第2話 丑の刻参り

 太郞が転移した場所は、ひとけのない神社の境内だった。

 周囲は木立に囲まれ、社の近くには二階建ての民家が建っている。

 この神社の宮司の住まいなのかもしれないが、窓の明かりはすべて消えていた。

 腕時計で時刻を確認すると、夜の十一時を少し過ぎたころだ。

 とりあえずこの神社で夜を過ごし、明日の朝から行動を開始することにする。

 七月になったばかりで夏本番はまだまだだが、それほど寒さは感じられなかった。


「おい太郞、なんか食い物はないのか?」

「食い物なんかあるはずないだろ。てか、俺だって晩飯食ってないんだぞ」


 ケルベロスは腹を空かせているようだが、太郞とてそれは同じである。

 しかし、食べ物を買おうにも、ビタ一文持ち合わせてはいなかった。

 おまけにスマホも部屋に忘れてきてしまった。

 勢いで飛び出したことに少し後悔したが、予備のダーツは地獄界へ置いてきたし、もう後戻りはできないのだ。


「あ、水があるじゃん。なら水でも飲んで腹を膨らませるか」


 太郞は手水場(ちょうずば)の水をガブガブと口に含んだ。

 神社でよく目にする、四角い石の中に水が蓄えられたものである。


「おい、太郞。よくこんな水が飲めるな」


 ケロベロスは石の縁に飛び乗り、鼻をクンクンさせて匂いを嗅いでいる。

 この水を飲む気はまったくないようだ。

 犬の分際でデリケートであるらしい。

 そんなケロベロスをよそに、太郞は境内に設置されたベンチで横になった。

 そして地獄界では見ることのできない星空を眺めているうちに、いつしか太郞は眠りに落ちていた。




 それから数時間が経過し。


「ん……? なんの音だ……?」


 太郞はなにかの物音で目を覚ました。

 十メートルほど先、御神木であろう大木からコンコンと物音が聞こえる。

 月明かりを頼りに目を懲らすと、御神木のすぐ近くに白装束姿の者がいた。

 太郞でも知っている。

 これは丑三つ時におこなわれるという丑の刻参り、呪いの儀式だ。


「ふんぬ!! 死ねええええ!! ふんぬ!! ふんぬ!! 死んでしまえええ!!」


 その者は荒ぶるように声を張り上げ、何度も何度も木槌を振り下ろしていた。

 声色からすると、どうやら女性のようだった。

 誰かぶっ殺したい人がいるらしい。


「キエエエエエエエエエエエエ!!」


 その者の怨念は奇声へと変わり、狂ったように頭を振りはじめた。

 おわかりいだだけただろうか。

 これがリアルの怪奇現象である。

 こちらまで呪われてはたまらないので、太郞はケルベロスに「し~」と合図を出した。

 そして、そっとベンチから離れようとしたところ――。


 パキ!


 あろうことか、地面に落ちていた枯れ枝を踏みつけてしまった。

 太郞は恐る恐る白装束姿の者に目を向ける。

 完全にバレていた。

 白装束姿の化け物はこちらに顔を向け、瞳を不気味に青白く輝かせていた。


「そこの貴様ぁ……み、た、なぁ……?」


 木槌を振り上げ、ゆらりと左右に頭を振りながら、化け物がこちらに近づいてきた。

 殺す気満々であるらしい。


「や、やめろ……俺はなにも見てない……。おまえが『ふんぬ、ふんぬ』とおぞましい声を出して、五寸釘をコンコンと打ってたなんて、決して見てないし……」


 太郞はじりじりと後ずさりし、無慈悲な暴力をやめるよう訴えた。

 それでも片手を突き出し、戦闘態勢だけは忘れない。

 いざとなれば火炎放射のごとく、手のひらから地獄の業火をお見舞いしてやればいい。

 閻魔大王や万寿と同じく、太郞の体にも地獄の業火の力が宿っているのだ。


「貴様ぁ……バッチリ見てたようだなぁ……。許さんぞぉ……絶対に許さんぞぉ……。キエエエエエエエエエエエエエエエ!!」


 太郞の訴えも届かず、イカれた白装束が猛ダッシュ。

 手にする木槌は普通サイズのはずなのに、太郞には特大の鋼鉄ハンマーに見えている。

 さすがにこれはまずい。

 あんな凶器で頭を叩かれようものなら、パッカーンと脳ミソが弾け飛ぶ。

 ゆえに、太郞は地獄の業火を解き放つことを決意した。


「灼熱なる炎の精霊よ! 今こそ我に地獄の業火を与えたまえ! イクスティンファイア!」


 しかし――。

 詠唱を唱えるも、手のひらからはロウソク程度の炎しか噴き出さなかった。

 腹を空かせているため、業火の力が弱まっているのかもわからない。

 ちなみに地獄の業火を解き放つにあたり、詠唱を口にする必要はまったくない。

 だがオタクの太郞は、剣と魔法の異世界ジャンルも得意とするところ。

 だからこそ、自分で考案したこの中二チックな詠唱は欠かせないのだ。

 とはいえ、現状は地獄の業火も役立たず。


「なにが地獄の業火じゃあ! なにがイクスティンファイアじゃあ! 貴様のそのトンチンカンな頭を叩き割ってくれるわ!」


 白装束の化け物は、両足を広げて滑るように立ち止まる。

 そして高々と振り上げた木槌を、電光石火の勢いで太郞の脳天へと叩き落とした。


「ぐおッ!」


 太郞はあまりの衝撃でくぐもり、両手で頭を押さえてしゃがみ込んだ。

 さすがにこれは効いた。

 閻魔大王の息子で体も強靱ではあるが、脳天からピューと血が噴き出している。

 普通の人間なら即死しているところだ。

 すると――。


「ねえ、あんた大丈夫……? 頭から漫画みたいに血が噴き出してるけど……」


 やりすぎたと思ったのか、その者は覗き込むようにして太郞の身を案じた。

 声色も女の子らしいものに変わり、攻撃色はもう見られない。

 しかし、逆に太郞の怒りは沸々と込み上げてきた。


「大丈夫のわけあるか! この俺が血を流すってことはな、おまえの攻撃力はラスボスレベルなんだぞ! てか、なんで俺が暴行受けなきゃなんねーんだよ!」

「だって……丑の刻参りを目撃されたら、呪いの効果が消えちゃうじゃん……」

「それと俺になんの関係があるんだよ! しかもな、キエエエエ! とか叫ぶし、マジで不気味すぎなんだよ! おまえは老婆の妖怪かっつーの!」

「ご、ごめん……。興奮しちゃってつい……」


 しおらしく謝る白装束だが、意外にも高校生ぐらいの女の子だった。

 肩まで伸びた黒髪はサラサラで、ほのかにシャンプーの香りが漂っている。

 つぶらな瞳は透明感を湛え、今や、おわかりいただけただろうか、の『お』の字も見られない。

 白装束という不気味な格好を除けば、とてもかわいい女の子だ。


「しょうがねーな……。許してやるけど、死んだらおまえは確実に地獄行きだからな……」


 立ち上がりながら嫌みを言う太郞だが、相手はすこぶるかわいい女の子だし、怒りの矛先を納めるのは必然である。

 すると女の子は、近くで様子を見守るケルベロス(子犬バージョン)に目を向けた。


「ちょっと! なにこの子犬! 超かわいいじゃん!」


 女の子はパアっと表情を変え、ケルベロスを持ち上げてはしゃぎはじめた。

 それを見て太郞はげんなりとため息をつく。


「おまえな、豹変しすぎだろ……」

「おまえ、おまえ言わないでよね。あたしには『氷華ひょうか』っていう、かわいらしい名前があるんだから。てか、あんたこそ誰なのよ?」

「お、俺は太郞だ……」


 太郞は気まずくそう答えた。

 ここは地獄界ではなく人間界。

 自身の素性を隠すためにも、フルネームで閻魔太郞と名乗るわけにはいかないのだ。

 そんなことよりも、太郞は気になる質問を投げかけてみることにした。


「ところでさ、氷華は誰を呪い殺したかったんだ?」

「あたしのお父さんよ! あのクソオヤジ!」


 子犬を愛でる表情は一変。

 氷華は怒髪天を衝く勢いで怒りをあらわにした。

 そして彼女は続け様にまくし立てる。


「あたしのお父さんはね、ヤクザの組長なのよ! それがどれだけ迷惑なことか、あんたにわかる!? 学校では組長の娘として恐れられ、いつも一人ぼっちで友だちなんて誰もいないんだから! それにあのクソオヤジはあたしを溺愛していて、プライバシーにまで干渉してくるのよ! 自由もなにもあったもんじゃないわ!」


 泡を吹いて失神するケルベロスをよそに、太郞は腕を組んで考える。

 ヤクザの組長ともなれば、反社会的立場の人間だ。

 麻薬の密売や違法な金貸し、振り込め詐欺に売春の斡旋までしているかもわからない。

 死んだら確実に地獄行きだろう。

 自分は閻魔大王の息子だし、その父親をちょっとぐらい痛めつけても罰は当たらない。

 その交換条件として、氷華から食べ物をわけてもらうのだ。

 金のない太郞にとっては名案である。


「よし氷華、俺にまかせろ。おまえの父ちゃんをフルボッコにしてやる。その代わり、なんか食い物くれないか? 俺、一文無しで家出してきたからさ」

「あんたになにができるの? あたしと同じ高校生なんじゃないの? 相手はヤクザなのよ? 勝てるわけがないでしょ」


 これでは話が進まない。

 だから太郞は己の正体を明かすことにした。


「大丈夫、心配するな。じつは俺、閻魔大王の息子なんだ」

「閻魔大王って、あの地獄にいる閻魔大王のこと?」

「そうだ。俺の父ちゃんは、泣く子も黙る地獄の閻魔大王だ」


 しばしの沈黙ののち。

 氷華はオデコに縦筋を浮かべ、


「あたし、そろそろ帰る……。今日のことは全部忘れて……じゃあね……」


 と、ケルベロスを抱いてその場を立ち去ろうとした。

 氷華の言わんとしていることはよくわかる。

 彼女は変人と関わり合いになりたくないのだ。

 太郞でも、初対面の人間に「あたし天照大神の娘なの」なんて言われたら、お悔やみを申し上げてその場を立ち去る。

 つまり、証拠を見せない限り、閻魔大王の息子と信じてはもらない。

 ならばその証拠を見せるまでだ。


「おい、ケルベロス、生きてるか?」

「な、なんとかな……。でも死ぬところだったぞ……」


 氷華の胸に抱えられたケルベロル。

 泡を吹いて失神していたが、どうやら意識を取り戻した。

 証拠とはこれのことである。


「きゃあ! この子犬、おっさんみたいにしゃべった!」


 氷華はあたふたしながらケルベロスを宙に放り投げた。

 ケルベロスは猫のように姿勢を立て直し、軽やかに地面に着地する。


「ケルベロス、本来の姿を氷華に見せてやれ」

「太郞、いいのか? わし、SNSで拡散されてしまうかもしれんぞ」

「俺は今、業火の力が使えないからな。おまえが正体を見せるしかないんだよ」

「うむ、なら正体を見せるとしよう」


 次の瞬間――。

 子犬の体がどんどん肥大化し、それと同時に左右の頭も突き出した。

 丸太のような四つ足で佇むその体長は、およそ三メートル。

 三つの頭のそれぞれが獣の眼光を解き放ち、強靱で鋭い犬歯を除かせている。

 冥府の番犬、ケルベロスの登場である。


「ワシが地獄のケルベロス」


 真ん中の頭がそうしゃべる。


「いや、ワシが本物のケルベロス」


 右の頭がそうしゃべる。


「いやいや、オレが本物のケルベロスっしょ! つーか、なんで俺がいつも最後なんだよ!」


 左の頭がそうしゃべる。

 文句を言いつつ順序だけは守っているので、三男坊的な立ち位置なのかもわからない。

 そんなケルベロスを目にした氷華は、


「な、なにこの化け物……」


 と、震える声を漏らして青ざめた。

 太郞も幼児のころはケルベロスを見ておしっこを漏らしたものである。

 その化け物をはじめて目にした氷華が、おしっこをチビリそうになるもの無理はない。


「こいつはケルベロス。俺の父ちゃん、つまり閻魔大王のペットだ。これで信じてもらえたか?」

「信じるから子犬に戻ってよ……。めちゃくちゃ不気味なんだけど……」

「「「不気味なのはそっちだ!」」」


 三つの頭が同時にツッコミを入れた。

 協調性はバツグンだ。

 ひとまずケロベルスは子犬に姿を変え、太郞は勝ち誇ったように力こぶを見せつける。


「ヤクザだろうがイチコロだぜ! なんてったって俺は、将来の閻魔大王なんだからな!」


 こうして氷華との交換条件は成立。

 太郞はケルベロスと共に腹を鳴らしながら、これまた駄犬と一緒にほっと胸を撫で下ろした。

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