265 闘技場の夜 3

 ユーシャダイの嫌悪が詰まった視線は、それだけで人を殺せるのではと思えるほど鋭いものだ。

 アンリもまた、ユーシャダイに嫌悪感を示し魔法の原典アヴェスターグを捲る。


「うーん……まさか僕が円形闘技場コロッセオで戦うことになるとはなぁ……日を改めてもらえると嬉しいんだけど……」


「いいえ、アンリ様が戦う必要はございません」


 相手が思ったよりも強者であったことにより、どうにかして逃げようと思案しているアンリの前に、再度ジャヒーが立つ。


「ユーシャダイと言いましたか。アンリ様が悪? ふん、笑わせないでください、アンリ様の崇高な──きゃっ!?」


 しかし、ユーシャダイは既に会話を止めている。

 流石にメイド姿のジャヒーに攻撃することは気が引けたのか、ユーシャダイは軽く振り払っただけだ。

 それでも一般人のジャヒーにとっては大きな力だった。大型の魔物に体当たりされたかのような衝撃をうけ、倒れたジャヒーの口からは血が流れる。


「ま、待ちなさい!」


 尚も、ジャヒーは立ち上がる。

 ユーシャダイは不思議そうに首を傾げる。


「理解できません。あなたが私に挑むのは全くの自殺行為です。何の意味もない行為だ。あなたは何がしたいのですか?」


「知れたことです。あなたに訂正していただきたいのです。アンリ様が悪など、ありえません! これまでのアンリ様の偉大な──きゃっ!」


 呆れながらもユーシャダイは無慈悲にジャヒーを払いのける。はえ対人間以上の力の差。しかし、ジャヒーはその都度立ち上がった。

 諦めという言葉を知らないのか、ジャヒーは何度も何度も立ち上がる。長い時間を要しているため、見ているだけのアンリのほうが立つのがしんどくなってきたほどだ。


 ジャヒーの頬は熟したトマトのように腫れ上がり、片目はとうに潰れている。裂けた肉の間から見える歯は折れており、口からは赤黒い血が噴き出している。それでも、ジャヒーは何度も何度も、苦痛に震えながら、立ち上がった。意識があることには勿論、命があることにも驚きの姿だ。

 苦痛はあれど、恐怖の心は感じさせないジャヒーを見て、ユーシャダイは思案する。

 いっそ排除するかと考えるも、流石に戦闘力ゼロの女性を殺しては自分が悪と言われても仕方ないと、面倒そうに首を振った。


「ふむ……ではあなたは、この男が悪ではないと言うのですね? 後先考えずに街を作り、幾重もの従属魔法を使い、自国に絶望の環境を作り出し、死の臭いを漂わせているこの男が悪ではないと?」


(うーん、従属魔法を感知してるのかな。絶望の環境……あぁ、エリュシオンを見て回ったってのは本当だったんだ。別に秘匿してるわけじゃないし、別にいいか。死の臭い……ってなんだろ。レイジリーを潰したからかな?)


「アンリ様は……私に、希望を与えてくれました。生きる意味を教えて頂き、歩く道を照らしてくれました。私だけじゃない……みんなそう。この国だってそう。私達みんなの幸せのために、アンリ様は骨身を削り、夜……はしっかりとお休みされていますが、とにかく尽力されている……これ以上の王が他にいると? これ以上の神が存在すると?」


(…………睡眠は大事だからね、うん)


 今の光景をアンリは面白そうに見ているだけだ。ジャヒーの治療をすれば話がまだ振り出しに戻ってしまうと、あえて本を捲らない。

 普通はそれだけで悪だと認定されそうなものだが、ジャヒーにとってはそうではなかったようだ。


 ユーシャダイは剣を鞘に納めた。

 それを見たジャヒーはホッと肩を下ろすが、アンリの目は冷たいまま。ユーシャダイからの圧力はまるで変わっていないからだ。


『無垢なる審判』


 ユーシャダイが当たり前のようにアンリの知らない魔法を唱えると、上空から巨大な天秤を手にした何かが降り立った。背中から白い翼が生え、首から上は無く光る輪が浮いている。

 一見天使のような見た目だか、その大きさは類を見ない。レッドドラゴンですら見上げるであろう巨体であり、コロッセオの外からでも首上の輪部分が露出するほどだ。

                

(召喚魔法……なのかな? 天使もどき……威圧感は凄いけどすぐに攻撃してくるわけじゃ無さそうだ。先手必勝でこっちから魔法を打ちこみたいけど、流石にそれは空気読んでないし、ジャヒーに悪い気がするな)


「分かりました。この女性に免じ、一度だけチャンスを与えましょう」


 ユーシャダイは剣を鞘に納め、アンリを正面に見据える。


「アーリマン・ザラシュトラ。これからの問いに一切の嘘を禁じます。規定ルールを外れ嘘が生じたとき、貴方の魂は天上に裁かれると知りなさい」


 ユーシャダイの矛先が自分に向いたことに気付いたアンリは、不思議そうに答える。


「ん? あぁ、もうそっちは終わりでいいの? 次は僕の番かな?」


「誓え、アーリマン・ザラシュトラ。この場において、一切の嘘をつかないと。こちらの女性の想いを無駄にするか」


 アンリはジャヒーをチラ見する。

 これだけの傷を負って死なないなんて、人間は案外丈夫だなという、どうでもいい感想をまずは抱いた。

 それでも、これだけジャヒーが頑張ってくれた──アンリには理解しきれていないが──ことに報いようと、ユーシャダイに宣言する。


「この場というか、僕はこれまでに嘘なんてついたことはないよ、多分。はいはい、誓うよ。誓いますとも」


 その瞬間、アンリとユーシャダイの全身が輝いた。

 光が収まり、勝手になんらかの契約が交わされたことに、アンリは瞠目する。


「ぇ? 口頭で魂に契約? 不意とはいえ防げないなんて……そんなことあるんだ……」


「落ち着きなさい、アーリマン・ザラシュトラ。この契約は大したものではありません。ただ、言葉にだけは気を付けなさい。この場での虚言を、神はお許しにならない。永遠を生きる貴方が、裁きを受けることは本意ではないでしょう」


 何が起こるのか、試しに嘘をついてみようかなと考えたアンリだったが、久しく感じなかった嫌な予感に従い大人しくすることにした。

 本気で戦闘をするよりも会話のほうが楽だと考えたことも大きい。


「ほら、ずっと立ち話もなんだし、君もどうだい?」


 魔法で机と椅子を用意したアンリは、ユーシャダイにも座るように促す。


「これはご配慮、感謝する」


 試しに進めたワインにも了承したユーシャダイを、アンリは興味深く観察する。


「ねぇ君、さっきまであんなに険悪だった仲だけど、飲み物に毒が入っていないかとか心配しないの?」


「険悪なのは過去形ではありません。それと、こちらのワインに毒は入っているのですか?」


「いや、入ってないけど」


「なら、大丈夫でしょう」


 まったく警戒無く、ユーシャダイはワインに口をつける。


(うーん、毒が効かない体質? 毒、入れて試しとくべきだったなぁ)


 続いて、アンリは天使もどきを仰ぎ見る。


(いや、さっきの契約と話から察するに、僕が嘘をつかないと確信しているのかな)


 いずれにしてもと、アンリは心の声を毒の代わりにぶちまける。


「本当に、面倒くさいことになったなぁ」

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