本多正信

 家康を天下人に祭り上げた陰の立役者である。彼の一番の悪謀はなんと言っても、豊臣家を滅ぼしたことだ。


 良く言えば最小限度の手間で豊臣政権を解体し、武断政治が当然であった戦国大名と言う存在そのものを終焉に導いた功労者の一人と言うことになるのだが、その後世の評価の中から立ち現れて来るのは、晩年『狸親父』の異名をとった家康同様、狷介けんかいにして暗い老練狡猾な陰謀家の風采である。


 その理由の第一には、家康の代理人として幕府の政務一切を取り仕切ったために『虎の威を駆る狐』として恐れられ、諸大名よりもむしろ、徳川股肱の旧臣たちに憎まれ切ったことが大きいと言える。


 お馴染み『三河物語』の大久保彦左衛門は、正信は悪行の因果が祟ったせいか、唐瘡とうがさ(梅毒のこと)の悪化で顔が崩れ、奥歯まで見えて死んだ、と執拗なまでにこき下ろす。他にも榊原康政や本多忠勝と言った四天王が、はらわたの腐った奴だの、味噌塩の勘定で出世した奴だの、さんざんな言われようである。もちろん背景には、一気に頭角をあらわした新参者に対する嫉妬がある。


 家康の元・股肱の家臣にして儒学者の石川丈山いしかわじょうざんも、家康が本多正信を寝所傍らにおいて夜っぴて語らい合うい、家康が正信の意にそぐわない意見を言うと、正信は居眠りをして応えず、家康もそれを咎めなかったほどの仲であった、と書いている。


 ちなみに正信が家康とそのような仲になったのは、少なくとも天正十年(1582年)以後であり、本能寺の変以後なのである。それ以前は正信は諸国放浪して他家に仕え、一時は一行門徒として信長を敵に回していたとも言われる。


 そもそも家康の徳川家を出奔したのも、三河一向一揆で正信が家康に反旗を翻したからであり、譜代の家臣としてはもちろん、そんな人間が家康の政務一切を預けられる筆頭に抜きん出るなど、到底許しがたい事態なのである。


 しかし正信とすれば、裏切り者はともかく『新参者』のレッテルは納得いかなかったと思われる。と、言うのも正信の本多家は安祥城あんじょうじょう譜代であり、家康の祖父の頃からの旧臣の出なのである。


 桶狭間合戦では、正信は家康を庇い、膝に重傷を負うほどに尽くしている(『佐久間軍記』)。徳川家帰参の折は、そのプライドだけを頼りに一心に家康に仕える気持ちであったに違いない。


 正信自身、旧臣の嫉妬は重々承知であり、あれほど重用されていながら、二万石以上の禄高は決してもらわず、私腹を肥さないことを遺訓にもしている。放浪の最中、あの強欲で知られる大和の松永弾正久秀まつながだんじょうひさひでに重用されたのだがそれも、彼が私情を抑え、人に仕えていくことの大切さを経験から学んだからに違いない。


 一時の私情で家康に敵対し、国を逐われた労苦が正信を変えたとも言える。彼はこの時代の戦国武士としての『野望』は持たない人間になったのである。だが、彼の『姦人かんじん』たる性は、そのときに別の価値観を求めたと思われる。それは謀略家、としての才知の発揮である。


 実際は短気で心配性の家康を、懐深く正体のない、武田信玄や松永久秀のような肚の太い謀略家に変貌せしめたのも、正信の力が大きい。例えば戦闘によらずして大坂城の堀を埋め、難攻不落の防塞を解体せしめるような腹芸も、家康には出来なかったことであり、正信との絶妙の打ち合わせによるものだ。


 しばしば戦国はそうした技能人を生んだ。無欲と言う点では、軍師竹中半兵衛重治たけなかはんべえしげはるがそうであったし、信長の使番を務めた堀久太郎政秀ほりきゅうたろうまさひでなどもその類だが、この正信もいわゆるそうした一代『名人』であったのだろう。


 しかしこの名人、というものの一生は儚い。家康の謀略に命を傾けた正信だが、その生き様はやはりどこか偏向した部分が大きい。正信自身は恬淡とした人柄に見えるが、やはりその才を発揮するにあらゆる犠牲を惜しまなかったのである。


 讒言ざんげんによって大久保忠隣おおくぼただちかを失脚に追い込んだのも、正信のその暗い性根の隠しきれないところであった。


 忠隣の父、忠世は裏切り者の正信を家康に取りなして帰参を成立させた張本人であり、忠隣は正信にとっては年下の相役だった。徳川秀忠の守り役になるなど権勢を誇った忠隣だが、人望のない正信をあてつけるように徳川譜代がこぞって彼を推したのに嫉妬したと思われる。


 もちろん、このように描くと、守り役の立場を利用し私腹を肥す忠隣が今後の幕政にとって宜しからず、正信自身の私情ではない、と言う反論も聞こえてきそうだが、恩人の息子の忠隣を諫めず、直接家康に讒言ざんげんした経緯はやはり、正信の立場への執着に起因するものとみるべきである。


 忠隣は改易、と言う厳罰を受けた。これも正信が恩人の息子の情で家康に取りなしていたなら、その罪はまだしも一等を減じられたに違いない。


 折しもいくさは絶え、徳川政権は文治派の官僚階級社会になりつつあった。榊原康政や本多忠勝と言った徳川四天王のような武断派を排して文治派筆頭を確立した正信であったが、恩人の息子はあくまでその政敵であったのだ。


 以降、徳川政権は長い官僚封建社会体制に移行する。正信の子、本多正純ほんだまさずみ宇都宮城釣天井事件うつのみやじょうつりてんじょうじけんにおいて将軍暗殺の罪を着せられ、政敵に抹殺されたのも、また歴史の皮肉である。



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