第4話 『感動』と『好き』の科学

「感動する小説…感動する小説…」


 冷房病になりかけた頭の中でぐるぐるその単語が回る。うっかりその ままそれを原稿に書いてしまうところだった。


 ああ、もう四時だ。結局、夕方になってしまった。小説は一行たりとも進んでいない。大体無茶なのだ。プロ作家じゃあるまいし、こんなに根詰めて小説が書けるはずがない。一行たりとも進まねえ。ああ、やってらんねえ。


 さっきまで一時間ごとに九王沢さんに原稿を見せろとせっつかれて困ったが、もう鬼編集者の根気もつきたのか、声をかけてくる気配もない。それはそれで、寂しいっちゃ寂しいが。


 がらんとした部屋を僕は見回した。すると、さっきまで部屋の隅にいた九王沢さんがいない。あれ、トイレかな。やけに静かになったと思っていたが、そう言えばさっきまで九王沢さんも何やら海外に送る記事みたいなものを、ちょこちょこ書いていたのだ。


「那智さん」


 と、思っていると、がらりと寝室のドアが開いて驚くべきものが姿を現した。


 なんと、髪の毛を後ろにまとめて青い朝顔の柄をあしらった白い浴衣を着た九王沢さんが、そこに立っていたのだ。不意打ちな上に、物凄い破壊力に僕は一瞬、言葉を喪ってしまった。


「そっ、それ…?」

「今日は花火があるらしいので、持って来たんです」

 いつもの五倍増しくらいのかわいい天使の笑みで、九王沢さんは微笑んだ。

「そろそろ夕涼みに出ませんか?」


 感無量、と言うやつである。


 感動する小説なんざ、けっ、一行たりとも書けはしないが、今の僕自身は『感動』の二文字に浸りきっている。


 なんとあの、九王沢さんと浴衣デートで花火だ。ゲームなどでは定番のイベントだが、なぜこれが定番なのか、よく分かる。やっぱり定番って外しちゃいけないのだ。


 あの九王沢さんと腕を組んで、夜店を歩く。ブーン、と言う夜店の発電機のモーター音が辺りに響き、チョコバナナ、りんご飴、亀釣り金魚釣り、射的などの屋台には浴衣を着たカップル連れが通りすがる。


 近所の子供たちがはしゃいで走り回る。他の女の子ではありえないが、九王沢さんのすごいところはそのすべてが未経験だと言うことだ。


「那智さんっ!すごいですね、縁日って!わたし、帰りたくなくなってきちゃいました!」


 子供みたいに目をきらきらさせて、どこまでも僕の腕を曳く九王沢さん。じゃんけんでチョコバナナを一本余計にゲットして、テンションは最高潮だ。僕もお祭り見物なんて、久しぶりだったが楽しかった。


 まあそりゃ、去年みたいに一人じゃ楽しくないに決まってる。縁日なんて、人混みで余計に気温は上がるし、神社はそこかしこに蚊がいるし、ビールはぬるいしで何もいいことはない。


 クーラーががんがんきいた居酒屋でジョッキ生を傾けて、テレビで花火中継でも見る方がよっぽど楽しい。


 夏の熱気と日向の匂いが、まだ道に残っていた。


「ビールです」

「あ、ありがと」


 九王沢さんが屋台で買った紙コップのビールをサービスしてくれる。そう、これだよこれ。大人になったら、一緒に行く人がいなかったら、縁日なんてなーんにも楽しくないじゃないか。


 たこ焼きと焼きそば、焼きとうもろこしにケバブを買って二人で分けておつまみにする。九王沢さんはプラスチックのグラスに入った白ワインだ。


 一昔前はお祭りのお酒なんてビールしかないのが普通だったけど、最近では屋台で売っているものも案外バリエーション豊富だ。


 九王沢さんはもちろん、これも初めて見るたこ焼きに夢中だ。つまようじを挿したたこ焼きをスマホの写メで撮ってイギリスの両親に送っていた。


「そしてこれが、インスタントじゃない本当の焼きそばですね!?」

「いや、そんなに大げさなものじゃないから」


 その辺の町内会の屋台が炒めた焼きそばだ。そりゃ鉄板焼きでインスタントとは段違いだけど、焼きムラがあってキャベツが生だったり、ソースがよく混ざってなかったりして、素人料理のご愛嬌も味のうちと言うもので、とにかくそう騒ぐものでもない。


「今日は、感動しました」


 まだ、花火も始まってないのに九王沢さんは目を潤ませていた。それこそ、連れて来た甲斐がある、と言うものだ。


「感動した、か」


 にしても人を感動させるなんて死ぬほど難しいと思ってたのに、これほどあっけなく九王沢さんから感動した、と言う言葉が出るものだと思うと、拍子抜けもいいとこだ。


 文章や文学の世界では難攻不落なのに、九王沢さんを感動させるには、どんな紙数を費やすよりも、その辺でやってる夏祭りに連れて行けばそれで十分なのだ。


「那智さん、『感動』は、『好き』に似ているのかも知れませんね」


 ふいの九王沢さんの言葉に、僕は、はっとして息を呑んだ。九王沢さんといると、こういうことがある。一瞬、テレパスでも使えるんじゃないかなと思うくらい的確に、僕が考えていることを捕捉するのだ。


 九王沢さんは僕の空いている方の手をそっと両手で握ると、自分の身体の方へ寄せてきた。心臓が破裂するかと思った。しかし九王沢さんは、淡く微笑むばかりだ。そうしてちょっと潤んだ瞳で何を言うかと思ったら。


「わたしのこと、好きになって下さい」

「はい」


 即答してしまった。いや、もう好き、って言うか、今のでコアヒットしてしまったのだ。しかし、九王沢さんの狙いは違うところにあったようだ。自分で言った癖に、顔がぼっと一気に真っ赤になっていた。


「そっ、そう言うことじゃないんです。今のは」

 ちょっとぴんときた。そこで僕は思ったことを言ってみた。

「僕たちが、こうやって付き合ってからじゃなくて、初対面だったらどう思う?って言う話かな」

「そうです」

 こくこく、と、九王沢さんは頷いた。

「そうしたら那智さんは今みたいに、即答できますか?」


 また、はい、って言いそうになったけど、やっぱり九王沢さんの言う通りだと思った。だって半年前、僕はそうやって九王沢さんにデートに誘われたのだから。正直あのときの僕は、ただただ、面喰っただけだ。


 九王沢さんのことは確かに元から超弩級にかわいいと思ってはいたが、異性として付き合うかどうかなんて、思考の段階で言えば、まだまだ、はるか先なのだった。


 あのときの僕は実際、九王沢さんが本当はどんな女の子なのだ、と言うことすら、まともに把握していなかったのだから。


 例え反射的に、

「はい」

 と言ったにしても、その答えは九王沢さんを満足させはしなかっただろう。

 彼女はたぶん、こう言っただろうから。

 それは、僕自身の言葉じゃない、と。


「『感動』と『好き』。この二つの言葉だけは、たぶん口にしたら、その瞬間から本質から離れてしまうと思います。だからもしかしたら、それを文章にして他の人に感じてもらうには、その言葉自体を、なるべく使わない方がいいのかも知れません。だって、わたしたちは皆、究極的には誰か他の人にはなりえない。『違う』のですから」


 僕はずっと、闇の中でも清かな光沢を帯びて輝く、九王沢さんの瞳を見つめていた。確かにそうかも知れないと思った。


 今、彼女が口にした、好きになって下さい、の『好き』はそのまま置き換えられることなのだ。


 極論だが、


「これを読んで感動してください」


 と主張する小説は少なくとも、本質的に『感動する』小説にはなり得ない。なぜなら僕たちは、それぞれ勝手に『感動する』のだ。


 究極的になり得ない、他人の話から自らの中に共通点を見出して。つまり僕たちはどこまでも、『自分自身について』感動している。


 いや、もっと言えばそれを理解し合える他人が存在し、自分の大切な感情を共有しえると感じられることに喜びを見出すのだ。


 絶対的に『違う』彼岸にいるはずの僕たちは、それでもつながろうとして『感動する』のだろう。


「ここで必要なのは、『想像力』です」

 九王沢さんは秘密の扉をそっ、と開けるように言った。


「わたしたちの『感性』は、それぞれ違うデータバンクで形成されています。しかしあるたった一つのイメージで、同じ検索結果がともに現れたとき、わたしたちは『伝わった』と判断します。つまりそれが、恐らく『共感する』と言うことなのでしょう。しかしここで一つ注意したいのは、それが完全な一致がもたらしたものではない、と言うことです」


 僕はそこで密かに息を呑みそうになった。九王沢さんが、『感動する』ことが『好きだ』と言うことと、同じだと表現した本当の意味に気づいたからだ。


「突き詰めたら、実は『違う』と言うことしか分かりません。だから不完全でいいんです。必要なのは、不完全な『正解』なんです。『不一致ではなく、一致に近い不一致』」


 と、言うと九王沢さんは謎めいた笑みを投げかけて僕の表情をうかがった。


「これがわたしが、那智さんに教えてもらった『好き』と言う意味だったと思うんです」


 突然ぱらぱらと火薬が弾ける音がして、紅い光が、九王沢さんの美しい顔を脇から照らした。闇の中で光る瞳はより一層きらきらして、僕は花火よりもむしろそこから、目を離せなくなりそうだった。


「花火が始まったみたいですね」


 しかし九王沢さんは、その視線を外した。僕はやっとそれで、我に返った気がした。そうだ、九王沢さんは何より花火を楽しみにしていたんじゃないか。

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