142 逆鱗

 バン、と応接室の扉が強く開き、聖女アリアが飛び込んでくる。

 ワインを楽しみいい気分になっていたアンリとカスパールは、何事かと一瞬怪訝な表情を浮かべるも、アリアが泣いていることに気付きグラスを置いた。


「どうしたんだい? も、もしかしてアリアの大事なやつだったり……?」


 アンリは回復魔法により深く酔うことはないため、用意されたお酒を手当たり次第に楽しんでいた。

 対して、カスパールは酔うこと自体が好きなため、回復魔法は使用していない。

 それでも、もともと酒好きな二人が飲んだ量は相当なものだ。

 アリアの表情を見て、少し飲みすぎたかなと反省していたアンリだったが、それは全くの見当違いだったようだ。

 アリアはアンリに抱き着き涙を流す。

 シュマの拷問を見て、その心は更に不安定になっているのだろう。


「アンリ様! 愛とはなんでしょうか! 私は、間違っているのでしょうか! 世界はこんなにも、嘘だらけだったのでしょうか! 神様はいないのでしょうか!」


 アリアとしては答えを求める質問ではなく、アンリにただ共感してほしかっただけだ。


 辛かったね、その気持ちはよくわかるよ。

 大丈夫だよ、僕が隣にいるから。


 もしそのような優しい言葉で包んでくれたら、今のアリアは簡単に幸せを感じられただろう。

 だが、元々ビジネスマンのアンリは、アリアが抱える悩みの解決を図ろうとする。


「えぇっと、落ち着いてアリア。少し課題が散乱しているね。よし、インバスケットだ。君が抱えている疑問を一つずつ、優先順に、具体的に教えてくれる?」


 深酒をしているカスパールがどうでも良さそうに見つめている中、アリアは必死に自分の疑問を整理する。


「えぇっと……神様は、世界は、平等ではないのでしょうか……私は、平等ではなかった……差別をしてしまったのです。えぇ、聖女と呼ばれておきながら、これは許されないことです」


 アリアの脳裏を、つい先ほどの光景がよぎる。

 真面目なアリアは、リスティが死んでしまった責任を背負ってしまっていた。

 明らかに原因はシュマにあるため、本来はシュマを恨むべきだ。

 しかし、生まれてこの方人に憎しみを抱いたことのない聖女には、無理な話だった。


「あはは、そりゃ勿論、平等なことなんて何一つないさ。逆に平等なことがあれば、それこそ異常だよ。人の努力も、人の想いも、何一つ意味をなさないからね。平等は罪ですらあると思うよ」


 アンリの正直な意見に、アリアの顔は更に暗いものになる。

 アンリに女を虐める趣味は……これまでの行いを考えれば否定できないが、とにかく慰めの言葉をかける。


「でもねアリア、差別は決して悪いことだけではないんだよ。そうだね……平等の反対は差別だけど、こうとも言える。平等の反対は特別さ」


「とく……べつ……」


「あぁ、とても綺麗な響きだろう? アリアに特別があることを、誰が責めるんだよ」


 アンリの言葉は、弱ったアリアにとって確かな救いとなっていた。


 ”神様は兄様あにさまなの”


 ふと、シュマの言葉を思い出したアリアは、本人に聞いてみることにした。


「あの、失礼ですが、アンリ様はスプンタ様をどうお思いでしょうか? アンリ様もシュマ様と同じく、偽物の神様だと?」


「偽物かどうかはともかく、存在は信じてないかな。でも、それを信仰することで救いになるのなら、別に非難もしないけどね。宗教は自由だよ、他人に迷惑をかけないならね」


「なんと器の大きい……」


 アリアは驚いていた。

 自身が神であるならば、自身以外で神の存在など、許せないのが普通と思ったからだ。

 別の神であるスプンタをここまで許容するアンリが、偉大なる父にすら思えてきていた。


 ふと、ここまで会話に入ってこなかったカスパールが声を上げる。


「お主には、このような問答は不要ではないのか? その魔眼で心の内が見えるのであろう?」


 その指摘に、アリアは首を横に振る。


「いいえ、この目で見ることができるのは、その方が強く思っていることだけなのです。見たいことが自由に見える万能な魔眼というわけでは……」


「ほぅ? して、アンリからは何が見えておるのじゃ? よもや、お主を好いておるとか、そのようなことじゃあるまいな?」


 楽しいお酒の席が修羅場になる。

 アンリは少しだけ覚悟したが、アリアの答えは別の意味での修羅場をもたらすことになる。


「ふふふ、それなら嬉しいのですが……いえ、アンリ様からは”生きたい”という強い意志が常に見えています。えぇ、なんとも美しい心の叫びなのでしょうか」


「なるほどのぅ。いや、アンリらしいが」


 この答えは、カスパールにとっては興味を惹かれるものではなかったようだ。

 アリアとの話を切り上げ、次に飲むワインを吟味しだす。


「アンリ様がここまで生きたいと望まれてるのは、何か理由があるのでしょうか?」


 欲求五段階説というものがある。

 人間の欲求を大きく五段階に分けた際、低次の欲求が満たされないと、次の欲求に向かわないというものだ。

 高次から順に自己実現欲求、承認欲求、社会的欲求、安全欲求とあり、生きたいという生理的な欲求は、欲求五段階説から考えると、最低限の欲求にあたる。


 知識としては知らずとも、似たような考えを持っていたアリアは、人間が持つ欲求の中でも最低限のものを強く願うアンリを心配する気持ちがあった。


「理由と言われてもね……。単純なことさ、僕は死にたくないんだよ。今がどんなに幸せでも、いつか寿命で死んで、僕が無くなってしまうことが何よりも怖いんだ」


 だが、アンリの「生きる」とは、常人のそれとは違う。

 ”生命を維持したい”というのは共通だが、アンリの場合はその言葉の前に”永遠に”がつく。


「寿命で死ぬのが怖い……それは、なんと不憫な。アンリ様、死を恐れることはないのです」


 アリアは、聖女としての職務を全うしようとしていたのかもしれない。


「生きとし生けるものには全て、等しく死が訪れます。受け入れるしかないのです。ですが絶望ではありません。それは、ある種救いと言ってもいいかもしれません」


 迷える子羊を導こうとしたのかもしれない。

 いずれにしろ、アリアは完全な善意から助言をしたつもりだった。


 だが、それはアンリの逆鱗に触れた。


 急激に部屋の温度が上昇する。

 しかし、アリアが感じたのは底知れない冷たさだった。


「絶望ではない? 死が救い?」


 顔には出ていないものの、アンリの声からは確かな怒りが滲み出ている。

 その収まりきらない怒りは炎に具現し、周囲を感情のままに焼き尽くしていく。


「あ、アンリ様!? お止めください!」


 アリアが懇願する中、アンリは立ち上がり冷たく告げる。


「酒が不味い、僕はもう行くよ。『<時空扉魔法ゲート>』」


 アンリとカスパールの姿は見えなくなり、アリアは動転する。

 好いた男からの完全な拒絶は、それだけのダメージを与えていた。


「なんで、なんで、なんで! ヴァラハ、お願い!」


 怒らせた理由の検討がつかないアリアは、涙を流しながらも炎の消化作業を始めた。

 信仰。恋。様々なものを一気に壊されたアリアの心には深く傷が入る。

 そして、その傷口に塩を塗る者が現れた。


「あぁ、駄目よ聖女様。いくら聖女様でも、兄様あにさまを怒らせるなんて許せないわ」


 返り血にまみれたシュマの手には、錆び付いた剣が握られている。


「シュマ様、何を!? ヴァラハ、私はいいから、教会を!」


 身の危険を感じるアリアだが、消火作業は自分の命よりも優先された。


「でも大丈夫。兄様あにさまは優しいから、きっと大丈夫よ。私があなたに、愛というものを教えてあげる。だから、自分の罪を認めて、本物の神様を信じるといいわ。そしたらあなた、すっごく幸せになれるのよ?」


 結果、あまりにも簡単に、聖女アリアはシュマに囚われるのであった。

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