266 闘技場の夜 4

「やれやれ、それで? 君は僕に何が聞きたいの? 好きな子のタイプ? お風呂で最初に洗う部分? 君みたいな可愛い子だったら、こんな契約しなくともいくらでも教えてあげるよ」


 アンリの軽い口調とお世辞が籠った言葉にも、ユーシャダイの表情は一切揺るがない。

 いつもにまして、お世辞に感情が全くこもっていないせいだろうか。

 冷静で物静かな目線がアンリを捉えている。


「私があなたに聞きたいことは一つだけです」


「これだけのことしといて、たったの一つだけ?」


「えぇ、この場で嘘はつけません。嘘をつけば、その魂は裁かれ塵と化します。それはあなただけでなく、私にもいえることだ」


 ユーシャダイの静かな言葉には、脅しが込められていた。

 しかし、アンリに恐怖の影は見えない。

 嘘さえつかなければとりあえずは何も起きないと判断したアンリは、軽く肩をすくめ、椅子の背もたれにゆっくりと体重を預ける。

 今すぐ奴隷を召喚し、嘘をついた際の天使もどきの挙動を見て解析したいが、その欲求を、ワインと共に喉の奥に流し込んだ。


「私があなたに問いたいのは一つだけ。ですが、この問いには真剣に考えて答えてもらいたい」


 アンリとは対照的に、ユーシャダイは背筋を伸ばし、机に両肘をつきながら前のめりになる。

 彼女の眼差しには、ただの形式的な質問ではない、重みが込められていた。


「直感ではなく、深く考えて欲しい。あなたが生まれてから今に至るまで、何を考え、そのためにどのように行動し、何を思い生きてきたのか。その全てを整理し、慎重に答えを導き出してほしい」


 アンリは思わず苦笑を浮かべる。

 通常の面談であれば、するにもされるにも慣れているアンリだが、ここまで真剣に事前説明を受けると、少しだけ緊張が走る。

 目の前の存在が一体どのような問いを投げかけてくるのか、若干の好奇心に駆られながら口を開く。


「前置きが随分と長いなぁ。分かった分かった、しっかりと考えるからさ。まずは質問を教えてくれない?」


 アンリがそう促すと、ユーシャダイは静かに目を閉じ、そしてまるで儀式のようにゆっくりと口を開いた。




「あなたは──悪か」




 それはいたってシンプルな問いだった。

 

 いつの間にか目を覚まし、状況を混乱させぬよう静観していたカスパールは嫌な汗をじわりとかく。


(悪かどうかじゃと? だったら戦うしかないと、そういうことか?)


 アンリがこれまでやってきたこと。

 研究と魔力強化を追い求め、奴隷を常に傷つけ、何百、何千、何万もの身体と精神を徹底的に破壊してきた。

 スプンタを崇めていた教会を潰したのは、絶対に正当防衛とはいえないはずだ。

 アンリに滅ぼされたパールシアもレイジリーも、実際のところそこに大義はなく、アンリの欲求によるものだろう。

 ベアトリクスを屈服させた話を聞いた時は、彼女を嫌っていたカスパールでも少し同情したほどだ。

 そもそも、アンリが”大罪人”に選定されていることが、その”悪”を示している証拠のようなものだ。

 他にも、他にも、他にも、他にも……


 脳裏にアンリの非道な行為が次々と浮かび上がってくるカスパールは、アンリの横顔をじっと見つめた。

 そして、考えれば考えるほど、自身の心の内からある感情が沸き上がってくる。



「あぁ、アンリ……お前様……好きぃ……その全てがたまらなく愛おしい……触れて、抱きしめて、永遠に傍にいたい……くふ、くふふふふっ」



 カスパールは、今の緊迫した状況をすっかり忘れ、ただ一人、狂おしいほどの愛情を抱いて笑みを浮かべていた。

 その様子はどこか狂気じみており、二人の真剣な空気から完全に逸脱している。


 そんなカスパールをよそに、アンリは真剣に考え込んでいた。

 ユーシャダイからの問いがどれほどシンプルであろうとも、「悪」であるか否か──この問いに真剣に向き合うべく、アンリは目をつむり、自身の過去と向き合い始める。

 アンリの口元が少し動き、何かを言いかける素振りを見せるが、言葉にはならず、再び思考する。

 ユーシャダイの空のグラスに注ぐことを忘れ、手酌でワインを飲みながら時間が過ぎる。


 その様子を見て、ユーシャダイは満足げに頷く。

 彼女もまた、何も言わずワインを手酌で注ぎ、アンリが答えを出すまで静かに待ち続けていた。

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