緑色の子犬

増田朋美

緑色の子犬

緑色の子犬

その日は、本当に暑い日で、誰が言っても暑いというほど、本当に暑い日だった。ある人は、体がおかしくなると言い、またある人は、もう疲れてしまったというほど、暑い暑さだった。そういうわけで、みんな、外へ出ることはしないで、家の中でエアコンをかけながら、静かに過ごしている日々だった。

その日、蘭は、暑いので、どこにも行きたくないなと思いながら、家の中でぼーっとテレビを見ながら過ごしていた。最近は、刺青を入れに来る人もなかなかいない。そういうわけで下絵を描く仕事も減り、ぼんやりと過ごすことばかり過ごしていた。

「ちょっと、蘭。お願いがあるんだけど。」

アリスが、蘭にいった。アリスの場合、仕事の忙しさは、暑くても寒くても関係ない。赤ちゃんは、どんな季節でも関係なく生まれてくるし、育児のことで、相談にやってくる母親は多い。だから、彼女のもとへ電話の相談を求めてくる人は多いし、時には、その女性たちの家を訪問して相談に応じることもやっていた。そんなわけで、彼女は、毎日毎日、どこかへ出かけていた。

「それでは、お願いなんだけど、あたしの代わりにさ、コインランドリーに行ってきて頂戴よ。」

「コインランドリーだって?こんな暑いんだから、外に干せばいいじゃないか。」

と、蘭は彼女のいうことにびっくりして、そう言い返したのであるが、

「そうだけど。こんな暑い日に、外に洗濯物を干していたら、洗濯ものが焼けちゃうわ。其れなら、洗濯も、乾燥も全自動でやってくれるコインランドリーに行けばいいじゃないの。」

と、彼女は、そういう事を言った。

「まったく、コインランドリー何て、雨が降っているわけではないんだから、お金の無駄遣いになると思うけれどね。」

と、蘭が言うと、

「それだったら、洗濯機を稼働させないで、エアコン代に回した方が安く済むわよ。洗濯機を毎日稼働させるよりも、コインランドリーへ行って、まとめて洗濯しちゃった方が、よほどいいわ。」

彼女はいかにも西洋人らしく言った。

「あたしは、いまから、朝子さんの家に行くから、洗濯ものをやっている暇などないのよ。」

アリスは、そういって、出かける支度をはじめてしまった。全く、人に学問教えるんだから、自分の家事くらいちゃんとやれと、蘭は思うのだが、アリスは自分のことは合理的にやってしまう西洋人らしく、そういうことは全然しないのだった。

「もうしょうがないなあ。じゃあ、行ってくるよ。コインランドリーへ。」

蘭は、洗濯ものかごに入った、洗濯ものを、大きなビニール袋に入れた。二人分の洗濯物だから、たいして大量でもないのだが。コインランドリーは、家のすぐ近くにあった。蘭の膝の上においても、何も重たくなかった。

蘭が、コインランドリーの中に入ると、コインランドリーは、混んでいた。こんな暑い時に、なんで混んでいるのだろうと思ったけれど、アリスと同じ考えをしている女性も増えてきたということだろうか。コインランドリーの洗濯乾燥機は、一台しか空いていなかった。蘭は、すぐに空いている洗濯乾燥機に洗濯物を入れた。そして、洗濯料金である、1200円を入れて、スタートボタンを押す。すると、洗濯乾燥機は動き出して、洗濯ものを洗い始める。確か、洗濯をして、乾燥までやってもらって、それがすべて完了するには、一時間近くかかる。その間、家に帰るというわけにもいかず、待っているしかなかった。蘭は、仕方ない近くの喫茶店で時間をつぶすかなと考えながら、コインランドリーの入り口を出て、外へ出て、道路を移動し始めた。

「あれ、彫たつ先生じゃなないですか?」

近くで、若い女性の声が聞こえてきた。蘭がそのほうへ振り向くと、洗濯もののかごを持った、女性がいる。

「ああ、滝沢さん。お久しぶりじゃないですか。お体のほうは大丈夫ですか?」

蘭もその人がすぐにわかって、そういうことを言った。彼女の名は、滝沢巴。昨年の夏に、腕にクジャクを入れた客だ。

「お久しぶりですね。先生。お元気ですか。もう、今年の夏は暑いですねえ。毎年の事だけど、もう洗濯も面倒くさくなって、コインランドリーまで来ちゃいました。これからも、夏は暑くなるのかしら。もう、エアコン必須ねえ。」

と、明るくいう彼女は、昨年のような、落ち込んでうじうじしたような雰囲気は全くなかった。其れよりも、明るくて楽しそうな雰囲気も感じられる。

「あれ、お仕事は、どうしたんですか?この時間に、こうして外出するなんて。」

と、蘭は、彼女に尋ねてみる。

「ええ、あたし、水商売やめたわ。もう、一人で生きていくのは、疲れちゃった。だから、お母さんにお願いして、お見合いさせてもらった。それで、いまは、新しい夫と三人家族よ。」

と、明るく言う彼女。

「そうですか。息子さんは、新しいお父さんができて、喜んでいるんですか?」

蘭が聞くと、

「ええ、まあ、新しいお父さんが、一寸優しすぎて戸惑っているようだけど。」

と彼女は答える。

「そうなんですか。じゃあ今は、学校に行っていて、ちょうど、夏休みの宿題でもやっているのかな。」

蘭は、よくある一般的な質問をしたのだが、

「まあね、普通のひとには笑ってごまかせるんだけど、彫り師の先生には、嘘はつけないわね。学校には行ってないのよ。」

と、巴さんは答えた。

「行っていない?」

蘭は思わずそういってしまう。

「ええ、行ってないわ。一学期までは行ってたけど、今は学校には行かないで、家でおとなしく勉強したりしている。」

と、彼女は答えた。

「つまり、学校でいじめにでもあったということですか?」

「ええ、まあ平たく言えばそうなるかなあ。でもね、あの子、担任の先生をことごとく怖がってね。担任の先生が、何かあればすぐ大きな声を出して、黙らせるタイプの先生だったから。」

そういうことか、いわゆる熱血先生だったのだろう。それが、感性が良すぎたのか、怖いと感じるようになってしまったのだ。

「確か、小学校の一年生でしたっけ?」

「ええ。そうよ。まあ、そういう事もあり得るかもしれないわねえ。先生がそういうタイプだとね。新しい主人も心配してくれるんだけど、なかなか学校に行くと言ってくれなくて。」

と、巴さんはそういうのだった。蘭は、それなら早く新しい学校をと言いかけたが、富士市にそういうタイプの学校はまだ少ないことを思い出した。

「そうですか。あんまり熱血漢の先生も、かえって怖がってしまうのかもしれませんね。」

とりあえずそれだけ言っておく。

「あの、学校に行けなくなって、誰か専門家には相談したんですか?精神科とか、カウンセリングとかそういうところ。」

そこも聞いておきたかったので、蘭は急いでそういうことを言った。

「ええ、カウンセリングの先生には聞いたわ。少しずつゆっくりやっていきましょうと言われたわ。」

とりあえず、専門家のひとの手は借りているらしい。

「そうですか。できれば、そうなった場合、何かで発散してもらうようにした方がいいですね。何もしないで家にいるとなると、本当に何もしなくなっちゃいますから。例えば、絵を習うとか、書道とか、そういうところに通わせてあげた方がいい。」

「そうね。新しい主人も、そういっているわ。でも、そういうところの先生って、みんなえらいでしょ。だから、一寸躊躇するのよ。ほら、あたしが体を売る商売をやってたってわかったら、先生たちは、私の事、バカにするんじゃないかって。それで、息子に悪い影響が出てしまわないか心配なの。」

「そうですねえ、でも、そういうことを気にしていたら、余計に息子さんの成長を妨げるんじゃないですか。お母さんだって、そういう仕事をしていた過去にびくびくする必要はありません。だってそれは仕方ないんですから。もし、何か言われたら、仕方なかったんだって、そういってやればいいのです。」

「先生は優しいわね。ありがとう。」

蘭が急いでそういうと、彼女は、そういう事を言った。

「先生は、あたしたちのことをお客さんだと思ってみてくれるでしょ。それはきっと先生だけよね。みんなあたしの事なんて、何もできないで体を売るしか商売できないで、今は新しい夫に食べさせてもらっているダメな女としか言わないでしょう。」

「でも、息子さんのことを思ってやっているじゃないですか。」

と蘭が言うと、

「先生だけよ。そういうこと言ってくれるのは。息子の事思って売春したなんて誰が信じてくれるかしら。きっと弁護士の先生だって、あたしの事そうは見てくれないわ。まあ、でもしょうがない。あたしはできることをやっていくしかないと思うから、頑張らないとね。じゃあ、先生、もう行くわ。このまま道路に立っていると、熱中症になるわよ。」

と、彼女は洗濯物のかごを持ち直して、自宅のある方向へ歩き出そうとした。

「ちょっと待って。」

と、蘭は彼女に言う。

「もし、何かあったら、僕に電話して。愚痴の聞き役にしかなれないと思いますけど、少しは役に立てるかもしれない。電話番号は以前と変わりません。本当に気軽にかけてきてくれてかまいませんので。」

「ありがとう。先生。」

巴は、蘭の顔を見てにこやかに笑った。

「あたし、気にしないから。誰がなんて言おうと気にしないから。それで、大丈夫だから。」

と、彼女はそういってまた自宅のある方向へ歩き出すのである。

「本当に何かあったら言ってくださいよ。」

蘭は言うが、巴は大きく手を振るだけであった。蘭は、一寸彼女のことが心配だったけれど、彼女は、まえむきに歩いてくれるだろうか。そうだ、それを拒否したら、腕のクジャクが許さないと蘭は思う。

彼女の姿が見えなくなるのを見送って、蘭は、自分もコインランドリーの方向へ戻り始めた。彼女と話している間に、時間は過ぎてしまったようだ。蘭は、ここで初めて温度が高くなっていたことに気が付く。着物は、腕にべったりと張り付いていた。まったく、今日の温度は一体何度なんだろうと思われるほど暑かった。これでただでさえ暑いのに、コインランドリーで洗濯物を入れたら、大変なことになってしまうだろうなと思った。事実、予想した通り、コインランドリーに戻ってみると、コインランドリーは、冷房がかかっていても暑かった。蘭は、急いで洗濯乾燥機から洗濯物を取り出したが、汗が出てもう倒れそうなくらいだった。当然たたむ気力もないから、急いで袋の中に洗濯物を詰め込んでコインランドリーを出、家に戻った。家に戻り、全く自分が貧乏くじを引いたなあと思いながら、洗濯ものをたたむ。

その翌日の昼過ぎ。蘭の家の固定電話が鳴った。アリスは、ちょうど出かけていたため、蘭が電話をとった。固定電話にかけてくるなんて珍しいなと思いながら。

「はいはい、伊能ですが。」

「ええ、あの、彫たつ先生いらっしゃいますか。」

声は巴さんの声である。

「ああ、滝沢さんじゃないですか。どうしたんですか?」

蘭がそう聞くと、巴はちょっとふるえているような声でこんな事を切り出した。

「あの、子供がぐったりしているんです。どうしたらいいでしょうか。」

「じゃあ、すぐに救急車を呼んで、病院に行かせなくちゃ。」

と、蘭が一般的なことを言うと、

「そうなんですけど、、、。」

と躊躇している彼女。

「そうじゃなくて、早く子供さんを何とかしなければいけないでしょう。子供さんをまず助けるのが親の務めですよ。」

「先生もそういうこと言うんですね、、、。」

と彼女はそんな発言をした。

「そういうことって、そうするのが親でしょう。息子さんがいるんだから。」

「その前に何があったのかとか、先生は聞いてくださらないのですか。先生は、なんでも私の話を聞いてくれたのに。」

そんな勿体ぶっている暇はないと、蘭は思うのだが、彼女はそういうことを言っているのだった。蘭は、一寸いらだって、

「それでは、何があったのか、話してもらえないでしょうかな。」

と言ってみる。

「実は、今日、子どもを連れて、買い物に行ったんです。あたしは、本来一人で逝きたかったんですけれども、子供がどうしても一緒に行くって聞かなくて。それで私、連れて行ったんですけど、子供は車の中で寝てしまって。駐車場についた時も目を覚まさなかったので、じゃあ、そのまま寝かせてやればいいか、それだけだったんですよ。それで、買い物にいって、戻ったときは、もう名前を呼んでも返事をしなくなってしまって、、、。」

という彼女。

「で、いま子供さんはどうしているんです?」

と蘭が聞くと、

「ええ、うちで寝ています。まだ息はありますが、もう全身汗びっしょりで、真っ赤な顔して。」

というのであるから、多分危険な状態なのだろう。蘭は、早く医者に見せる方が、先なのではないかと思ったが、彼女はこういう事を言うのだった。

「あの、先生。あたし、犯罪者になってしまうのでしょうか。子供を殺したっていう犯罪者。」

そういう彼女は、子供がおかしくなって、気が動転しているような感じの口調ではなかった。蘭は、どうして実母なのに、そんなことができるんだろうかと思ったが、彼女はさらに続けるのである。

「だって、私、やっと、人並みにできたんですよ。人並みに、生活をすることができるようになったんですよ。今まではずっと売春婦として、からかわれたりバカにされたりしたんですけど、それからやっと解放されて、それでやっと普通の人間になれたばかりなのに、今度は犯罪者になれと

いうんですか。」

「だって、実の子を、そこまで追い詰めたのであれば、立派な罪になりますよ。」

と蘭はそういったが、彼女は、さらに続ける。

「それでは私、もう終わりなのでしょうか。だって、今まで希望が叶ったことなんてありませんでした。学生の時は、真剣に勉強したくたって、勉強したい友達ができなくてずっと寂しく一人で過ごして、そのあと、就職できなくて、体を売る商売に入って、お客さんだった人と結婚できたと思ったら、今度はその親に付け込まれ、無理やり別れさせられて、また体を売る商売に戻ってしまって。そして、今、やっと普通の人と同じ生活ができるようになったんですよ。それを子ども一人のために、また振り出しに戻れというのですか?そんなこと、あんまりじゃないですか。どうして私の人生は、そういう風になってしまったんでしょうか。私は、真剣に勉強したかっただけなのに。其れなのに、なんでこうもうまくいかないんだろう。」

「それはあなたのせいでもなんでもありませんよ。僕は、宗教のことはよくわかりませんが、かつて受けたことのある観音講で、こういうことを言われたことが在りました。事実はただあるだけである。それが良いか悪いかは、判断する必要はない。それにどう対処するのかを考えればよいだけなのだと。人間にできるのはそれだけしかないのだと。それは確かにそうなんだと思います。だから、あなたも、過去というものを持ち出さず、今やってしまった事に向き合って下さい。それが一番大事なんじゃないでしょうか。」

そういうことを言う彼女に、蘭は、静かにそう話した。確かに、このことは、仏教の経典である、国訳一切経によくある言葉なのだが、どんな宗教関係なく、そういうことなんだと思われる。

「でも私、これから母親失格の、犯罪者として見られるの?」

と、巴は蘭に続ける。

「じゃあ聞きますが、あなたは息子さんの体を殴ったりたたいたりしたことはありますか?」

蘭は巴に聞いた。

「そんなことありません。ただ、私は、息子を育てるのにタイミングが合わなくて。」

と、いう彼女に、蘭はさらに続けた。

「じゃあ、息子さんを、放置したり、熱が出ても病院に連れて行かなかったりとか。」

「ええ。だって、仕事は夜でしたし、私はとても疲れていて、息子の事なんてほとんどかまいませんでした。ただ、食事を与えて、服を着せて、住む場所さえあればよいのではないかと思っていました。」

そう答える彼女。つまり彼女は、やっぱり何かしら息子さんに虐待を続けていたのだろうか。

「そうですか。それはいつのことですか?」

「ええ、今の夫と再婚する前です。今の夫と再婚したきっかけは、実家の家族が持ってきた、お見合いの話でしたから。」

と、いうことは、一人で息子さんを育てていた時に、虐待をしていたと考えられる。

「それで、今のご主人と一緒に暮らし始めてからは、そういうことはしなくなったと言いたいのですか?」

蘭はそう聞いてみる。彼女はちょっと言葉に詰まりながら、

「ええ、今の主人は、私の家族が持ってきてくれた人なので、ちゃんと私の事も、子供のこともしてくれます。だからやっと私は、今の幸せがつかめたの。それをこんな事で、持っていかれるなんてあんまりです。どうか、息子がこうなったことを、ただの自然死でいてくれればと思うのですけれども、、、。」

まあ、目立った外傷がないというのなら、そういうことになるんだと思うけれども、それでは息子さんはなぜ生まれてきたということになる。誰かの歌の歌詞を引用するのであれば、生まれたことには意味があるという。それを、教えてくれるきっかけになるには、息子さんは、本当にかわいそうすぎる。

「まあ確かにそうなるかもしれないですけど、今の日本の法律では、自然死ということでは片付けられませんよ。だって子供が流行り病で死ぬとか、そのようなことはめったにないでしょ。そういうわけですから、警察の手が多かれ少なかれ入ってくるでしょう。いずれにしても、あなたがしたことは、子供さんを育てられなかったという意味では、罪になりますよ。それは、法律を変えるとかそういうことをしないかぎり、変えることはできやしませんよ。」

蘭は、できるだけわかりやすく、説明したつもりだった。それが、巴の耳に届いてくれるかどうか、それは不詳だが、とにかくやれるところまでやろうと思った。

「それでは、私、どうしたらいいのでしょうか。」

と泣きながらいう彼女に、蘭は、きっぱりとこういった。

「だから、すぐに救急車を呼んで、息子さんをお医者さんに見せてやってください。そして、息子さんが、少しでも軽い病状で済むように務めてやってください。」

しばらく沈黙が流れる。蘭は何も言わなかった。彼女に気が付いてほしいからだ。それがたとえ時間がかかっても、そういうことをしなければと思った。

どれくらい時間がたったかわからないが、蘭の家にある柱時計が、音を立ててなったのに蘭は気が付いた。

「わかりました。」

電話の奥で彼女がそういうことを言っているのが聞こえてくる。

「ええ、罪と向き合って。」

蘭は、静かに言った。そして電話はガチャンと切れた。ああやっと気が付いてくれたのかあと蘭は思った。




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緑色の子犬 増田朋美 @masubuchi4996

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