183 砕けた顎

「くそぉぉぉ!! くそくそくそくそぉぉぉ!!」


 ヘイラの部屋に戻ってきてから、右目に応急処置を施したハーリッヒは大声を上げ枕に拳を打ち付けていた。

 枕は破れ羽毛が部屋中に飛び散っている。


 あの枕を買い直すには、何人の男と枕を共にしなければならないだろう。

 そんなことを考えながら、ヘイラはどこか他人事のように呆けていた。


「みんなで馬鹿にしやがってぇぇ!! 高貴なエルフたるこの俺をぉぉぉ!!」


 だが、流石にこのまま放っておいては眠ることができない。

 色々と思うところはあるが、ヘイラはハーリッヒの背に手を置き、なだめることにした。


「大丈夫よ、ハーリッヒは恰好いいわ」


 だが、この行動は不正解だったようだ。


「触るな下劣な人間がぁぁぁ!!」


 ハーリッヒは思い切り拳を振りぬく。

 先ほどは振るうことはできず、よほど力が有り余っていたのだろう。

 その一撃は、ヘイラの顎の骨を粉々にした。


「ぁああ……ごほっ、いだいぃぃぃっ!」


 血を吐きながら泣き崩れるヘイラを見て、ハーリッヒは大きく慌てた。


「ご、ごめんよヘイラ! あぁ、俺はなんてことを!」


「ぅぅううううっ! なんでっなんでええぇぇぇ!!」


 暴れるヘイラを強く抱きしめ、ハーリッヒは弱音を吐く。


「俺は何て馬鹿な奴なんだ……許してくれヘイラ。君がいないと俺は駄目なんだよ。いつ路頭に迷ってもおかしくない、弱いやつなんだ。本当に、本当にごめん」


 その言葉は、傷だらけのヘイラの心に染みていった。

 自分がハーリッヒに依存しているように、ハーリッヒも自分に依存してくれているのだと知り、大きな幸福感に満たされた。


「いい……よ、大丈夫。大丈夫だよハーリッヒ」


 血を流しながらも、ヘイラは微笑む。

 痛みと引き換えに愛を貰えるなら、安い物だと思えていた。


「あぁ……ありがとうヘイラ!」


「でも、このままじゃお仕事できないよ。回復魔法、かけてくれない?」


 ヘイラは慎まし気にお願いする。

 だが、その願いは叶わなかった。


「え? いや、俺回復魔法使えないよ? 教会にお布施を包めば治してくれるんじゃないか?」


 礼を言うや否や、嗜好品の煙草を吸いだしたハーリッヒは、他人事のように代替案を出すのであった。





「成程、とても大変だったのですね……可哀想に。えぇ、お金にお困りなのでしょう? 金銭的に余裕のない貴女が、無理をしてお布施を包む必要はありませんよ。代わりに神様に祈って頂けたら、それで十分です。さぁ、神に祈りを」


 次の日、ヘイラはゾロ・アスタの教会にやってきていた。

 怪我の経緯を聞かれたので、ここ最近の身の上話をすれば、修道服を着た女性はえらく同情してくれた。

 通常なら包むはずのお布施がいらないと言われたのは、ヘイラにとって願ってもいない好運だった。


「──これからも、永遠に永遠をお願いします」


 代わりに、神様に祈りを捧げた。

 この国で一番偉い人すら知らなかったヘイラは、この国で信仰している神様もよく分かっていない。

 それでも、教会の女性の気分を損ねないよう、必死に祈りを捧げた。


「キュルキュル」


 その祈りが通じたのか、顔の痛みが引いていくのを感じた。

 黒いキツネのような何かが、ヘイラに向かって魔法を唱えていた。

 鏡など見なくても分かる。完治したのだ。


「本当にありがとうございました。無料で貴重な魔法を使ってもらえるなんて、思いもしませんでした。それでは──」


「──もし、少々お待ち下さい」


 用は終わり、部屋に帰ろうと思ったヘイラは呼び止められる。


「これをお持ちください。熱心に祈りを捧げた貴女に報いる、私からのプレゼントです。神様が作ってくれたのですよ」


 見るからに高価であり、売れば借金返済の足しになるかと思えるを見て、ヘイラは疑心を持った。

 素人目にも、とてつもなく価値があるように見え、逆に怖くなったのだ。


「えぇ、えぇ、大丈夫ですよ。それだけ貴女が祈りを捧げた神様は偉大なのです。それに、見えます、視えるのです」


 それでも女は、をヘイラに押し付けてくる。


「貴女の欲求の対象はエルフなのでしょう? 非力な子羊の貴女なら、これぐらいの裏技がないと願いは叶えられませんよ? 使い方はいたって簡単でして──」


 十字の瞳に見つめられることが怖くなったヘイラは、大人しくを受け取り帰ることにした。

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