257 授業2
皆が狐に包まれたような顔をしている。
満点をとれなかった生徒がいるという事実に驚いたのはヘルだけではない。
生徒全員が信じられないといった表情を浮かべていた。
いつもの授業であれば、どのように難解な問題を出されようが臆せずに意見を述べる子供達だが、今回ばかりは皆口を閉じている。
それほど満点をとれなかったことが信じられなかったのだ。
それほど今回のテストは簡単なものだったのだ。
”アンリ”がテーマのテストだからといって、アンリの年齢や身長を答えるものではない。
アンリについてどう思うだとか、今のエリュシオンで生活はどうだとか、正式な答えがないものばかりだ。
明確な間違いがないにも関わらず減点されたということは、余程な過ちを書いたのだろう。
普通車免許の座学試験にて、”他人を巻き込んで死にたいと常々思っているか”という問いに”YES”と書いてしまう程の間抜けなのか。
好きな食べ物を聞かれているのに昨日の天気を答えるほど話が通じないのか。
とにかく、自分達の学び舎に自分達とは大きく価値観が違う人間が存在すると知り、広がる動揺はより大きなものになる。
「残念だわレックス。えぇ、本当に残念」
まさか自分が該当するとは思っていなかったのだろう。
名前を呼ばれたレックスという名の男の子は、頭が真っ白になり固まってしまう。
だが、皆からの視線が集まると、命じられていないのに自然と起立していた。
レックスに集まった感情は、侮蔑や嫌悪といったものでなければ、劣った人間を見ることで得られる優越感といった低俗なものでもない。
単純な同情だった。
日頃の授業の賜物ではあるが、子供達は会ったこともないアンリを信仰している。
会ったことがないとはいえ、アンリが実在する人物であることから、スプンタといった神より身近に、されど高貴な存在として胸の中に落ちていた。
冥王であり神たるアンリに関するテストで減点されるなど、普通に考えればありえない。
この年齢になり1+1=2であるということが理解できていないレックスを、皆が心から心配し同情したのだ。
「レックス。あなたが間違ったところは問5だけど、まだ分からないかしら」
(えぇっと、問5は確か……最後の問題だ)
”問5.あなたは朝起床し、カーテンを開けました。太陽の光を全身に浴び、心地よい風を肌で感じると、冥王様への感謝の念が押し寄せてきます。しかし、あなた個人で冥王様へ返せるものなどあるはずもなく、ひたすら祈りを捧げることで少しでも冥王様への敬服を示しました。すると奇跡が起こったのです。その日学校へ通学している時、なんと、ありえないことに、畏れ多くも、偶然冥王様とお会いしたのです。人生で二度もない奇跡に感謝しているあなたは、日頃の感謝を伝えることにしました。しかし、お忙しい冥王様へ何年も直接感謝を伝えるのは極めて不敬です。冥王様の気分を害さず、日頃の感謝を込めた挨拶を自由に考えなさい”
記憶力に自信の無いヘルではあるが、問題の内容は覚えていた。
長くなるのは失礼と思いつつ、どうしてもペンが止まらなかったからだ。
答案用紙の裏までびっしりと埋めても書き足らず、持っていた白いハンカチーフを黒色に変えて提出したことを覚えている。
それこそ減点されそうなものだが、結果は満点。
ならばとヘルはレックスを見る。
自由に答える形式の問題で、レックスが間違えた意味がますます分からなくなってきた。
「あらら? まだ分からないかしら。じゃぁ、私がレックスの回答を読むわね。気が乗らないけど、仕方ないわよね」
無言で視線を下げていたレックスの答案用紙を奪うと、シュマは回答を読み上げる。
「あぁ、なんという奇跡。今日の太陽は一際神々しいと思っておりましたが、あなた様の後光となるに恥じぬため、躍起になっていたのでしょう」
教皇であるシュマの音読は、まるで讃美歌のような芸術性を感じさせ、生徒達は目を閉じて耳を傾ける。
一部の生徒はテストの答え合わせということを忘れ、再びお祈りを始める者もいた。
「このレックス・トーナメンツ、畏こくもアーリマン・ザラシュトラ様のお姿を目に──」
「──えっ!?」
讃美歌の途中だというのに、ヘルはシュマの声を妨げ大声をあげる。
それを咎める者はいない。
皆、理由が分かり顔を青くしているからだ。
「ねぇ、レックス」
一際真っ青になっているレックスに、シュマは優しく声をかける。
その優しげな声は表面だけだ。
怒りを内に秘めた笑顔は、恐怖を通り越して悲しみを与えていた。
「もう分かってるわよね?
アンリの本名はアーリマン・ザラシュトラ。
それは当然、少しでも教養のあるエリュシオン国民なら誰でも知っている。
だが、その名前を呼ぶことは無礼が過ぎて許されない。
当然だ。たかが人間が神の名を口にするなど、不敬の極みであると言えるだろう。
それでも神はとてもお優しい方。本名は流石に駄目だが、短縮形の”アンリ”であれば下々の民から呼称されても許して頂ける。
これは常識であり、レックスも知っていることだ。
だが、日頃から自分が生きていられる恩を書こうとし過ぎて、テストの書面上ではそのことを失念してしまっていた。
皆がレックスに憐みの視線を向けていた。
同じ生徒から視線に、レックスは震える。
子供は残酷だ。明日からの自分は、いつも通りに生きていけるかが心配だった。
意外なことに、シュマは生徒である子供に対し、何か罰を与えることはしない。
それもまた、レックスの精神に重い物を圧し掛からせた。
何かしら罰があれば懺悔の機会があるが、今回の件ではそれは望めない。
「このレックス・トーナメンツ、アンリ様への深謝として、この身を捧げます」
罰は無い。
それが自分で許せなかったレックスは自ら席を立ち、かと思えば自席の隣で左膝を地面につけ、右膝を立てる。そして、両腕が耳につくほどにピンと頭上に掲げた。
レックスが何をしているか分からなかった子供達は、関わってはいけないと言及することは無かった。
授業が続き、30分程立ったところでレックスの額から汗が滲み出てくる。もう10分もすれば汗は目に見えて流れだし、レックスの顔は苦痛に歪んでいた。
そこで初めて、生徒達はレックスの行動の意味に気付いた。
レックスは献身的に、自分で自分に罰を与えているのだ。
アンリの本名を本人の前で口に出す有り得ない行動。そのことを恥じ、自身の体に鞭を打っているのだ。
幼い子供の健気な償いに、シュマは優しく頷いている。
生徒たちはレックスに対しての関わり方を改めるつもりだったが、シュマの許しを得たのを見ていつも通り接しようと決めた。
シュマの心の中では、翌日の朝まで耐えきるまでは許すつもりはなかったが、それは生徒の知らない話だ。
すでにレックスへの興味を失ったシュマは、そういえばと考える。
「
考えたのは一瞬。自分などが考えても意味のないことと、直ぐにいつもの笑顔になったのであった。
「エリュシオンは今日も平和です。学校は今日も平和です。これも全て、神様のおかげ。あぁ神様。永遠に、永遠をお願いします」
感謝の念が止まらなくなり、シュマは祈りを捧げる。
決して強要したわけではないのだが、子供達もまた、膝をつきうなじを露出させるのであった。
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