第10話 ウホ! アーッ! 再び

 就寝前、太郞はしんみりと風呂に浸かっていた。

 あれから氷華とは顔を合わせておらず、夕食時にも姿を見せることはなかった。

 志麻が部屋に食事を運んでも、「いらない」と一言、ドアも開けてはくれなかったという。

 自分は氷華の心を深くえぐってしまったのだ。

 少し時間を置いてから、菓子折りの一つでも届けたほうがいいだろう。

 太郞はそう反省しつつも、「はぁ」と、胸の奥からため息をひとつ漏らした。

 そんなとき――。


「ん? そこに誰かいるのか?」


 脱衣所の方から声をかけられた。

 その低いトーンはノボルの声である。


「た、太郞です……」


 嘘をついたらボコボコに殴られるので、ここは正直に答えるほかはない。

 というか、脱衣カゴの中には、『太郎』と名前の書かれた、白いブリーフが残されている。

 ちなみに、マジックで名前を書いたのは菊代ばあさんだ。

 すると、ノボルはガサゴソと服を脱いだらしく、ムハムハと荒い鼻息まで漏らしている。

 どうあがいても、この残酷な世界線は変えられそうにもなかった。

 そして――。


「ウホン」


 と、咳払いをひとつ、ガチャリと仕切りのドアがひらかれた。

 風呂場でもサングラスを装備するくせに、股間は葉っぱ一枚装備されてはいない。

 そんなノボルはシャワーで身を清めると、太郎が入る浴槽の中にその巨体を沈め込んだ。

 津波のようにザブンとお湯が溢れ出し、手足をギュウギュウに縮めた二人は向かい合う。

 なんとも気まずい光景ではあるが、今なお太郎は、氷華が流す涙を思い浮かべていた。


「どうした太郞? なんだか元気がないじゃないか」

「それがその……氷華に軽はずみなこと言っちゃって……」

「なにがあったのか話してみろ」


 サングラス越しに映るその真剣な眼差し。

 そこには威圧感的なものはなく、どこか兄貴分のような優しさが感じられた。

 それを見て太郎は正直に打ち明けることにした。


「氷華はヤクザの娘ってことで、学校では独りぼっちなってるんですよ。本当は友だちがほしいはずなのに、クラスのみんなからは避けれてるし、なかなかうまくいかないみたいで」

「まあ、氷華お嬢様が極道の娘ってことは、周知の事実だしな。それで?」

「俺も今日、その一人ぼっちを味わいました。自己紹介で壮大にヘマやっちゃって」

「そのせいで元気がなかったのか?」


 ノボルは気抜けしたように嘆息を漏らした。

 太郎は首を左右に振って話を続ける。


「問題はそこじゃないんです。俺、学校の帰りに言っちゃったんですよ。独りぼっちの氷華の気持ちがわかった気がするって。それを言ったとたん、『あんたにあたしのなにがわかるのよ』って氷華に泣いて怒られました。そりゃそうですよね。氷華は長い間ずっと独りぼっちだったのに、俺はたった一日でそれを理解したつもりになってたんですから。氷華が怒るのも無理はないですよ」


 太郎は話を終えると、ため息を吐いて湯舟に深く身を沈めた。

 穴があったら入りたい気分だ。


「なるほど。そんなことがあったのか」

「氷華もホントかわいそうですよ。ヤクザは犯罪者なのに、その家の娘に生まれ――」


 と言いかけて、太郎は恐る恐るノボルの顔色をうかがった。

 目の前に本物のヤクザがいるのに、犯罪者というストレートな表現を使ってしまった。

 これは全治一週間コースかもわからない。

 しかし、そのスキンヘッドに血は上っておらず、彼は穏やかな表情のまま口をひらいた。


「いいか太郞。俺たちはしょせん、極道だ。お天道様に顔向けできないようなアコギな商売もするし、おかみ(警察)に目をつけられることだってある。だがな、それはあくまでもグレーゾーンの話だ。シャブとか闇金には手を出しちゃいねえ。つまり、俺たち旭山組はな、任侠道を看板に掲げる古くせえヤクザなのさ」


 任侠道についてはよくわからない。

 しかし、太郎が漠然とイメージする任侠道は、文ちゃんや健さんをはじめとした、昭和世代を駆け抜けた熱い男たちだ。

 太郎も年齢だけならそこらのじいさんより上である。

 昭和時代、銀幕スターを見に何度か映画館に足を運んだ。

 映画館を出ると、銀幕スターのように肩を切って街を歩いた。

 銀幕スターとは全然関係ないが、おニャン子クラブの推しメンは新田恵利だった。

 つまり、任侠道はかっこいいのだ。

 そう考えると、旭山組はそれほど悪いヤクザではないのかもしれない。


「いいか太郎、俺たち旭山組は、氷華お嬢様が後ろ指差されるようなことは、なにひとつやっちゃいねえ。だからおまえが氷華お嬢様の力になってやってくれ。俺たちヤクザが学校に乗り込むわけにはいかんからな。それとな太郞、親っさんの気持ちもわかってやってくれないか?」


 ノボルはそう言って、なにかを思い出すかのように天井を見上げた。

 そして彼は話を続けた。


「あれは氷華お嬢様が生まれて間もないときのことだ。親っさんは赤ん坊の氷華お嬢様を高い高いしてる最中に、床に落としてしまったことがあったんだ。だが幸いにも、氷華お嬢様にケガはなかった。赤ん坊の体は柔らかいっていうしな」


 それを聞いて太郎は神社での出来事を思い出す。

 あのときの氷華は、白装束姿でトチ狂っていた。

 もしかしたら、今でも頭に後遺症があるのかもわかない。

 するとノボルは、自分の頬にバッテン印を指でなぞった。


「親っさんの頬に十字傷があるよな? あの傷はそのときのものだ」

「氷華を落としてしまったことと、頬の傷になにか関係があるんですか?」

「戒めだよ。親っさんは一生消えない戒めを、自分で頬に刻み込んだのさ。小刀(ドス)を使ってな」


 自分が同じ立場だとしたら、厳鉄のように戒めを刻み込めるだろうか。

 いや、その答えは親になってみないとわからない。

 しかし、厳鉄の想いは太郎にもじゅうぶん伝わった。

 それは、命にも代えがたい、愛する我が子への想いだ。


「この話は氷華お嬢様も知らないことだ。だから太郎、氷華お嬢様にはくれぐれも内緒だぞ」


 ノボルがそう締めくくると、天井から湯船に滴がピチャンと落ちた。

 しばしの静寂が訪れる中、太郎はなんだか胸のモヤモヤが晴れたような気がした。

 氷華の力になってあげようと思い、前向きな気持ちになったためだろう。

 それと、旭山組に対するイメージも変わり、犯罪者の一員という意識もなくなった。

 ノボルの気性は荒いが、こうして話すことができて本当によかった。

 そんなとき――。


「うっ……」


 ノボルは肩を押さえて顔をしかめた。

 よく見ると、肩には打ち身のような青あざが広がっている。


「ノボルさん、階段から転げ落ちでもしたんですか?」

「いや、外回りの最中、不覚にも襲撃を食らってな。金属バットで殴られちまったんだ」

「マジっすか! 誰にやられたんですか!」


 太郎はザブンと身を乗り出した。


「この前話しただろ。うちの組と敵対している新興マフィアの連中だ」

「警察に被害届け出したほうがいいですよ! これって立派な傷害事件じゃないですか!」

「極道がおかみに泣きつけるわけないだろ。それこそ組の面目丸潰れだ」


 たしかにノボルの言うとおりだ。

 敵はなんでもありのイケイケ新興マフィア。

 少しでも弱みを見せれば、昔気質の極道などすぐに潰されてしまう。

 この組は今、ギリギリのところでシノギを削り合っているのだろう。

 どんな縄張り争いをしているのかは太郎にもわからない。

 ただ、漠然とではあるが、旭山組についての現状だけは理解した。


「つーか、金属バットでいきなり襲撃してくるなんて、めちゃくちゃ荒っぽい連中ですね」

「ハジキで撃たれるよりまだマシだろう。なにせ敵はイタリア系の新興マフィアだ。奴らがその気になれば、戦車で砲弾ぶっ放してくるかもしれんからな」

「ノボルさん、さすがに戦車はないですって、戦車は」


 太郎は冗談めかして笑い声を上げた。

 この法治国家の日本において、戦車で襲撃など百パーセントありえない。

 しかし、ノボルは真剣な表情を崩さず、唐突にこんな名前を口にする。


「赤峰ミランダ。それが奴らのボスの名前だ。しかもミランダの父親はな、本場イタリアのゴッドファーザーだ。戦車の一台や二台、本当に出てきてもおかしくはねーんだよ」

「マ、マジっすか……」


 それを聞いて太郎はゾッと青ざめた。

 ゴッドファーザーの映画のシリーズは全部見た。

 内容は割愛するが、ドン・コルレオーネだけは絶対に敵に回してはならない。


「まあ、おまえには関係のない話だったな。それじゃ太郎、背中洗ってやる」


 いきなり話の流れはウホっとした方向に変わった。

 太郎は別な意味で青ざめ、ノーサンキューとばかりに首を横に振る。


「い、いや……背中ならもう洗いましたし……」

「洗ってやるって言ってんだろが! 早くそこに座れ! 殺されてーのか!」

「わ、わかりました……」


 猛獣と化したノボルに逆らえるはずもない。

 太郎はチンコを隠しつつ、仕方なくバスチェアーに座った。

 そんな太郎の背中を、ノボルは素手でねっとりと優しく洗っていく。


「どうだ? 俺のスペシャルマッサージは?」

「はい……とても気持ちいいです……」

「もっと気持ちよくしてやってもいいんだぞ? ウホン」

「か、勘弁してくださあああああああああああああい!」


 結局太郎は泡だらけまま風呂場から逃げ出した。

 誰得な風呂場での一幕。

 おそらく、次回に続くことはないだろう。

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