徳川家光

 言わずと知れた徳川三代将軍である。祖父家康以来、『鎖国』『参勤交代』など、江戸幕府の支配権の根幹を有する政策を完成に導いた名君とされるが、その実態はどのようなものであったのか。


 歴史教科書などでは家光は「(家康、秀忠と違い)余は生まれながらの将軍である」と称し、強権をふるったとされるが海音寺潮五郎かいおんじちょうごろうを代表として、昭和の作家の家光評は大抵が辛いものだったりする。


 わたしの目から見ても、どちらかと言えば軽忽けいこつな人柄だったように思えてならない。


 よく言われるのは、奇行が多かった話である。その最たるものはお忍びで、夜歩きだったとされる。


 勝海舟の晩年の語りおろしである『氷川清話ひかわせいわ』には、家光が夜中歩きをやめないので老中が怖い目に合わせてやろうと、屈強な男たちを雇ったのだと言う話がある。


 これに似た話として家光は辻斬りの常習犯で、柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえが被害者のふりをしてこれを撃退し諌めたとか、良くも将軍ともあろう人が、と言うような話もあるが、真偽は別として、まがりなりにも勝海舟のような幕閣が座興に口に出すくらいだから、幕府の武士たちの間で長く流布された噂話であったのだろう。


 他にも華美な服装を好んだり、伊達成実だてしげざね立花宗茂たちばなむねしげを御伽衆に従え、伊達政宗のいくさや関ヶ原の合戦の話を聞き、大いに喜んだとされるが、いくさの備えや軍学に凝ったと言う形跡はなく、能狂言の趣味をもっぱらにし、役者ではない家臣に無理やり歌わせたりするなど(柳生宗矩もその被害者)どちらかと言えば、家臣を困らせて無邪気に喜ぶだけの困った若殿さまの風采がしないでもない。


 むしろ、幕府政権としてはこのような無害な殿様が望ましいということもあった。この頃、幕政が官僚文治主義に移行したことは『本多正信』の項で述べたが、優秀な幕府官僚のひしめく中で指導責任者たる将軍の意向は薄ければ薄いほどよく、独断専行の主君がいてもむしろ邪魔なだけであった。


 中国王朝における宦官と皇帝の地位関係を見るまでもなく、王様の仕事といえばもっぱら、子供を産ませることだけが望ましいと考えられたのだ。春日局による大奥の誕生とともに、幕末、『英雄不在』と言う徳川家の崩壊要因は家光の時代に、その萌芽をみたと言ってもいい。


 ある意味では幕閣による、徳川家の無力化は、この時代、必然性を帯びて半ば意識的に行われたと思われる。いわゆるかつて、家康が自子、岡崎三郎信康おかざきさぶろうのぶやすに理想をみた英邁型えいまいがたの名君はむしろ、幕府の脅威と捉えられたと考えるのが妥当だろう。


 その代表的な例が、家光と将軍の座を争った実弟、駿河大納言忠長するがだいなごんただながの切腹事件や、紀州藩祖、徳川頼宣とくがわよりのぶ由井正雪ゆいしょうせつの乱に加担し、詰問を受けた事件に象徴されている。


 まず実の弟、忠長は将軍後継の争いに敗れたあと駿州、遠州、甲州55万石を領する堂々たる太守となっていたが、暴君として家臣を手打ちにした疑いをかけられ、甲府蟄居こうふちっきょの罪を得る。


 ついで加藤忠広かとうただひろ加藤清正かとうきよまさの子、肥後熊本藩藩主)改易事件の関与の罪を着せられ、領地没収の末、28歳の若さで切腹を命じられるのだ。


 このとき手打ちにした家臣は間者の説があり、また改易になった忠広も、忠長と親しいだけで濡れ衣を着せられ、忠長切腹の口実とされた、とも言われる。


 他にも静岡浅間神社で禁じられた神獣の猿を狩り殺した、領民を殺害し、妊婦の腹を割いたなどと言う暴君伝説が遺っているが、内容としては暴君説を流布する典型的な逸話と感じられるものばかりだ。


 また頼宣は家康の十男だったが、『南龍公なんりゅうこう』の異名をとる名君である。家康はこの晩年の子をかわいがり、大坂冬の陣では自ら初陣の鎧初めの儀を行う特別扱いを受けたとされる。


 この頼宣だがまた、度胸が据わっている。


 慶安の変では、松平伊豆守信綱まつだいらいずのかみのぶつなら老中が、由井正雪が頼宣の印章の入った文章を使っていたことを詰問し、関与を疑ったのだが逆にしれしれと笑い、

「それは幕府ご安泰の印に他ならず。幕府に敵する外様大名の印になく、(偽造されたのが)神君家康公が子、頼宣のものにてあるゆえ。いずれにしても、徳川家の威権これにて安泰である」

 と堂々と釈明したそうな。


 この頼宣も鷹狩りで領民を撃ったり囚人の試し斬りにはまったり、しょうもない暴君伝説が残っているが(いずれも家臣に諭されてやめている)戦国さながらのお殿様と言うのは、おしなべて見てこれくらい荒っぽかったのかも知れない。


 家光も柳生新陰流免許皆伝だが、いわゆる『義理許し』の印象が免れない。もしかすると、親戚家の武断派の男たちからすると、かなり物足りない存在であったのではないだろうか。


 先に松平信綱の話が出たが、土井利勝と並んで、家光政権を盛り立てたのはこの男であった。同じ徳川家の男で家光のような無害な人物になり代わって脅威となりうべき人物の排除に力を傾けたのではないかと言う疑惑は、拭いきれない。


 その家光だが、献上品の茶碗を眺めている際に震えが止まらなくなって倒れ、47歳の若さで息を引き取っている。死因は恐らく脳卒中であり、歩行困難の障害がすでにあったと言う。あっけない急死であった。


 家光の死後、常例である殉死を、松平信綱は行わなかった。当時、幕府をはじめとする武家官僚たちは、主君が死んだ際、追って腹を切ることで顔ぶれが一新する暗黙の決まりがあったのだが、信綱は死なかかった。


 伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり


 などと言う臆病者と言う批判に甘んじたのは、信綱が現今の幕政は自分で持っている、と言う自負があってのことだろう。


 信綱は四代家綱をも補佐し、さきの慶安の変ばかりでなく、明暦の大火の鎮火などにも一役買っている。信綱と言う人物が象徴することは、すでに幕府が名君の将軍の存在を必要としておらず、ある意味で人畜無害な人物が将軍である方が自由に振る舞えると、幕府閣僚と言うエリートたちが考えていたことに他ならない。


 そしてあの黒船来航によってその首座である老中、本来は臨時職であった大老の威権が揺らぐとき、そうした不自然さを抱えながら発達した、江戸幕府と言う政権のもろさが一気に露呈することとなるのだが、それはまた後の機会に譲ろうと思う。


 はて今話、真の姦人はいったい誰なりや。

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