて柄の部分に水を流す。

 これが正しい作法だ。

 このように体を清め、神様にまみえるために手水場がある。

 衛生的にも飲めるような水ではない。

 飲めば体に穢れを貯め込むことにもなるので、逆に負の作用が働く可能性すらある。


「そういえば、真夜中にあの御神木のところで氷華を見たんだよな。マジで不気味だったぞ」


 太郞は鳥居と社の中ほどにある御神木を指差した。

 幹回り五メートル、高さ十五メートル、樹齢およそ四百年の柏の木。

 それが神居神社の御神木である。


「ちょっと太郞! あんた、なに言ってんのよ!」

「わ、わりー! 封印したつもりが、ついしゃべっちまった!」


 そんな二人のドタバタした会話を耳にし、ひとみはジロリとした目で問う。


「旭山、真夜中に御神木でなにをやっていたのだ?」

「せ、生徒会長、あたしはなにもしてません!」

「まさか、丑の刻参りなんてしていないだろうな?」


 ひとみは思い出す。

 二週間ほど前に、呪いの藁人形が御神木に打ちつけられていた。

 御神木はとても神聖な木であり、神や命、自然に感謝する自然崇拝の象徴だ。

 丑の刻参りなど許せるものではない。

 眠りの深いひとみは丑の刻参りに気づかなかった。

 もし気づいていれば、大国主神の力をもって罰を与えているところだ。


「や、やってません! 丑三つ時に白装束姿で、キエエエエと叫びながら、お父さんの髪の毛を入れた呪いの藁人形に、木槌で五寸釘を打ちつけたことなんて、決してやってません!」


 胸の前で両手をバタつかせ、尋常ではない慌てぶりの氷華。

 一から十、すべて白状したようなものだが、一応、本人は否定している。

 今回だけは見逃してやることにして、ひとみは憑き物落としに取りかかることにした。


「二人共、こっちに来てくれ」


 氷華と太郎を社殿に招き入れると、ひとみは奥の小部屋で準備を整える。

 制服を脱ぎ、まず白タビをはく。

 襦袢の上から白衣を羽織る。

 緋袴を履き、帯紐を締める。

 この巫女装束を身に着けると、気持ちが凛と引き締まる。

 巫女は現在では神職の補佐的役割となっているのだが、かつては祈祷や口寄せ、神を自らの身体に宿し、悪しき穢れを祓う巫女もいた。

 ひとみレベルの巫女ともなれば、宮司である父の力を借りる必要はない。

 氷華に取り憑いた生霊の力は強いが、なんとかなるだろう。


「旭山、ここに座ってくれ」

「は、はい……」


 氷華はやや緊張の色を浮かべ、祭神の祀られた神殿の前に正座した。

 太郎は少し離れた場所でその様子を見守っている。

 社殿の中は四隅に蝋燭の火が灯り、板張りの床には三人の影が怪しげに揺らめいている。

 準備は整った。

 ひとみは氷華の前に立ち、紙垂のついた玉串を左右に振った。

 そして、大きく息を吸い込み、祓詞はらえことばを唱える。


「掛けまくも畏き 伊耶那岐大神 筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓え給いし時に 生りませる 祓戸大神たち 諸々の禍事、罪、穢 有らんをば 祓え給い 清め給えと 白すことを 聞こしめせと 恐み 恐みも 白す」


 祓詞とは、神事の前に唱える祝詞のりとのひとつだ。

 多くの悪物、罪、穢れを祓い清め、清浄な息吹になるように祈願申し上げます、という意味合いが込められている。

 祓詞を唱えると、意識を失ったかのように氷華の頭がガクンと下を向いた。

 現に、本人の思考は術により絶たれている。


「生徒会長! 氷華の奴、どうしちゃったんですか!」

「大丈夫だ。静かにしていてくれ」


 慌てた太郞が氷華に一歩、歩み寄る。

 ひとみはそんな彼を制し、悪しき穢れに神眼を向けた。


「おまえはなに者だ? なぜ旭山の体に取り憑いている?」

「ぐるるるぅ……俺のかわいい、かわいいい娘になにをするぅ……」


 その声色は氷華のものではない。

 闇から姿を現した、憑き物の野太い唸り声である。


「俺の大事な娘になにをするぅ……ぐるるるぅ……。俺の氷華ちゃんになにをするぅ……」


 ひとみは確信した。

 この憑き物は氷華の父親、旭山厳鉄の生霊だ。

 氷華を溺愛する厳鉄は、生霊となって娘の体に取り憑いているのだ。


「生徒会長! この声、氷華の父親の声そっくりですよ!」

「わかっている。この憑き物は父親の生霊だ」

「あのおっさん、生霊になって取り憑いてたんですか! 物語中盤にして早くもラスボスの登場ってわけですか!」


 ファンタジー脳な太郎を無視し、ひとみは氷華に目を戻す。

 彼女の体から漂うドス黒いオーラが、暴れ回るようにして激しく揺れている。

 祓詞を受けて生霊が苦しんでいるのだ。

 悪しき穢れにとどめを刺すべく、ここで大祓詞おおはらえことばを唱える。

 大祓詞は非常に長い神拝詞しんぱいしだ。それだけに穢れを祓う力もまた強い。


「高天の原に 神留まります 皇が睦 神漏岐・神漏美の命以ちて 八百万の神等を 神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我が 皇御孫の命は 豊葦原の瑞穂の国を 安国と 平らけく 領ろし召せと 言依さし奉りき。斯く依さし奉りし国内に 荒ぶる神たちをば 神問はしに問はし給ひ 神掃ひに掃ひ給ひて 言問ひし磐根・樹根立ち 草の片葉をも言止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 厳の道分きに道分きて――」


 ここまでで前段の半分ほど。

 この後、後段も同じぐらいの長さの神拝詞が続く。

 そんな大祓詞を、ひとみは歌のようにしてすらすらと最後まで唱えた。


「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 俺のかわいい氷華ちゅわあああああん! 俺の、俺のかわいい氷華ちゅわああああああん! ぐおおおおおおおおおおおおおおお!」


 氷華が頭に両手を乗せ、うずくまり悶え苦しんでいる。

 いや、氷華の父親の生霊が悶え苦しんでいる。

 そして、氷華の体全体から、ドス黒いオーラが間欠泉のように噴き出していく。

 太郎にはそのオーラが見えてはいないようだ。

 アホみたいな顔でキョトンと首を傾げている。


「そうだ! 全部吐き出せ! その悪しき穢れたオーラを全部吐き出せ!」


 ひとみは声を高く張り上げ、玉串を大きく左右に振り払う。

 この底なしのオーラ。

 氷華が現在の歳にいたるまで、注ぎに注ぎまくった親バカの穢れた念である。

 そんな生霊との格闘を続けること一時間。

 社の中に充満したドス黒いオーラが、神殿の方へ吸い込まれていく。

 祭神、大国主神の力によって、生霊の念が浄化させられているのだ。

 そして、氷華の体から噴き出していたオーラも、ついに底を尽きた。

 もう社の中には、その痕跡の一切が消え去っている。


「成功だ。憑き物は落ちた」


 ひとみは刀を血振りするかのようにして、手にする玉串をシュンと振った。

 この所作に深い意味はない。

 かっこいいからやっている。

 そんなとき――。


「うっ……」


 ひとみはクラッと目眩を感じ、よろけるように平衡感覚を失った。

 かつてないほどの憑き物と対峙し、自身の神力も底を尽きてしまったのだ。

 意識がどんどん遠のいていく。

 視界が暗くなり、足元の力も抜け落ちる。


「生徒会長! もしかしてMPが切れたんですか! くっそ! ポーションはどこだよ!」


 そんな太郞の戯言を耳にし、ひとみはとうとう意識を失った。




 ひとみが意識を取り戻すと、不可思議な光景が目に映り込んできた。

 なんと、巫女装束姿の自分が、すぐ目の前に倒れているのだ。

 一方、今こうして思考している自分も、冷たい床に頬をつけて横たわっている。

 その状態のまま、自身の衣服を確かめると、白いワンピースを身につけていた。

 まさか――。

 ひとみは悟った。

 これは人格転移現象だ。

 自分の人格が氷華の体に乗り移り、氷華の人格が巫女装束姿の自分に乗り移っている。

 小さいころに祖母に聞いたことがある。

 巫女であった祖母も十代のとき、一度だけこの現象を経験したことがあるという。

 力の強い巫女が、力の強い穢れを祓うと、稀にこのような現象を引き起こすのだ。

 ただ、祖母はこうも言っていた。

 人格転移現象が続くのは、せいぜい数分程度。

 慌てずにじっと待っていれば、双方の人格は本来の体に戻るので、なにも心配することはないらしい。


「生徒会長! ポーションがどこにも見つかりません!」


 人格転移現象をなにも知らない太郞。

 彼は切羽詰まった様子で氷華の体(巫女装束姿)を揺すっている。

 氷華は意識を失ったままだ。


「氷華! おまえは大丈夫なのかよ!」


 太郎はこちらに駆け寄り、ひとみの体(ワンピース姿)を揺すりはじめた。

 幸い、自分はこうして意識がはっきりしている。

 そこでひとみはちょっと考えた。

 こんな経験はそうあるものではない。

 人生でも一回あるかどうか、そんな貴重な体験を目の当たりにしているのだ。

 ならば、氷華の振りをして、太郞をからかってみよう。

 バレなければいいだけの話だ。


「な、なんとか大丈夫だよ……」


 ひとみは額に手をあて演技を装い、女の子座りをして身を起こした。

 ちなみに本来の自分は、男の前でも平気であぐらをかく。


「そっか! よかった! 本当によかった!」


 太郞は涙を浮かべ、ギュッとひとみの体を抱き締めた。

 邪神の類かもと警戒していたが、意外と優しい心の持ち主だ。

 そんな彼の熱い抱擁を受けて、ひとみの頬がポッと赤くなる。

 父親の以外の男性と、こうして体を密着させるのは初めてだ。

 それだけに、なおのこと胸の奥がこそばゆい。

 というか、どんどん恥ずかしくる一方なので、ひとみはそっと体を離して話題を変える。


「ところで、そっちで倒れている生徒会長は大丈夫なのか? いや、大丈夫なのかしらん?」


 しまった。

 思わず地の声が出てしまった。

 なんとかそれらしい口調でカバーしたが、氷華の話し言葉を意識しなければいけない。


「MPが切れて気を失ったみたいだな」

「ねえ太郎、生徒会長、死んだりしないよね?」

「俺もはじめはちょっと焦ったけど、よくよく考えたら、あの気の強そうな生徒会長が簡単に死ぬわけないもんな。そのうちMP全回復してひょっこり起き上がるんじゃね? てか、逆にレベルアップしてたりしてな。アハハハ」


 太郞は小バカにしたように笑い声を上げた。

 氷華の演技をしていなければ、二、三発ぶっ飛ばし、股間を蹴り上げているところだ。

 そう怒りを堪えるひとみではあるが、ふと面白いイタズラを思いつく。

 そのイタズラとは――。

 キスである。

 人格が入れ替わっただけなので、キスをしても自分本来の体に実害はない。

 つまり、ファーストキスをしたことにはならないのだ。

 それに自分は、生徒会長として、巫女として、律した環境に身を置いている。

 キスなどという不順異性交遊にあたる行為は、決して許されるものではない。

 だが、こう見えても思春期ドンピシャのうら若き乙女。

 キスがどんな感じなのかは試してみたい。

 そのまたとない一度きりの大波が、今ここに訪れた。

 乗るしかないのだ、このビッグウェーブに。

 人柱になってもらう氷華には申し訳ないが、本人はそこで気を失っている。

 知らぬが仏、とくに問題はないだろう。


「ねえ、太郞」


 ひとみは艶めかしく太郞の名を呼び、彼の顔に自身の顔をゆっくりと近づけた。

 氷華の体を借りているとはいえ、心臓がバックンバックン言っている。


「ど、どうした、氷華……?」


 太郎は顔をややのけ反らせ、ドギマギしたように問い返す。

 互いの息づかいがわかる距離だ。

 彼もそれらしい前兆を感じ取っているに違いない。


「太郞、目をつぶって」

「で、でも……俺たちまだそういう関係じゃ……」

「お願い、目をつぶって」

「わ、わかった……」


 ゴクリと喉を鳴らし、太郞は瞳を閉じた。

 そんな彼は、ひょっとこのように唇を突き出し、キスの受け入れ態勢を整えている。

 この間抜け面を見る限り、太郎もキスの経験がないらしい。

 ひとみも目を閉じる。

 狙いが外れたら困るので、自分はタツノオトシゴ状態で唇を突き出した。

 そして――。

 ひとみは太郎と唇を重ね合わせ、彼の温もりをその口先で受け取った。

 これがキスというものなのか――。

 それは決して、甘くてとろけるな、チョコレート味のキスではない。

 むしろ、どこかカレーライスの味がする、スパイシーなキスだった。

 それでも、心臓が爆発しそうなほど胸が高鳴っている。

 これまで経験したことのないほど高揚感に包まれている。

 断じて、太郎に想いを寄せているわけではないが、貴重な経験をさせてもらった。

 そこらのキモイおっさんではこうはならなかっただろう。

 ひとみは刹那のキスを堪能し、離れ際に唇をプルンと弾ませた。

 そして、自分が目を開けるのとほぼ同時、太郎もその瞳を見開いた。

 彼も彼で、火にかけたヤカンのように顔を赤らめ、興奮を隠しきれない様子。

 だがこれで終わりではない。

 本当のビッグウェーブはここからだ。


「太郎、あたし、太郎のことが好き。もう狂おしいほど大好き。寝ても覚めても、授業中だって、太郎のことばっかり考えてる。太郎、こんなあたしでもお嫁さんにしてくれる?」


 告白とプロポーズのダブルコンボ。

 もはや、大波に乗りながら卓を囲み、ダブル役満を成立させたようなものである。

 本来、男から聞きたセリフではあるが、こうして自分から口にするのも悪くはない。

 あくまでも疑似体験としての話だが。

 ひとみは最大級のイタズラを仕掛け、ニタニタと心の中でほくそ笑んだ。

 すると――。


「ひょ、ひょ、ひょ、氷華……」


 太郎はしどろもどろな声を漏らし、膝をついたまま背中から倒れ込んだ。

 そして、後頭部を床板に打ちつけると、ブクブクと泡を吹いて気絶した。

 人生最大の衝撃を受けたものと思われる。


「このあとの展開が楽しみだ。クククク……」


 と、ゲスな薄笑いを浮かべたところで――。

 人格転移現象のタイムリミットが訪れ、ひとみはフッと意識を失った。


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