吉良義央

 さて、ながの無沙汰を経ての再開で恐縮の到りであるが、本稿のテーマである『姦人』に立ち返って、江戸時代にはまずこの男を取り上げねばなるまい。


吉良義央きらよしなか』である。

 世上はこの本名よりも官名を戴いて『吉良上野介きらこうずけのすけ』の名が通りがいいだろう。


 言うまでもなく、歴史上名高い人気エピソードの一つ、浅野赤穂浪士あさのあこうろうしの『忠臣蔵ちゅうしんぐら』、主君の仇を討とうと四十七士が血眼になって探した敵役がこの吉良義央である。


 元は神君・徳川家康の主家である今川家の流れを汲む吉良家の当主として(義央はかの今川義元の玄孫やしゃごにあたる)幕府から特に、名家の称号の与えられた彼は高家こうけを称した。


 二十六あるとされる高家のうちの一家である吉良家は、徳川将軍家の儀式次第を取り仕切る立場を任されたようである。


 貴人の格式を守る役割として、このような役割を一手に任せられる家と言うのは、徳川家に限ったことではない。家康は今川家の格式を援用したと思われるが、これは室町将軍家にも存在した役職である。


 将軍の身の回りの世話をしたり、相談を請け負ったりする同朋衆どうぼうしゅうと言われる武家たちがその起源と言える。


 家康は元の主筋であった今川家や、尊敬する信玄の系統であった武田家、天下取りの大恩人である織田家などの名家の子孫を探し出しては名族を復興させ、将軍の権威を守る役職に就かせた。


 それは槍働きの武者ひとりを厚遇するよりは、行く末、徳川家に大きな恩恵をもたらすことになったと言える。


 いくさの無くなった時代、すなわち文治政治の時代に、権威ある高家は、最も威勢をふるったのである。


 確かに現在ひも解いてみても、徳川家の礼は煩雑だ。江戸城で将軍家の行事に付き従う大名衆は家柄によって待機する部屋まで分けられ、又は執り行う行事によって服装や立ち居振る舞いまで厳しく制限されたのである。


 古くは中世までさかのぼるこの武家貴族たちの格式と規則の目的はひとえに、貴人の暗殺防止であり、将軍に閲する人たちはそれこそ顔の上げ下げから返答の仕様まで指図されたものだが江戸期の文治政治においてはこの煩雑な格式は、いわゆる減点主義のテストであり、大名衆のリストラ審査への橋渡しであった。


「武門不心得」


 当時の武士たちが一家一族滅亡せられる理由は、この程度で成立しえたのである。恐ろしい皮肉だが、元は武断政権であった徳川幕府にとってむしろ、武士と言う存在そのものが何より邪魔であった。


 例えば家康存命時に成立し、その後何度も改訂を得ている武家諸法度は、言ってみればリストラの理由書であり、武士たちの行動規範は『御家断絶』の四文字で固く戒められていた。


 その極端な例が家督相続である。当時は心臓発作や卒中など不慮の死であっても、相続に適当な跡継ぎが設定されていない場合、その家は改易断絶、跡継ぎを用意していないことが、

「武門不心得」

 とされたのである。そのために武家ではしばしば、すでに死んでいる当主の葬式を中断してまで「家督相続」を行い、その間は生きていたように偽装することまで行われたそうな。


 本稿にも度々引用する作家・南條範夫なんじょうのりお氏が規定する封建社会と言うものは、「少数のサディストと、それに従う多数のマゾヒストで」成立している、と言う表現がまさに言い得て妙である。


 そのスリルの最先端に、高家である吉良家はいた。そして義央は特にその最前線を突っ走ってきた人であった。義央がこのルールの厳しい社会に適応して、最も厳しい裁定者の道を歩いてきたのは、その事績をみても分かる。


 義央はなんと吉良家の家督を継ぐその前から、重要な役割を任されていたのである。彼の出仕は万治二年(一六五九年)、十八歳のときであるが、家禄とは別に一〇〇〇俵もの庇蔭料をもらっている。


 しかもその三年後には、二十一歳にして時の天皇に拝謁する栄誉を得ている。立場に推されてのこととは言え、中々出来るものではない。世上は強欲の卑怯者とされる義央だが、本人はかなり胆力のある人物だったとみて間違いない。


 証拠にこの一度目ばかりが立場に押されての機会でなく、生涯を通じて計二十四回の上洛を果たしているのである。当時、幕府と朝廷の橋渡しを行う典礼に携わることは、高家の中でも最上の名誉にあたった。


 義央はこのように若くして徳川幕府の最前線にいたのだから、その辣腕はかなりのものではあったとみていい。

 さらに義央一代で吉良家について語ることがあるとするならば、それは米沢上杉家の窮状を救ったことだろう。


 当時、上杉謙信以来の越後百二十万石を誇った上杉家は、三代藩主綱勝が急死し、例の武家諸法度の流れで御家断絶の危機に晒されていた。ここに救いの手を差し伸べたのが、義央であった。


 実は綱勝の妹・富子は、義央の正室であった。そこで義央は一計を案じ、血のつながりのある自分の嫡男、三之助(のち綱憲つなのり)に上杉家を相続させ、どうにかことなきを得た経緯がある。


 本来ならば法度によって上杉は滅亡である。幕府の中枢に関わり『高家肝煎こうけきもいり』と言われる立場の義央だからこそ、得られたお家存続の裁定である。上杉家ではこれに感謝して、毎年、吉良家に過大な援助をするようになったほどだった。


 高家でもエリートコースに乗り、同じ名族である上杉家の後ろ盾も得て、義央は当時、幕政においても時流を得た権力者として我が世の春を謳歌し続けていたのである。


 以前本作では、『本多正信』『徳川家光』の項で、江戸幕府はその創成の時期において優れた戦闘司令官が重んじられる武断政治から、官僚的優秀さが尊ばれる文治政治への転換がなされた、と描いたが、ある意味ではこの義央も、その時流の最先端にいた、と考えていいだろう。


 戦国乱世さながらの世においては、貴人の御前を取り仕切る奏者などは人がましい扱いも受けなかっただろうが、『格』と『形式』を重んじる文治政治の時代においては義央のようなものの立ち位置は、「ルールブックそのもの」と言って良かったのだ。


 江戸幕府の正史である『徳川実紀とくがわじっき』において吉良義央は長年このような地位に居座ったため「公武の礼節典故を熟知精練すること当時その右に出るものなし」と他の追随を許さぬ存在であった。


 また同記においては「賄賂わいろを貪り其の家巨万の富をかさねしとぞ」と描かれている。なんと幕府の公式記録に、権勢を嵩に来て賄賂は受け取り放題、私腹を肥やしまくっていた、と明記されていたのである。


 事実、義央の乱費は押しも隠しもせぬ公然周知の話であり、そのつけは息子・三之助(上杉綱憲)に跡を継がせた米沢上杉家にも及んだとされる。御家断絶から救われた上杉家はそれ以来、吉良家の買掛金や普請金を負担させられ、おおいに窮乏に追い込まれた。


 藩の勘定方・須田左近は国元の家臣に宛てた書状の中で「やがて当家も吉良家同然にならん」とうそぶいている。米沢二十四万石が義央の乱費でゆくゆくは吉良家六千石同然になるだろう、と言うのだから、ただの冗談として笑える類いのものではない。


 事実、義央の乱費は度が過ぎていたのだろう。『江赤見聞記』によると、義央とともに典礼を行う浅野家と伊達家が呼び出され、ときの老中・秋元但馬守喬朝あきもとたじまのかみたかともより典礼の費用が年々重くなっているので「万端、軽く相調えるよう心得よ」との言葉が下されたほどである。


 若き浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりは、そのこともあり大御所義央と衝突したと思われる。


 時代考証家、三田村鳶魚みたむらえんぎょによると、浅野家が出した緊縮財政の饗応費の予算組が、義央より真っ向から反対を受けたらしい。例年千二百両とも言われる予算が、七百両にまで削減されたのである。義央、長矩ともに一歩も退かず、これが両家の深い軋轢になったと考えらえる、と言うのだ。


 義央からすれば、幕府最高の典礼である朝廷との儀式の予算を惜しむ、と言うのは、自分の立場と沽券に係わることだったのだろう。だが、格式を重んじる生涯を送り過ぎたあまり、義央の金銭感覚は狂っていたのではないか、と言うのが、わたしの見る義央像である。あまり良い言い方ではないが義央の乱費は、「たかり上手」の乱費である。


 これが自分の金なら、これほどの文句は言われまい。立場はまったく違うがここが例えば織田信長であったなら、絢爛豪華な安土城を建てようが、巨大船を建造しようが本人の懐事情で好き勝手だが、義央の乱費は他の多くの武家たちが涙を呑んでの犠牲の上に成り立っているのである。


 ただ義央の名誉のために言っておくと、賄賂次第で露骨なえこひいきをした、と言うのは、後世の芝居『仮名手本忠臣蔵』のイメージから拡がった逸話が多いとは言っておかねばなるまい。


 恐らくは浅野内匠頭事件とともに、たかりにたかった息子の家、上杉家の窮状が半ば公のものとなり、「吉良上野介は強欲で、賄賂が十分ではない大名家に露骨ないじめをした」と言う話が他の大名家にも沢山あったとして、ことあるごとに援用されたのではないか。どケチで小意地の悪いたかりキャラとして、完全にイメージが固まってしまったのである。


 だが肝心の松之廊下で浅野長矩が、吉良義央を襲った理由にその露骨ないじめがあったかと言えば、なかった、とは言えまい。「此の間の遺恨、覚えたるか」と浅野長矩が叫んで斬りかかってきた、と証言しているのは、その浅野長矩を捕縛した梶川与惣兵衛である。


「此の間の遺恨」と言う言い方には、中々含みがある。予算組の問題で長年の軋轢あつれきがあったことを指しているのなら「積年の遺恨」となろう。


 そのことが端を発しているにしても、吉良義央から浅野長矩に対して直接何かしてのけたことがあった、と言うのが「此の間の遺恨」と言う言葉に繋がった、と考えるのが妥当である。


 芝居では典礼に着るべき服装を間違えて教えた、浅野長矩が遅刻するように時間を違えて教えた、などと言う逸話が出てくるが、これは代表責任者である吉良義央自身の監督責任と名誉に関わるために彼が仕組んだと考えるのは不適当である。もっと直接的な諍いや侮辱があったと考える方が適当かも知れない。


 実は事件当時は、短刀を振り上げて「斬りかかった」浅野長矩の方が、武士として不心得であった、と揶揄された。


 戦国乱世をくぐり抜けた武士ならば誰でも分かること、「馬手差めてざし」と言うように本来、脇差は「斬る」ものではなく取り押さえて相手の首を「刺す」ものなのである。


 長矩が義央を突き伏せて首を掻き取るより、四太刀も斬りつけて仕留められなかったことが、動転逆上の証拠とあげつらわれたのだ。長矩にとっても心底では、殺す気はなかったのかもしれない。


 手向かいをしなかった義央はむしろ「神聖な殿中が自分の血で汚れることを心配した」ために神妙とされ、罪科を問われなかった。長矩がついに「此の間の遺恨」の真相を誰にも明かさなかったところを見ると、実は聞いて見れば「なんだ」と言うくらい、ほんの些細なことで逆上してしまったのではないか。


 かくて命を拾った義央だが、一年後の元禄十五年十二月十五日、高名な赤穂四十七士討ち入りによってあえない最期を遂げる。


 家来二名とともに難を逃れ物置に立て籠もっていたのだが、間十次郎はざまじゅうじろうに槍で突かれ脇差を手に飛び出したところを、武林唯七たけばやしただしちによって斬り伏せられ、息絶えたと言われる。


 四十七士の指揮者である大石内蔵助良雄は浅野内匠頭の泉岳寺の墓前に供え、仇討の作法通り短刀で首を二度打って、供養とした。


 わたしは過剰な乱費癖を義央の第一の死因としてあげたが、彼にはやはりその意識はなかったと思われる。義央は乱費家かも知れなかったが、浪費家では決してなかったようだからである。


 彼の領国、三河幡豆郡みかわはずぐんにおいては、義央は富好新田の開発で領民を潤した「名君」であったのだと言う。この風姿は、規模は違えど、かの老中田沼意次たぬまおきつぐに似る。


 田沼も汚職政治で失脚したが、両替商人と米相場に注目し巨利をものにする一方、利根川をはじめとする治水事業や新田開発を行い、金と言う魔物の扱い方を理解していた。いわば時代に先駆けた経済感覚を持った「新しいタイプの武家政治家」であった。


 この伝からいけば、義央にとってみればカネは使ってこそ、「活きる金」であり、その思い切りと胆力こそが老年に到るまでの人生を切り拓いてきた「極意」だったに過ぎないのではなかったのだろうか。思えば皮肉と言える。


 文治政治の世に即応し、時代のトップランナーだった『経済人』義央だったが、彼を殺したのは泥臭いリストラ赤穂浪士たちによる「滅びゆく」武断思想だったのである。余談だがこの相克は、実は巨細に見れば幕末暗殺史の系譜にまで繋がる深い構造的因縁を秘めている。この項については他日、後段に譲ろう。


 さて今回の姦人はかの国の新首謀者のごとく、エコノミクスの申し子か、はたまた恨み深い狂信的なテロリストか。ご判断は読者諸兄にお任せして、しばしの閉幕。

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