徳川家康
悪人、と言えば腹黒、狸と言われたこの人物を取り上げなくてはならない。
江戸時代でこそ、神格化された家康だがその生涯は、血みどろの陰謀と立場の転変、恐ろしい錯綜にさらされ続けた。
その中で強烈に自我を保ち、ついには、陰謀と言う絵図を自ら描くに至った人格は空前にして、絶後である。
実を言えば徳川家康こそ、織田信長に並ぶ、戦国乱世、と言う世相の最も暗い部分が産み出した、いわば影の申し子と言える。織田信長を、激しいスポットを浴び続けた、陽の申し子と言うなれば、である。
家康と言う男の生涯を俯瞰するとき、人は忍従苦労の人柄と裏腹に激情の質を抱く。それは言うまでもなく、風雲児であった祖父、
祖父清康は、25年の短い生涯を終えた人だが、三河統一を成し遂げた偉人である。18歳にして3度の婚歴があった破天荒な清康は小柄ながら『鷹』と慕われる名将だったが、陰謀によって部下に惨殺されると言う非業の最期を遂げる。
そのようなわけで家康の根底には、これも家康以前に英雄であった清康の気質を汲んでいるとしばしば言われるのだが、家康自身はその激情なるものをどれほどに受け継いだ人格の持ち主であっただろう。
ちなみに家康の血統を『内気で堅実な常識主義者』と『なりふり構わない短気な暴君』に色分けしたのは、作家の
堅実堅固、ともすれば私情を殺しても秩序を守ることのできる秀忠のような前者の型の息子たちを家康は重用し、江戸幕府の重鎮となした。
ただ家康自身、そのどちらを愛したかと言うと、本質的にはやはり後者であったと思う。
乱暴不行状の粗暴さが身の破滅を招いた信康だったが、家康は彼の武勇と将器を惜しみ、関ヶ原合戦の頃までその才を惜しんだ。多少乱暴でも内政よりも武勇に優れた息子を家康の私情は愛したとみて、いいように思える。
奔放と慎重、不遜と協調。そのどれもが家康の血をわけたものだ。となると家康自身の本来はどのような性格の人間であったのかと言うことになろうが、わたしはどちらかと言えば前者寄りであったかに思える。腹黒いと言われる一方で、実は短気だった、と言われるその短気な印象はどこから来るのか。
家康のなまな人柄を伝える記録としてはやはり『三河物語』が、信憑性が高いかと思われる。
これは家康最古参の家臣、
短気だと言うのは、いくさどきに鞍つぼを叩きまくる癖があったと言う記事がそうだろうか。家康は合戦時、興奮するたちで、本陣に控えながら激昂し、馬の鞍つぼを叩いて怒鳴り散らすので、いくさが終わると手が腫れ上がり、またそれが治らないうちにいくさに出るを繰り返した、と言うので、晩年は拳を握るのも困難だった、と言うのだ。
そこには確かにさながら戦国叩き上げの
信長の癇癪は、案外と計算され尽くした癇癪である。一見、暴君の好き勝手だが、彼は土壇場になるとそれを抑え、逆に恐ろしく冷静になることが出来た。
しかし家康となるとそれは、追い詰められたときにむしろふいに飛び出してくるもので、家康の生涯でたびたびそれが自暴自棄の自殺行為に繋がっている。
三方原で武田信玄に無謀ないくさを挑んだときも、本能寺で信長が殺されたことを知り、自分も智積院で切腹をすると言ったときも、この癇癪が、家康を死に導きかけた。
このように家康が短気を起こすのはいつも追い詰められたときなのである。そのような人間が本当に激情型の短気な人間だったようには、わたしはどうしても思えない。
だから実質上は後継者として自分に似た秀忠を選んでおきながら、蛮勇があったと言う長男、信康を偲び続けた、と言うのは無いものねだり、と言う感情の表れとも感じられる。
「重き荷を背負い、坂を上る」
と自ら称したように、忍従のみが人生であった家康だが、耐え抜いた末に得たものは、人間的にも大きかったに違いない。
関ヶ原から大坂の陣にかけての采配は、まさに横綱相撲に相応しかった。
世人はこれを称して腹黒い、とか、狸、とか言うわけだが、この頃の家康は信長の畏怖と信玄の奸智、そして独自の人脈を築き上げた戦国時代最強の存在だった。
その家康が巨大な政治的存在として集大成し、豊臣家を最小限の内乱で無力化した手腕は古今未曾有と言わなければならない。
何度も自分より上手の生まれつきの姦人たちに追い詰められた彼は、ついに自らを究極の姦人として昇華せしめたのである。
最後に家康の死因が鯛の天ぷらによる食中毒だと言う誤解を整理したい。現在は胃ガン説が有力である。症状の顕在化から三ヶ月患っていること、外から触診してそれとわかる大きなしこりが腹に出来ていたことなどからも胃ガンであり、鯛の天ぷらは直接の死因とは考えがたいそうな。
また鯛の天ぷらだが、正確には鯛の南蛮漬けである。この記事を載せているのは秀吉の妻、おねの甥、
榧は油としては現在も希少品であり、家康は、最高級の贅沢料理を食べたわけだ。納豆の味噌汁が好物、と言う老齢の家康の腹には、さぞや堪えたに違いない。
普段揚げ物を食べない人が、ニンニク醤油でフライを食べたのだ。食当たりを起こして当然なのだ。
だがこのとき潜在的にすでにあったガンが家康の身体に障りだしたのであれば、あの天ぷらのせいだと、家康が鯛で腹を壊した事実を知るものが考えても無理もないことだ。
老人は三ヶ月の患いで亡くなった。最期まで意識は、はっきりとし、遺言も整理されたものだったと言う。ガンが大坂の陣のときに発症しなかったことといい、家康の生涯はなるべくして、戦乱を治める命運の下に導かれてきたものだったのかも知れない。
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