第3話 憧れのカンヅメデート

 と、言うわけでこの夏は館詰かんづめである。八月の後半に皆で合宿、と言う名の旅行に行くのでそれまでに、依田ちゃんに草稿くらいは手渡さなきゃいけないのだが、まああんなプレッシャーかけられて、これが上手く進むはずはない。


 それにだ。もう一つ恐ろしいことに、いるのだ。僕のすぐ近くに。九王沢さん本人と言う、完全無欠の批評マシンが。


「どうですか、原稿の方は?」

 九王沢さんは容赦なくせっついてくる。こういう時、目がきらきらしているから、余計に始末に負えない。

「うん…まあ、いつもよりちょっと頑張ってみたけど」

 と、僕はノートパソコンのまま、書きかけの原稿を九王沢さんに渡す。

「拝見します」

 即座に九王沢さんは言った。


 彼女のそれは速読、と言うレベルじゃない。業務用のコピー機みたいにスキャンしているのだ。一瞬であらゆる箇所、ページの一字一句が書いた僕より詳細に頭に入ってしまう。


「どうかな?」

 実はまだ一分、経ってない。それでも九王沢さんは即答してくる。

「まず人物描写に一貫性がない気がします。例えばこのページの十二行目…」


 まるで早押しクイズだ。しかも書いた人間より的確なんて、同じ人間とは思えない。ちなみに九王沢さんは百ページ以内の中編なら、ほとんど一見して全体の構成から人物造形、文章の展開の組み合わせまで把握してしまうのだ。


「ボツだ」

「そっ、そんなことありません!わたしが今言った矛盾を解消できれば、ちゃんと作品になりますよっ」

 と、九王沢さんはフォローにならないフォローをしてくれたが、それをやるのならほぼ、いちから描き直した方がいいレベルだ。やってらんねえ。


「ったく、何で僕がこんなことしなきゃいけないんだ…」


 そもそも最初の読者が九王沢さんなんて、一次審査のハードルが高すぎるのだ。公募賞だったら、次回から誰も応募がなくなるほどに。


 実は山のような応募原稿の処理は、九王沢さんがやったのだ。皆が書いた原稿は二回に分けても全部掲載できないので、ちょっと厳しい内容のものには寸評をつけて返すことになったのだ。他の編集部員が挫折した原稿の下読みを、九王沢さんは全てこなしてくれた。


 そればかりか、それに全部二百字ほどの講評を入れて返却してくれたのだ。なんとその講評が的確過ぎて誰も何も反駁して来なかった。


 あー良かったと思ってたら、その最終兵器ファイナルウェポンの矛先がぐるりとこっちに向きやがるとは夢にも思わなかった。


「今日は徹夜ですね!?分かりました、わたし、必ずご一緒しますから!」

 で、九王沢さんがやってきた。


 いつ部屋に呼ぼうかと、こっちはどっきどきしながら機会をうかがってたのにあっさりとだ。


 お蔭で僕は半年掃除してない部屋を、二時間かけて大掃除する羽目になった。目につくいかがわしいものは、急いで処分したことは言うまでもない。


 だが、これでは恋人なんかじゃなく、館詰かんづめになった作家と、担当編集だ。笑ってる場合じゃない。ったく。今日なんか本当だったら、九王沢さんが自宅にお泊りに来るなんて身もだえをして喜ぶべきが、ちいっとも嬉しくない。


「何か欲しいものがあったら、遠慮なく言ってください!わっ、わたしさっき見た駅の商店街、で仕入れて来ますから」

「う、うん…」


 ってスルーしそうになったが、九王沢さんはこんな下町の駅前商店街などで買い物をしたことがあんまりないと思う。

 商店街、と言う固有名詞を発音するとき、やけにぎこちなかった。


「お掃除しましょうか。あ、でもすごく綺麗に住んでますね、那智さん」


 さっきさんざ掃除したのだ。当たり前だ。お昼の焼きそばみたいに水着グラビア雑誌でも九王沢さんに見つけられたら、とんでもないことになるに決まっている。


 怒られる前に、詳細な解説を求められるだろう。そっちのが精神的にきつい。


「何でもわたしに欲しいもの、言ってくださいね。遠慮はいりません」


 ああ、今一番欲しいものか。九王沢さんあなたです、ってちょっと冗談めかして言ってみようかなあと思ったが、これまた本気で解説を求められたら、そっちのが面倒くさいので、僕はあわてて口をつぐんだ。


 に、しても一応、この九王沢さんが僕の彼女なのだ。


 九王沢さん、今日は避暑地のお嬢様を地で行く、薄いブルーのワンピースだ。着やせするタイプなので一見ほっそりとして見えるが、近くで見ると、やっぱりその、胸の辺りに視線が行く。その、メロンみたいに、たわわに実ったおっぱいが。


「おっぱい…」

「えっ…」

 九王沢さんは信じられないと言うように、目を見開いた。


 やってもうた。


 執筆の苦痛から、ついに禁句を口走ってしまった。


 僕はあわてて誤魔化したけど、遅かった。完全なるセクハラである。

 これまで地の文やカッコ書きでおっぱいを連呼していたと言うことはあったが、面と向かって九王沢さんにその言葉を言ったことはない。


 何しろ相手は爆乳の癖に、天使の笑顔のリアル聖処女だ。言えるわけない。そもそもだ。本人は逆に大きいのを気にしてるかも知れないじゃないか。


「今、なんて言ったんですか?」

「いっ、いやその今のは内なる願望のぼやきって言うか、息漏れみたいな感じで、その…九王沢さんのことなんかじゃ絶対なくて…」

「わたしのことですか?」

 と、九王沢さんはそのものずばりの自分の爆乳に手を当てて首を傾げる。


 世の男はこの僕があの、Hカップのおっぱいを好き放題していると思いこんでいるのだろうが、冗談じゃない。あれは彼氏の僕でさえ、いまだに犯すべからずの禁断の果実なのだ。やたら実り過ぎているがまだ収穫時季は来ない、と言う。


「いやその、九王沢さんのことじゃないよ!だからね、ちょうどほっ、欲しいものがあったんだよ。思い出せなくてさ。確かさ、はっ、初めに『お』がついて最後に『い』がつくって言う…」

「最初に『お』で最後に『い』…ですか」

 九王沢さんは眉根をひそめると、一生懸命考え出した。何とか時間稼ぎに成功した。こうやってるうちにどうにか話題を逸らそう。

「さ、さてもうちょっと書くかな…」

 とデスクを振り返って知らんぷりしようと思ったら、九王沢さんがぐいっと僕の肩を掴んだ。

「分かりません!」

 ええっ!?他のことはみんな即答なのに!?

「一緒に考えて下さい。那智さんだって、思い出しかけてるじゃないですか」

「い、いや思い出しかけはしたけど、今はいいから」

「よくありません。このままだとわたしも何だか、気持ち悪いです。わたしも協力しますから、ちゃんと思い出しましょう。さあ」

「ええっ」


 完全に裏目に出た。一心不乱に物事を考えるのが大好きな九王沢さんの習性を利用したつもりが。思い出すも何も。面と向かって言えたらこっちだって、苦労しない。


「最初に『お』で最後に『い』ですよね…?」


 おっぱいだよ。

 言えない。いつか大声で言ってみたいが。それでなくても以前、依田ちゃんが吹き込んだ『那智先輩は性的にやりたい放題』だと言うデマを解消するのに、あれだけ苦労したのだ。


「それは食べ物ですか?それとも別のもの?」

「どっ、どっちだろうね…?」

 確かに食べ物かも知れないけど、やっぱり別のものかも知れないぞ。

「真剣に考えて下さい。わたし、絶対手に入れてみせますから!」

 九王沢さんがぐいぐい迫ってくる。この角度はまずい。僕の今一番欲しいものが、やたら魅力的に見える。ああっ、あんなに谷間が深い。

「おっ…」

「お!?」


 おっぱいだよ。目の前にぶらさがってる!しかもゆさゆさ迫ってくる。限界だ。言うしかない。僕は、覚悟を決めて声を上げた。


「『温度計』ッ!」


 …って、そんな度胸あるわけないじゃん。


 九王沢さんが電気屋さんで温度計を買って来てくれた。まったく必要ないものなのに暑い中、本当に申し訳なかったと思う。最近の温度計はデジタルでかわいかった。わあっ、湿度もちゃんと表示されるんだなあ。


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