第十章

256 授業1

 ──キーンコーンカーンコーン


 予鈴の音が鳴り、生徒が教室へと戻ってくる。

 皆が次の授業の準備を進めている中、既に用意万全となっているヘルは両手拳を握りしめて机に置き、はやる気持ちを抑えていた。


 エリュシオンに設立されているエリュシオン国立学校。

 ヘルはここの生徒の一人として通学している。

 国立学校はアンリの前世のように小中高と分かれておらず、5歳から10歳までの6年間通うものが一つ存在するだけだ。

 ここではまともな社会人になるために必要な一般的な知識、態度、スキルを身に着けることができる、いわゆる普通教育を学ぶことができる。


 エリュシオン国憲法では、対象の年齢の子供が教育を受けることは義務と定められている。

 全ての子供が学校に通う必要があるのかと眉を顰めていた大人たちは、授業にあたっての費用をエリュシオンが全額負担することを知ると両手を上げて喜んだ。

 大人であっても文字の読み書きができない者が少なからず存在する教育水準の世界で設立された学校は、聞いただけでは信じる者がいないほど画期的なものだった。

 学校の運営資金は税金だ。元は国民の金ではあるが、エリュシオンでは税を徴収すると同時に、国民に奴隷を貸し与えている。

 貸し出される奴隷のスペックは高い。戦闘用でも給仕用でも満足に仕事をこなせることに加え、全員がそれなりの美形だった。なぜか全員が似たような顔に感じてしまうが、他家の奴隷と並べて比べることはそう無いので気になることはない。

 高性能な奴隷をサブスクリプション方式で利用できるため、国に税金を搾取されている感覚はまるでないだろう。


「まだかなぁ、まだかなぁ」


 次の授業の開始までまだ時間があるというのに、ヘルの目は秒針を追っている。

 ヘルは学校が好きだ。その中でも、次の講義は特に楽しみにしているものだった。

 なにせ次の先生は──


「うふふ、まだ休み時間なのに、みんな準備ができているわ。とってもいい子たちね」


 ──母であるシュマなのだから。


 母といっても、それは遺伝子上での話だ。

 アンリとシュマの遺伝子を掛け合わせ、培養し、様々な手を加えられて生まれたヘルは間違いなく二人の子供ではあるが、無用な混乱を避けるために公言はされていなかった。


 シュマと目が合ったヘルは、若干の照れが生じたためか顔を赤くする。

 他の生徒にはシュマの子供とバレてはいないが、少しの優越感を抱いていた。

 しかし、一度授業が始まればヘルの顔は真剣そのものになる。

 ここで学ぶことは、それほど重要だからだ。


 一般的な教養を身に着けている学校だが、週に一度教会から人が派遣され授業の枠が与えられる。

 シュマの担当はヘルのクラスであり、他のクラスの生徒からは羨望や嫉妬の感情を向けられていた。

 教皇と呼ばれている序列最上位のシュマの授業は、無宗教であっても価値のあるものと思われていたからだ。


「──のように、私達は幸せ、つまりウェルビーイングであることを許されているのよ」


 本日の授業は”幸福”について。

 だが、聞きなれてない単語を耳にした生徒が声を上げる。


「ウェルビーイング? 以前の授業でテーマにしたハピネスが幸せじゃなかったのですか?」


 ヘルのクラスは学校で一際優秀な子を集めたクラスだった。

 知識に貪欲なリーベルツは、分からないことがあれば直ぐに質問する。

 話を途中で遮られたが、全く意に介していないシュマは笑顔を深めた。


「うふふ、リーベルツはご飯を食べると幸せよね?」


「えぇと、そうですね。お腹いっぱいになるし、デザートがあればもっと幸せだと思います」


 質問を質問で返された形ではあるが、リーベルツは素直に返した。


「じゃぁ、風邪をひいて、凄く苦しい時にデザートを食べてたら幸せだと思う? リーベルツの家が没落して、寝る場所もないのに食べるデザートは幸せ? 友達だった人たちから、後ろ指を指されながら食べるのは幸せ?」


「い、いえ……それはちょっと……」


 リーベルツは染み一つない幼い顔に皺を作る。

 子供は想像力が豊かなため、シュマの言葉をイメージしてしまったのだ。

 その姿が可笑しかったのか、シュマはくすくすと口元に手を当てて笑った。


「似ているけど、ウェルビーイングは一時の幸せを指しているんじゃないの。勿論、精神的に満たされているって点ではハピネスと似ているけど、他にも……例えば体が健康だったり、周りから認められて幸せな状態……それがウェルビーイングで──」


 聡い子供達は、次第に理解を得る。


「──ここで勉強できているあなたたちは、ウェルビーイングの状態にあるといって良いと思うの。だから、恒常的に幸せであることを、もっと、もっともっと、感謝するべきなのよ。全てにおいて満たされた状態の私達は、もっと、もっと、神様に感謝するべきなの。つまり──」


 ここまでくれば、全員の子供たちの答えは共通の一つに行きついた。


「──アンリ様に感謝を」


 その言葉は図らずも全員が唱和することとなる。

 皆が頭を下げ首を露出させる。その行為はいただきますの挨拶よりも、自然で洗練されたものだった。


「私達が幸福な日常を享受できるのは、全て神様であられるアンリ様のおかげ。あぁ、アンリ様、これからも、永遠に、永遠をお願いします」


 慣れとは恐ろしいものだ。

 祈りは授業の内で何度も行われており、週に一度の授業とはいえその回数は数えられない。

 最初は初めて見る行為を不思議に思っていた子供達だが、数を重ねる内にいつしかその行為に疑いをもつことは一切なくなっていた。

 家に戻り祈りを捧げても、その相手がこの国の冥王であると知れば、多数の親たちはあえて止めることはしなかった。


 稀にスプンタといった別の神を教え込む親もいた。

 自身の信じる神と子供の信じる神が違うことが我慢ならないのは当然のことだろう。

 だが、その光景は貸し出されている奴隷に見られている。

 その家庭に不幸が重なれば、信じるものを変えるしかないだろう。


「…………?」


 祈りが終わり席に着いたところで、ヘルは違和感を感じた。

 シュマにとってお祈りはこの上なくハピネスな行為であり、この後は極上の笑顔が見られるはずだった。

 しかし、シュマは笑顔を崩してこそいないが、どこか影がさしているように見える。同じ遺伝子を持ったヘルだからこそ気付けたほどのささいなものだ。

 その理由は直ぐに分かることになる。


「先週のテストを返却します」


 ヘルの心臓が跳ねた気がした。

 座学が苦手なため、”テストの返却”というワードに構えてしまったのだ。

 だが、この授業のテストに限ってはありえないと首をふる。


「本当に残念なことなのですが、一人、満点じゃなかった生徒がいます」


 ヘルはその言葉を信じられなかった。

 なにせ前回のテストの内容は、”アンリ”なのだから。

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