詩篇のような

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菜の花とシナプス畑

 その枝は、葉をつけることなく無数に広がっている。

 連続する自我というものはどのようにして伝達されていくのだろうか。昨日の自分から今日の自分へ、今日の自分から明日の自分へ。極端な話をすれば、一秒前の自分から一秒後の自分とでも。この自我と呼ばれるものは非常に厄介なものだと考える。これを脳機能に付随するただの電気信号でしかないとするには、人を人たらしめる要素としてあまりに曖昧で頼りなくそれでいて不安定だ。このような不定形の概念的ですらあるものに自らの身体を預けていて良いのだろうかと、いつしか自らに疑念を抱くようになった。

 しかしその疑念も言うなれば所詮は私の意識であり、つまりは自我でしかないのだ。疑念という要素を繋ぎ合わせるのも私の頭ではあるが、それはそれとして関係ないことのように身体は身体としての機能をし続ける。無論脳にしたってそれは同じことで、むしろ本体でありベースであるのは脳と言えよう。ではこの意識というものはなんのために誰のために存在しているのか。そもそも人間は連続する自我という個人を有する必要があるだろうか。種として、集合体としての意識さえ存在していれば、生命及び社会としての機構であることに差し障りがないように思うのだ。であれば、何を感じるために私たちは個を与えられ、それを飼い慣らすことをしなければならないのか。

 それだから何ということでもないのだが、単に理解し記憶の整合性を保つこと、自ら考え思想を練り上げること、こんなものはただのしりとりや連想ゲームでしかない、そうあればいいと願わずにはいられなかった。単純なシミュレーションで私たちは完成していると、それであったなら全てがその通りに進むのみなのだと、そう決めてしまえるのだから。それが何のためにあるのかなどと一生考えねばならぬことが恐ろしいだけで、この意識すらも決められたことであれば良いと。しかし私はしりとり的にそうではないことを直感できるのだ、次の言葉を想像出来るように、私たちはそのように、形作られている。

 それはきっと、顔料を纏った絵筆で線を引くように、なだらかな凹凸を描く。色とりどりの恒星を結び、隙間を埋め終わる頃にはそこは花畑になるだろう。良くも悪くも、私たちの自我(これ)は見方の一つでしかないのだ。葉のつかぬ枝であり、何色かの花畑だ。もしくは見知らぬ詞であるかもしれないし、そこに連続性が存在するかどうかもわからない。ただ、もし枝が葉をつけ、花が枯れたとしても、それは連続性を持った事象であると言えるだろう。私たちの自我も、そういった類の現象でしかないと、そう考えるならば幾分か気も楽になるものだ。

 

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