織田信長

 自ら悪人を称した男の登場である。彼が称したとされる『第六天魔王だいろくてんまおう』は、天台宗のトップを称した武田信玄に対してへりくだったものだとされるが、巷間、取りざたされる悪名は、一向宗をはじめとした武装宗教勢力の前に仏敵として敢然と立ちはだかったがために、流布されたものに他ならない。


 と、この辺りはどう書いても誰かが書いた解釈に準ずるものになってしまうが、要は自分の中の好悪善悪で、この世を塗り替えてしまわねば気が済まない、敢然とした意志と壮大なエゴを持っていたのが、信長と考えて間違いないだろう。そう言えば、信長には『甲州法度次第』や『今川仮名目録』と言った公式の普遍法がない。恐らく信長の発想の形態そのものが、成文化したルールに従う、と言った感覚から、かけ離れていたのだろう。


 悪く言えば思いつきで、天下を目指していた男なのである。と言うか、思いつきだからこそ、その欲望の範囲は、壮大なスケールになったのだとも言える。天才と言われる癖にある面では排他心の一切ない無限の好奇心の持ち主だった。


『怖い』と言うイメージの強い信長だが、実はやたらと気さくでもある。秀吉の浮気の仲裁を妻おねに取りなした手紙の話も有名だが、また有名なのは長岡与一郎ながおかよいちろう(若き日の細川忠興ほそかわただおき)に対して、戦場で手ずから認めた自筆の感状である。


 これなど15歳の少年に宛てた手紙だが「お前の折紙(報告書)を読ませてもらったぞ、これからも遅参や油断をすることなく、がんばりなさい」と丁寧にフォローしていると言う手抜かりのなさだ。恐らくは現代人が会いに行って一番サインや握手に応じてくれる人は、彼かも知れない。その代わり、信長の好奇心が満足するまでさんざん付き合わされると思われるが。


 ちなみにもし、信長に会ったとしたら一番やってはいけないことがある。嘘やごまかしを言うことである。その場合、漏れなく命に関わる事態になると思われる。


 最も有名な例で言うと『信長公記』にも記録がある『無辺むへん』と言う坊主の話がある。無辺は近江の石馬寺いしばじと言うところに寄宿する流れ者の僧だったのだが、いわゆるカルト教団の教祖であった。丑時うしどきの秘法と言われる怪しげな祈祷や呪いで荒稼ぎしていたのである。信長は無辺を安土へ召して、その真偽を確かめた。天正八年の三月二十日のことだった。


「おのれはいず方より生まれし僧にてあるか」


 信長の下問にも、無辺は、さあと笑って答えない。日本人でないなら外国人かと問うたが、神秘性を守りたい無辺は、色々ごまかしたのだろう。そこで信長は言った。

「ほう、生まれどこなきとは妖怪の類いかも知れぬでや。ちと火炙りにしてみるか」

 信長は黒人の肌が黒いかどうか洗って確かめた男だ。本当に火刑の準備をさせた。脅したと言うよりは、純粋にやってみたかったに違いない。無辺は信長の本気に、たちまちおののいた。

「あいやしばらく!せっ、拙僧、出羽羽黒山の生まれにて!」

 嘘とわかったときの信長の怒りは凄まじい。実は半分がっかりしてもいたのかも知れない。

「嘘か!おのれこの信長に偽りを申せしかっ」

 その後も信長に追及されて、「へそくらべ」と称して女性の信者に性的虐待まで行っていたことを白状させられた無辺は即刻処刑されたと言う。


 このように、信長は嘘やごまかしを一番嫌い、しかもそれを自分でとことん追及しないと気が済まないたちであった。他にも人身売買をしていた下京馬之町の女房、偽りの訴状で信長に直訴に及んだ山崎の商人を信長は自ら成敗している。暴れん坊将軍どころではない。


 そんなことしてる場合じゃないほどえらい人なのに、この二件についても信長の捜査は理詰めで、やたらと綿密なのだ。必ず担当者を呼び、事実関係を調べてから判断する。一見暴君に見えるが、この辺り、並みの暴君とは器もスケールも違う。


 揺るぎない判断力を持った信長であったが、やはり最大の失敗は、その精神性をシステム化出来なかったことにあるだろう。彼の後継者になった長男信忠は、確かに優秀だったが信長ほどの強権を振るえる立場にならなかったし、またそうした性格でもなかったようだ。晩年の信長自身、それを分かっていた。そこで始めたのが、いわゆる旧臣たちのリストラだったのだ。


 かくして自分の死後、信忠に意見力を持ちそうな人間を排除していくことに信長の情熱は傾けられた。例えば佐久間盛政の追放はそれに当たる。この場合、老齢で現在、最前線にいないものから、整理を開始したのだろう。たぶんだが次は柴田勝家だったと思われる。


 そしてその流れを悟って、恐れおののいた人間がいる。明智光秀である。彼は信長よりも六歳も年上、しかもまだそれと言う後継者もなく、信長に言われるまま、仕事に生きてしまった。さらには自身が手掛けていた四国政策の担当をはずされ、急遽、秀吉のサポートにつけられたのだ。


 次のリストラ対象は自分かも知れない。


 光秀の危惧は、西国行きの時点で最高潮に達したと想う。遠隔地へ飛ばされる行く末にも危機を抱いた。それでもまだ仕事を命じられるうちは、と思ったが、いつまでも自分がそれに応じられるとは限らない。何より信長と言うのは思い付きの人だ。


 そこで、

(よし)

 と言うわけで、思い付いてしまったのであろう、光秀は。人の世の皮肉である。今まで思い付きでこの世の中を振り回していた信長は、思い付きなど普段はしないはずの光秀の思い付きによって、まんまと殺されてしまったのである。


「是非もなし」


 この、信長の最期の言葉を『信長公記』の作者、太田牛一おおたぎゅういちは、本能寺から堺に避難してきた女房衆の一人から直接聞いたと言う。それにしても、実際はどんなニュアンスで言ったものだろう。いずれ処分するはずの部下に先を越されて案外、ため息まじりの「しょうがねえか」みたいな感じだったのかも知れない。



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