184 楽園を目指した女 9

「ただいま、ハーリッヒ。ねぇ、お金が浮いたから、今日のご飯は少し良いところに行かない? 流石に昨日ほどは無理だけど……」


 帰宅を告げ、提案するヘイラだが、ハーリッヒの様子がおかしかった。


「……は? なんだお前は?」


 ヘイラを見て、まるで汚物を見るように顔をしかめている。

 昨日までは優しく愛してくれたハーリッヒが、態度をここまで隠さずに一変したことに、ヘイラは言い様のない恐怖に駆られた。


「な、何よそれ……いくらなんでも酷いじゃない……」


 ヘイラは足を震わせながら近付くが、ハーリッヒの態度は変わらない。


「寄るなブスが。下等な人間が、なんで俺の部屋に無断で入っている」


「あ、あなたの部屋じゃないわ……私の部屋よ」


 言いたいことは色々あるが、まずは部屋の持ち主が勝手に変わったことを否定する。


「…………もしかして、ヘイラか?」


 ハーリッヒの反応から、嫌がらせでもなんでもなく、単純に自分と気付いてくれなかったと知ったヘイラは涙を流す。


「当たり前じゃない。ひどい、ひどいよハーリッヒ。なんであんなに一緒にいて、私って分からないのよ」


「い、いや、お前なんか不細工知らない……け、汚らわしい、出ていけ!」


「げほっ!?」


 お腹を蹴られ、ヘイラは突き飛ばされる。

 その先は装飾品が並べられた棚だった。

 装飾品にぶつかり甲高い音が鳴る中、倒れたヘイラの傍に鏡が落ちてくる。


「……ぇ?」


 そして見た。自分の顔を。

 そして知った。ハーリッヒの態度の原因を。


「な、なによこれ! 戻ってる! 私の顔が! 顔が顔が顔が!! 私の綺麗な顔がぁぁぁぁぁ!!」


 鏡に映ったのは、アンリによって整形される前のヘイラだった。

 全くの別人に戻っており、ハーリッヒが分からないのも無理はないだろう。


「なんで!? なんでなのよ! ふざけんなぁぁぁぁ!!」


 ヘイラは気づかないが、これは回復魔法によるものだ。

 物理的に顔の造りを変えられたため、それは傷として認識される。

 整形後の顔が正常なのだと、心の底から信じていれば治らなかった可能性もあるが、過去自分の顔にコンプレックスを抱いていたヘイラには難しい話だった。

 アンリから留意事項として、”回復魔法を使用してはいけない”とは伝えられてはいたが、争いの無縁な自分には無関係だと軽く捉えていた。


「ふざけてるのはお前だ! よくも高貴なエルフである俺を騙したな! 教えろ化け物! 一体どんな魔法を使った! 俺が感知できないとは、下劣な人間かと思っていたが化け物の類か!?」


 その代償が今だ。

 暴言しか吐かないハーリッヒに、ヘイラはすがりつくように手を伸ばす。


「お、落ち着いてハーリッヒ。これは何かの間違いなの。でも、いいわよね? あんなに愛してくれたじゃない。大事なのは心よ。愛に顔なんて関係ないでしょ?」


「大有りだ化け物! 許さんぞ! 醜い顔を偽り、この俺の寵愛を受けていたとは!」


 倒れているヘイラに、ハーリッヒは蹴りを何度も放つ。


「死ね! 化け物! 詐欺師が!」


 何度も、何度も蹴る。


 蹴られる度に、ヘイラが守ってきた心の壁までも壊されていく。


「ブスが! 死んで詫びろ! 息を吸うな!」


 ヘイラは絶望していた。

 あんなに愛してくれた男が、顔が変わるとここまで豹変してしまうのかと、人生の不平等に嘆いていた。


(止めて、止めてよ! 私はあなたを好きなのに! 愛しているのに!)


 今も蹴られ続けており、言葉を放つことができないヘイラは、心の中で必死に叫ぶ。

 それは、自分の願望だった。


(愛してよ! こんな顔でも私を愛してよ! 私が貢いだだけ、私を愛してよ! あなたを愛してるのよ!)


 蹴られ、罵声を浴び、ヘイラの心の壁はどんどん破壊されていく。


「死ね! 醜い豚が! 豚以下の人間が!」


 どんどん、どんどんと破壊されていく。



 そうして心は削ぎ落とされていき、残ったのはたった一つの願望だった。




「ぁ?」


 ヒュン、と音がしたと思えば、ハーリッヒの体が崩れ落ちる。

 何事かと自分の足を見ると──


「ぁ、あ、あぁ……ああぁぁぁあ!!」


 ──赤い血が広がっていた。

 足の腱を斬られたことにより自力で立ち上がるのも難しいハーリッヒの上に、ヘイラは馬乗りになる。

 ヘイラの右手に握られているを見たハーリッヒは目を見開いた。


「お、お前ぇぇ!! 何をしたか分かっているのかぁぁ!!」


 紫がかった鍔のない短剣は、返り血で濡れていた。

 糾弾するハーリッヒを無視して、ヘイラはぶつぶつと呟いている。


「私はあなたを愛したいの……私はあなたを……私は……」


 右手を振り上げたヘイラを見て、ハーリッヒは焦り魔法を唱えようとする。


「なぜだ!? なぜ!?」


 だが、魔法は成らなかった。

 魔法を詠唱するも、使うはずの魔力が無くなってしまうのだ。


「な、なんだその武器は!?」


 エルフであるハーリッヒは、魔力の流れを読むのに長けている。

 だから感じた。ハーリッヒの溜めた魔力が、ヘイラの右手に吸い込まれていくのを。


 ”淑女の嗜みレディ・ダガー

 その短剣で斬った対象と核との間に介入し、魔力を無理やり奪うことができる。

 能力はそれだけではない。


「こ、こいつ……本当に人間か!? まさか、本当に化け物!?」


 奪った魔力を糧に、自身の筋力を増幅させていた。

 短剣と同じく紫色に変色したヘイラの右手は、男であるハーリッヒでも抑えられるものではなかった。

 明らかに副作用のある呪われた類の武器ではあるが、ヘイラにとって自身の欲を満たせるのならそれでよかった。


「や、やめろ化け物! 止めろ! 助けて、誰か、誰かぁぁ!!」


 じりじりと近づいてくる短剣を前に、ハーリッヒは恐怖のままに悲鳴を上げる。


「私はあなたを愛している……愛してほしい……」


 焦点の合っていないヘイラには、その叫びは聞こえてないようだ。

 独り言が止まらないように、その右手も止まらない。


「私はあなたを愛してる……いいえ、違う。私は──」


 ”淑女の嗜みレディ・ダガー”が、男の心臓に突き刺さった。


「──私はこいつを殺したい」


 ヘイラがいつからか抱いていた一番の願望は、遂に叶えられることとなった。

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