第67話

 あの日の事は、今でも呆れる程鮮明だ。

 朝から天気が良くて……気持ちから明るく感じたものだったのに。


 園芸部の割り当てで花壇と温室の朝の水やり当番だった私は、いつもより早く登校したのだ。

 何故かいつもの通り瑞貴が私を迎えに来てくれて、一緒に学校へと向かったのも懐かしい。


 初等部の頃は氷川先輩が瑞貴と私を迎えに来てくれて、氷川先輩の家の運転手さんが運転する車で登校していた。

 それが瑞貴と私が中等部に入る頃には瑞貴が迎えに来てくれて、瑞貴の家の運転手さんの運転する車で一緒に行くようになったのだったと思い出す。


 そう、私が中等部に上がる頃、氷川先輩と私が距離を置きだしたから。


 色々な情景が目に浮かぶ。

 あの日の気持ちの良い天気の中、同じ当番の藤原君と一緒に水やりをしていた事。

 それを何故か関係がない瑞貴が一緒に居て見ていた事。


 ただ見ている訳でもなくて、瑞貴は私を手伝ってくれたのも懐かしい。

 一緒の当番ではないのが不思議な位だった。

 瑞貴とは中等部の頃は一緒の当番だったのだが、高等部になってから藤原君と私が組む事になった時、瑞貴が凄く不満そうだったのを思い出す。


 そういえば……設楽君とは中等部から一緒の園芸部だったが、一緒の当番になった事が無かったなぁと思い出してしまった。

 藤原君は中等部の途中から園芸部に入部したから、高等部で一緒の当番なのは分かるのだが、どうしてか設楽君とは部活の当番は別々だったのだ。


 初夏に差し掛かろうかという季節で、花が盛りと咲いていた。

 芳香が鼻をくすぐり、気分も良く、水やりに雑草と枯れた花や葉っぱを取り除いたりしつつの世話を終わり、瑞貴も藤原君も同じクラスだったから一緒に教室へと向かったのが本当に懐かしい。


 そうして、二時間目が終わり――――


「あの日、二時間目まではいつも通りだった。天気が良かった以外は特に何かあった訳でもなく、普通の日常を送っていた。それが……三時間目が始まる少し前――――移動教室の人達が移動をしている途中だ。それ位の時間に、突如目を開けていられない程の眩い光を浴びた。視界も思考も真っ白になったと思った……そして、目を開けると鬱蒼とした森の中に放り出されていたんだ」


 氷川先輩の声が脳内に響く。

 そう、あの日……三時間目が始まる少し前。

 親友の杏ちゃんといつも通り、休み時間の間ちょっと話していて、少しばかり予習が不安になった私は早めに席へと戻って座った時、白い光に包まれたのだ――――


「日の光が届かない巨木が連立する深い森の中だ。訳が分からなかった。校舎から突然見ず知らずの森の中に放り出された訳だからな。もうだいぶ薄暗いから日が落ちているのではとも思ってそれにも混乱したが、周りで自分と同じように右往左往していたのが、見知った濃紺のブレザーと緑を主体にした紺、赤のチェックのパンツやスカートな制服の、年齢の近い少年少女。更に見知った大人達がいたからな。どうにか正気を保っていられた。何がどうなっているのかは分からないが、取りあえず整列しようということになった訳だ」


 氷川先輩の声と共に、あの日の光景は容易に脳裏で展開される。


 座っていたはずの私が、森の中に居た時にはどうしてか立っていたのだ。

 教科書を手に持っていた訳でも、ノートを手に持っていた訳でもなかった。

 あの時私は教室で、丁度ただ座っていただけだったのを思い出す。

 だからだろう。

 制服にいれていた生徒手帳とハンカチにポケットティッシュ、それからスマホ。

 これ位しか私は持たずにこの世界へと降り立ったのだ。


「整列しようって教頭先生に言ったの、氷川先輩でしたよね」


 村沢君が尊敬のまなざしで氷川先輩を見ながら言う。


「そうなのか?」


 日向先輩は知らなかったらしく、村沢君に訊いていた。


「そうでしたよ。俺、たまたま教頭先生の近くに何でかいましたから、薄暗くてもしっかり覚えてます」


 氷川先輩は苦笑しながら口を開いた。


「どうにか皆を落ち着かせなくてはと思っただけだ」


 そんな氷川先輩に、笹原君が目を見開いていた。


「あの状況でそれを考えられるって凄いですよ。俺、自分の事で精一杯というか、兎に角パニックでしたから」


 鈴木君も肯いている。


「そうだったよな。本当に訳が分からなくて恐慌状態だったよ。周りを見る余裕とかもなかったから」


 酒井君は思い出す様に上の方を見つつ嘆息している。


「体育だったはずなんだよ。で、グランドに居たんだ。それが光を浴びたら薄暗い森の中だろ? 本当に頭がおかしくなったかと現実逃避しっ放しだった」


 安藤君は村沢君を見ながら組んでいた腕を組みかえつつ苦笑する。


「良く覚えてたな。俺の場合、知らない内に森の中。誰かが整列しようって言ったから取りあえず整列したって感じだったけど」


 村沢君は頬を掻きながら恥ずかしそうだ。


「いや、まあ、あれだ。ちょっと異世界召喚物の小説とか読んだりした事あったからさ、それかなと唐突に思って、それで落ち着いた所に氷川先輩が教頭先生にってか皆に話しかけてたもんだから、不思議と鮮明でさ」


 設楽君は目を瞬かせている。


「そういう小説の話、村沢さんから聞いた事がありましたね。僕は混乱していた中で、あの整列は本当に助かりました。見知った顔を見たら落ち着きましたから」


 中村先輩も感慨深そうに肯いた。


「そうよね……あれで落ち着いたわ」


 皆が中村先輩の言葉に肯いていたのが印象的だった。

 とはいえ、私も氷川先輩の声で落ち着いたのは確かなのだが。


「果たしてあれが正解だったのかは分からん。本当に整列した事が良かった事なのか……」


 一人氷川先輩だけが、深い悔恨の中に居る様だった。


 それが酷く心と目に留まってしまって、私はどう声を掛けたら良いのかわからなくなり、ただ氷川先輩を見詰める事しか出来なかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る