第8話 ウホ! アーッ!

 夕食を済ませたのち、太郞はルンルン気分で風呂に入ることにした。

 厳鉄にこき使われていても、三食風呂付というところだけはありがたい。

 組員専用の風呂場、その脱衣所に入ると、脱衣カゴの中には衣服が入れられていた。

 どうやら先客がいたようだ。

 一般的な家庭の風呂で混浴するわけにもないので、太郞は仕方なく出直すことにした。

 すると――。


「ん? そこに誰かいるのか?」


 風呂場のドア越しから声をかけられた。

 スチール製のドア上部、そこには磨りガラスがはめ込まれており、中にいるのが誰なのかは確認ができない。

 ただ、相手は気の短いヤクザだ。

 返事もしないで立ち去ることは許されない。


「あ、太郞です。すみませんでした。どうぞごゆっくり」

「入ってこい」

「え?」

「おまえも入ってこいと言ってるんだ」

「服を脱いでですか?」

「あたりまえだろ。服を着たまま風呂に入るバカがどこにいる」


 こんな狭い空間で混浴を望んでいるらしい。

 太郞はこの時点でチンコに胸騒ぎを覚えた。


「いや……お気になさらずに……俺はあとから入りますんで……」

「いいから入ってこいって言ってんだろが! ぶっ殺されてーのか!」


 その百獣の王のような怒鳴り声。

 これは明らかに下っ端組員のものではない。

 おそらく、中にいるのは旭山組のナンバー2、若頭の『永山ノボル』である。

 しかもこの男はとんでもなく狂暴だ。

 太郞はその被害を直に受けたので、ノボルの恐ろしさはよくわかっている。

 あれは居候初日の朝食時。

 組員らが修行僧のような静けさで食事を続ける中、『すみませーん! ご飯おかわりくださーい!』と、太郞は元気よくおかわりを申し出た。

 その瞬間、ノボルのパンチが雨あられと飛んできた。

 なにも悪いことをしていないのに、顔が変形するまでボコボコに殴られたのだ。

 それぐらい狂暴な男である。


「し、失礼します……」


 ノボルの機嫌を損ねてはいけないと思い、太郞は全裸となり風呂場の中へ。

 一応、タオルで股間は隠している。

 すると、ノボルは浴槽の中でこちらを向き、デン、とふんぞり返っていた。

 歳は四十代半ばでスキンヘッド、格闘家のような体をさらけ出している。

 そのムキムキの上半身を彩るのは、滝登りをする鯉の入れ墨だ。

 普段は真っ黒なサングラスをかけており、彼の瞳をうかがい知ることはできない。

 しかもどういうわけか、ノボルは風呂場の中でもサングラスをかけていた。

 そしてそのサングラスの焦点は、しっかりと太郞の股間を捉えている。


「おい、太郞。男なら股間をタオルで隠すな」

「わ、わかりました……」


 太郞は言われたとおりにタオルを外した。

 男同士、なにも恥ずかしがることはないのだ。

 そうはわかっていても、チンコに悪寒が走るのはどうしてだろうか。


「ウホン」


 ノボルはひとつ咳払いをし、ザブンっと浴槽から立ち上がる。

 間違っても彼の下半身を見てはいけない。

 だから太郞は視線を上に向け、己のチンコは下を向くように極力務めた。


「そこに座れ」


 ノボルはバスチェアーに座るよう顎をしゃくった。

 ごく一般的なプラスチック製の小さなイスである。

 本来、その使用目的は、体を洗うために座るものなので、なにも不安を抱くことはない。

 しかし太郞は、身の毛がよだつほど全身に不安が駆け巡った。

 なぜなら、そこへ座ってしまうと、自分の目線がノボルの股間の位置にきてしまうからだ。

 いや、自分のお口がノボルの股間の位置にきてしまう。


「どうした太郞、早く座れ」

「わ、わかりました……」


 太郞は覚悟を決めてバスチェアーに座った。

 ヤクザの世界は絶対的な縦社会。

 たとえ白いものでも、上の者が黒と言えば黒になる。

 バスチェアーの色は白いのだが、今の太郞にはそれが真っ黒に見えた。

 ただ、もし「しゃぶれ」と言われても、そのときは泣いて土下座するつもりだ。

 全治三ヵ月は避けられないかもしれないが、命を落とすことだけはないだろう。

 すると――。


「ウホン」


 また意味ありげな咳払いをひとつ。

 ノボルは太郞の背後に回り込んだ。

 太郞はガクガク震える体で考える。

 前ではなく、後ろにポジションを取ったということは、お口の安全は保障された。

 しかし、しかしだ。

 今度はお尻が危険に晒されているのだ。

 ある意味、お尻は最終防衛ライン。

 ここをズボっと突破されてしまうと、アーッ! と叫ばずにはいられない。

 これはもう限界だと思い、太郞は泣いて土下座することにした。

 だが――。

 ノボルはバススポンジを使って石鹸を泡立て、太郞の背中をゴシゴシと洗いはじめた。

 洗いながらも、肩の筋肉を揉みほぐしたり、腰回りの筋肉を確かめたりしているのだが、その手つきにいやらしさはあまり感じられない。

 どうやらエロ目線で見ているわけではないようだ。

 とはいえ、ノボルがエッチなオオカミに豹変しないとも限らない。

 だから太郞はケツの穴をキュッと引き締め、警戒だけは怠らないよう注意した。


「太郞、なかなかいい体してるじゃないか」

「ありがとうございます……」

「なにかスポーツでもやってるのか?」

「格闘技の経験なら少々……」


 今から三十年ほど前。

 人間の年齢で例えるなら、小学六年生ごろにあたる時期。

 太郞は師匠(地獄の鬼)から格闘術の手ほどきを受けていた。

 しかし今では、地獄に堕とされた秋葉系の罪人が、もっとも尊敬できる師匠となっている。


「そうか、格闘技の経験があるのか。それならじゅうぶん、うちの組の戦力になるな」

「戦力ってどういうことですか?」


 太郞はひょいと首を捻って訊いてみる。

 誰得な下ネタの流れは一変、なんだか物騒な話に方向がシフトした。


「うちの組はな、とある組織としのぎを削って戦争状態になっているんだ」

「相手はやっぱりヤクザですか?」

「いや、ヤクザじゃない。イタリア系の新興マフィアだ。ここ最近、急激に勢力を拡大していてな、うちの縄張りにもドカドカと土足で入り込んできやがった。旭山組の若い連中も何人か病院送りにされたし、親っさんも頭を悩ませているところだ」


 親っさんとはすなわち、旭山組組長、旭山厳鉄のことである。

 ヒグマと素手で渡り合うあの化け物オヤジでも、組織対組織では話が別であるらしい。

 ただ、太郞はヤクザの家に居候しているだけであり、ヤクザになったわけではない。

 いくら身内が戦争状態であるとはいえ、戦の駒になるつもりはなかった。

 その意思だけは、はっきり伝えておく必要がある。


「ノボルさん、俺、戦争には参加しませんよ。掃除とか家の手伝いならなんでもしますけど、戦争だけはゴメンです」


 閻魔大王の息子だからというわけではない。

 一個人として、法を犯すようなことはしたくないのだ。

 願わくば、日本のサブカルチャーにどっぷりと浸りながら平穏に暮らしたい。


「太郞、真に受けるな。未成年のガキを戦争に引っ張るわけないだろ」

「正確には俺、未成年じゃないんですけどね」

「ん? じゃあ、おまえはいったい何歳なんだ?」

「百八歳です」


 奇しくも、煩悩の数が太郞の年齢であり、事実、己の頭の中は煩悩に支配されている。

 その結果、間違って菊代ばあさんのパンツを被ってしまったのだ。


「ハハハ、太郞は大先輩ってわけか。なら、大先輩の体をもっと洗ってあげないとな」


 ノボルは冗談めかして笑い声をあげ、太郞のキュートなお尻をサワサワと撫ではじめた。

 とてもエッチな手の動きである。


「ちょッ! ノボルさん! そこは洗わなくていいですから!」

「太郞、恥ずかしがらなくもいいんだぞ? なんなら前の方も洗ってやろうか? ウホン」

「いいです! 洗わなくていいです! てか、もう勘弁してくださああああああい!」


 結局、太郞はガチで泣いて土下座をし、泡だらけのままで風呂場から逃げ出した。

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