二日目
朝起きると、いい匂いが部屋に立ち込めていた。バターと砂糖とたまごの、甘くとろけるような香り。それに加えて、じゅわあというなにかを焼いている音。おそらく、この天国のような空間を作り上げているのは、とっくに起きてベッドの上の毛布をきれいに整えているさくらさんだろうと思った。まだ夢の中ではないのかと疑うほど、心地良い目覚めだった。
「おはようございます。」
私はこみ上げるあくびを噛み殺して、台所に立つさくらさんに話しかけた。
「あ、おはよう。昨日はよく眠れた?」
右手に菜箸、左手でフライパンを押さえている。
「はい。……とってもおいしそうですね。」
私はさくらさんに笑いかけた。さくらさんも、自信作だからねと言って微笑みを返す。まな板の上を見ると、広いバットに黄色い液が注がれていた。そして、そこに浸されている白いのは、どうやら食パンであるらしかった。
あまりじろじろ見るのも悪いと思って、洗面所を使ってもいいですか、と聞いた。フライパンに視線を落としたさくらさんは笑顔のまま、「どうぞ」と言った。
私は自前の石鹸で洗顔中、昨日のことを思い出していた。……醜態を晒してしまった。他人に背中の傷を見せてしまったのを私はひどく後悔していた。さくらさんはその後何も言わなかった。これがもし、無駄に正義感の強い人や、考えのない人だったら……想像するだけで恐ろしい。
とにかく、このまま傷についての話題を避けるのが、私に課された目標だった。最後に冷水で顔を引き締め、よし、と呟いてほっぺを叩いた。
洗顔が終わる頃には、もう盛り付けの段階にまで移っていた。何かしなければと思い、私は机を広げた。箸と、コップを並べる。冷蔵庫からお茶を取り出そうとすると、さくらさんが口を開いた。
「あー、牛乳が余っちゃったから、これ飲もうか。牛乳は好き?」
私はさくらさんの差し出す紙パックの牛乳を受け取る。はい、と返事をして、それを居間までもっていく。残り少ない牛乳をマグカップに等しく注ぐ。その調整をしている間に、さくらさんが二人分の朝ごはんを運んでくれた。
朝食は、サラダとフレンチトーストだった。ドレッシングまで手作りで、本当にさくらさんは料理に凝ってるなと感心した。私は、さくらさんの真似をして、柔らかいフレンチトーストの艶やかな表面に、グラニュー糖をぱらぱらとまぶした。
「「いただきます。」」
箸で切れるほど柔らかい。一片を持ち上げると、グラニュー糖が朝の光を反射して、きらきらと輝いた。しばらく眺めて、口に運ぶ。口を閉じると同時に、バターの芳醇な香りが、鼻を通り抜けた。
「……おいしい。」
すっと言葉が出た。この世には、こんなに甘い朝食があるのか。焼き目は香ばしく、噛む度に単純でない甘みが、パンの間からあふれ出てくる。
私が情けない顔をしていたのだろうか。さくらさんは、こちらを見てフフっと笑った。
「そんなに気に入ってくれるとは思わなかったな。良かった。」
私は急に恥ずかしくなったが、それでも箸の勢いは止まらなかった。
ガラスの小さなボウルには、パプリカとレタス、後はミニトマトが添えられていた。黒い斑点が浮かぶ白のドレッシングを上からまんべんなくかけた。なるべく食べやすい大きさの野菜を選んで、箸でつかんだ。それを舌の上に乗せる。
糖度の高くなった口内に、爽やかな酸味が一瞬で広がる。なるほど、サウザンドドレッシングというやつだ。私は見た目からまるで予想がつかなかったから、その味に驚かされた。
瞬く間に食べ終わって、冷めやらぬ興奮をなんとか落ち着かせていた。さくらさんは、終始笑顔で私を見ていた。途中で恥じらいはどこかに消え、私は素晴らしい食事に没頭していた。私の少し後にさくらさんも食べ終わって、二人でごちそうさまをした。
「あの、とってもとっても、おいしかったです。」
頭の中ではいろいろ考えても、それを上手く伝えられないのが悔しかった。さくらさんは、
「見てたらわかったよ。あんまりおいしそうに食べちゃうから、こっちまで嬉しくなっちゃった。ありがとうね。」
私は、そんなのとんでもないと思いながら、首を何回も縦に振った。
昨日と同じように、二人で食器を片付ける。と言っても、一人用の台所だから、二人で立つと自然とくっつくくらいの広さだった。私たちは、角と角からシンクに手を伸ばした。さくらさんは食器をスポンジで洗って、私はそれを洗い流すという分担で、洗い物は効率よく、特に苦に感じることなく終わった。
「あのね。私、全然趣味とかなくなっちゃって、この家で暇をつぶそうと思ってもほんとに何もないの。テレビとかゲーム機は捨てちゃったし、二人で遊べそうなボードゲームとかも置いてないの。」
私は、濡れた手を拭きながら、はいと返事をした。
「だからね。今日は天気もいいみたいだし、外にお出かけしようと思うの。……スイちゃんはなにか用事とかある?」
「いや……。いいえ、何も無いです。」
考えたようで、私は何も考えてなかった。高校の課題はもう済ませたし、友人との関係もすでに無くなっていた。今の私は、お母さんの言葉に従う機械みたいなものだった。自分の姿を手のひらに乗せて、いろんな角度から眺めてみても、傾けたほうへ転がるだけの透明なビー玉に過ぎなかった。私の言った「何も無い」というのは、意味として限りなく正しかった。
「じゃあ、きまりだね。」
さくらさんはにこやかに笑った。
制服に着替える。持ってきた衣類は、中学と高校の制服、インナー、あとは日数分の下着だけだった。一応、リュックの奥の方に服は詰めてきたが、もう何年も前に頼み込んで買ってもらった大切な服だ。よっぽどのことがない限り、外に出さない代物だった。
ネクタイを締める。くすんだ手鏡で確認しながら、櫛で髪を梳いて、長さをチェックする。まだ切らなくてよさそうだ。
「準備できたら言ってね。」
さくらさんがふすま越しに声をかけてきた。ちゃんと聞こえるように、少し大きめの声で返事をする。なんだか、「家族」みたいで少しうれしくなった。
ほとんど準備は終わっていたから、すぐに部屋を出た。さくらさんの部屋を開ける。そこにさくらさんの姿は無かった。じゃあたぶん居間なんだろうなと、振り返る。
……私はふと、気になるものが目に入った。昨日は暗かったからよく見えなかったけれど、タンスの上に写真立てがある。写っているのは、制服を着た昔のさくらさんと、友人と思わしき女性。後ろの桜に負けないくらい、満面の笑みを顔に湛えている。
ハッとする。なに人の部屋をじろじろ見てるんだ。いけないいけない。私は踵を返して、居間に向かった。
ドアを開けると、冷蔵庫を開けっぱなしにして、床に置いたバスケットの中にせっせと何かを入れ込んでいた。
「あー、ちょっと待ってね。」
そう言って、次は水筒にお茶をそそぎ始めた。私はかえって迷惑かと思って、何も言わずにそれを眺めていた。キュッとゴムが密着する音を鳴らすと「よし」と言って、バスケットに詰める。蓋を閉めて、私に視線を合わせた。
「じゃ、行こうか。」
さくらさんは気合を入れるように肩を持ち上げて、下ろした。私は笑顔で、はい、と答えた。
昨日は結構肌寒いくらいの気温だったが、朝から天気がいいおかげで私たちが外に出る頃にはだいぶあったまっていた。私は手にバスケットを持っていた。お手伝いしたいと頼んで奪ったのだ。行き先は知らなかった。私はさくらさんの隣をほんのちょっと遅く歩いた。どうやら、進む先は丘の上の方であるようだ。
「スイちゃんは、部活動とかやるの?」
私たちは取り留めのない会話をした。私が口下手なのを気遣って、さくらさんが主導してくれていた。
「……いや、たぶん、できないです。」
「でき……。そっか。じゃあ中学も帰宅部かな?」
「あ、はい、そうです。でも、最後の方は塾に通ってました。」
「おー。じゃあ、私と一緒だ。」
さくらさんは、つばの広い麦わら帽子を被って、顔にはマスクをつけていた。表情は影になってわかりにくいが、笑うと目が細くなった。
「ちゃんと『帰宅部』してたんだよ。授業終わるとすぐに学校出て、いろんなこと話しながら寄り道してたんだ。早く終わった日は、バスに乗って、電車に乗って。隣町の知らない公園で遊んだりもしたっけな。」
細めた目を更に細くして、もはや目を閉じてるんじゃないかとさえ思った。道の先を見ているのではなく、遠い昔を思い出すような、そんな面持ちだった。
「楽しそうですね。」と私は言った。それだけではちょっとそっけないかなと思い、私から話題を振ろうと少し考えて、言った。
「そのご友人とは、まだつき合いがあるんですか?」
訊いた後に、もう大人だから、学生時代の友人とは疎遠になっているかもしれないな、なんて思った。実際私もそうだった。多くはないが、友人のつき合いはあった。深くならないだけで、毎日話すくらいの仲だった。しかし卒業式して以来、と言ってもまだ数週間だが、もう連絡が取れなくなっていて、「友情は水物」だなんて思っていた。
だが、予想とは裏腹に、さくらさんはすぐには口を開かず、難しい顔をした。
「友達、のままだったら良かったんだけどね。」
困ったような笑顔を作る。私にはその言葉の真意がわからなかったから、どんな顔をしていいか困った。さくらさんは、そこから全然違う話題を出して、何も無かったみたいに振る舞った。私は何もわからぬまま、忘れようと努めた。しかし、さくらさんが初めて見せた困惑の表情は、簡単には脳内から消えず、結局最後まで引っかかったまま会話を続けていた。
「見晴らしのいい場所でしょ。たまたま見つけた穴場なんだ。」
たどり着いた場所は、丘の頂上から少し逸れた高台だった。古びたベンチが三基と、大昔のやぐらみたいな展望台がある。暦上、今は春ではあったが、草花の開花はまだ少し先だった。しかしピクニックにはちょうどいい塩梅の茂り具合で、私たちはさっそく、レジャーシートを敷いて、その上にバスケットの中身を広げた。
「じゃじゃーん。サンドイッチと、フルーツヨーグルトを作ってきました。」
さくらさんは朝より嬉しそうに、持ってきた昼食の説明を始めた。
「食パン続きでごめんね。実はいつもよりちょっと安くて、スイちゃんも育ち盛りだしいっぱいあった方が良いかなあなんて思って三袋も買っちゃったの。そいで甘いものも食べたいでしょ? だから缶詰と、ヨーグルトも買ってきたの。そしたら見切り品でさ、缶詰は良いけどほかは二日しか持たないから、ええい、いっぱい使っちゃえって思ってね。あ、でも、飽きないように工夫はしてるつもりだよ。ほら見て、このサンドイッチもね……。」
早口だけど丁寧な説明だった。私は邪魔にならないくらいの相槌を打った。大人がこんなにはしゃいでるのを見るのが新鮮だった。なにより、本当に料理に対しての工夫が細かく、聴いていて眠くならない授業みたいだった。
「……でね、どうしよっかなーって迷ったんだけど……あ、ごめん……しゃべり過ぎちゃったね。」
さくらさんは照れながら笑った。失礼かもしれないけれど、可愛らしいなと思って私の目じりは下がりっぱなしである。
「んーと、ごほん。じゃあ、食べよっか。」
仕切りなおしたつもりなのだろうか。私は笑いをこらえながら、手を合わせた。
「「いただきます。」」
腕時計を見る。大体昼を少し過ぎたくらいだ。今からこの丘を降りても、三時前には戻れるだろう。私は、展望台から見える景色を眺めていた。
特段、美しいと思うほどじゃなかった。さくらさんの言う通り「見晴らしがいい」だけで、あぁ、遠くに山が見えるなあとか、さくらさんちはあそこらへんかなあとかそんな感想しか出てこなかった。振り返って、先ほどまでお弁当を広げていた草原を見る。
大きなニレの木の下に、レジャーシートを移動していた。そこは気持ちの良い木漏れ日があって、さくらさんが、麦わら帽を顔にかぶせて仰向けで寝ている。カラスやハトが木の上にとまっている。ちゃんと完食したから、バスケットが狙われているとしても安心である。いや、それにしても、サンドイッチが美味しかったなあ。
たぶん、朝から用意してくれていたのだ。おそらくここに来るのも織り込み済みで、手際よく出かけられたのも前々から準備していたんだろう。仕事が早いというより、楽しみに待っていてくれたんだな、という印象を受ける。それは素直にうれしかった。だけど、私の傷を見られた以上、必要より踏み込むのは危険であると思った。優しいがゆえに、よく考えて慎重になってくれているとは信じたいが、明日からはまた、私にとっての「日常」が始まるのだ。落差を感じないように、私もこのまま低速飛行で良い。「これで、いいんだ。」私は言い聞かせるように心の中で何回もそう念じた。
「さくらさん、さくらさーん。」
……困ったな。完全に熟睡しているみたいだ。横を向いて、麦わら帽もずれているのに、一向に起きないままだった。私は諦めて、隣に座る。そして上を見上げて、かさかさ揺れる葉っぱが木漏れ日をゆるくかき混ぜるのをぼうっと眺めていた。
「……だよ。……にいて。……お願い……。」
ニレの木のさざめきの合間に、さくらさんのかすれた声がする。起きたのかなと思って、様子を見る。
――さくらさんは眠ったまま、涙を地面にこぼしていた。よほど悲しい夢を見ているのか、顔の前に添えた両手は、かたく握られていた。私は唐突に泣き出すさくらさんを放心して見ていた。悪夢なら、今すぐ起こしてあげた方が良いかもしれない。だけど、うわごとのように口走っている言葉は、どこか哀愁の漂うものだった。
私はその内、同じ言葉をゆっくりと繰り返しているのに気付いた。私は聞かないようにした。知られたくない過去くらい、一つや二つ、誰しもが持っているのだ。
その時ちょうど風が凪いだ。虫の音や、微かな町の喧騒も消えた。静寂が私たちだけを包む。まるでその間だけ、光からは遠いところへ放り投げられたようだった。
私は、さくらさんの寝言をはっきりと聞いた。
「好きだよ……。そばにいて……。お願いだから……。」
私は動揺して、思わずさくらさんを凝視した。依然、横になって寝たままだ。夢を見ているのだろうか。
触れてはいけないところに、私は触れてしまった。偶然だとしても、事故だとしても、私はさくらさんの隠していた秘密があるのを知ってしまった。昨日の夜と、全く同じだ。今度は私なのだ。
――さくらさんは、私に何も言わなかった。孤独の隣にそっと座ってくれた。……嬉しかった。さくらさんも孤独を抱えていたのだ。決して交わらないはずの孤独ふたつが、闇の中で少しずつ重なって沈んでいく感覚を覚えた。これは、昨日の夜にも感じたことだった。
さくらさんは、私の方へ寝返りを打ってきた。そして、ぐずるように手で目をこすった。涙の流れた筋が、顔の左の方だけに付いていた。
「……あれ。えっ……あ、スイちゃんか。」
私は笑って「おはようございます」と声をかけた。
「あはは、寝ちゃってた。ごめんね、退屈だったかな。」
「いえ、大丈夫です。木漏れ日がきれいで、それを眺めてたんです。」
私は首を上げる。さくらさんも、きっと同じ方向を見ている。
「そっか。あれ……なんか泣いちゃってる。」
さくらさんは、ポケットからハンカチを取り出して目のあたりをおさえた。
「あはは……実はちょっと悲しい夢見ちゃってさ、スイちゃんに見られるなんて、恥ずかしいや。」
力なく笑う声が寂しかった。
私は……さくらさんに何を言ってあげればいいのか本当に悩んだ。それから、折り返しを過ぎた私たちの「これから」を指で数えた。今からさくらさんちに戻って、ご飯を作って、お風呂に入って、おやすみを言って。明日朝起きたら、もうおしまい。私たちが、再び交わることなんてない。私たちは、まだお互いに何も知らないままだ。たった一日を共に過ごしただけだ。そもそも歳が離れているし、育った環境も全く違う。
――だけど……きっと、心を通わせられるんじゃないかって、そう思った。私たちは、同じ影の中で足を引きずるようにさまよっている。そこは幸せからは程遠い場所だ。自分の身体は透き通っているから、そこに無数の闇が貫いて見えなくなっている。私たちは、暗闇だから気付いていないだけで、本当はものすごく近くにいるのかもしれない。それも、ぴったり重なるほど近くに。
……私は。
「あの……。」
私はさくらさんを、その両方の目が、きれいに視線と重なるように見つめた。
「……ごめんなさい。私、さくらさんの寝言を聞いてしまって……。」
風が、通り抜けた。
「もしよかったら……話してくれませんか。」
「……。」
さくらさんは黙って、私を見ている。
「私も、私のこと、お話します。」
長い沈黙の後、さくらさんは私から目を逸らして、真上を見つめた。そして、あのねと言ってから、長いひとり言を話し始めた。
「昔、好きな人がいたの。私は、その人と本当に長い時間を過ごして、愛とか恋とか、人生にとって大切なものを知っていったんだ。春になったらね、この草原にシロツメクサがいっぱい咲くの。そして白い絨毯みたいになるんだよ。よく来てたんだ。……本当に久しぶりに来たなあ。一人じゃ絶対来られなかった。思い出しちゃうから。楽しかったことも、辛かったことも。
そう、さっき話した『帰宅部』の子。幼稚園から一緒だったんだ。小学校も、中学校も。奇跡みたいにクラスが一緒で、ずっと仲良しだった。
夏になったらね。実家の近くの川で遊んで、日焼け止めも帽子もないからとんでもない日焼けしてね。「痛いね」とか言って笑い合って……。でも懲りないから次の日にはプールに行くんだよ。結局、休みが明けてもひりひりしたまんまで夏服が擦れて痛かったっけ。そっからすぐに寒くなって……。私、夏を過ぎると風邪引いてばっかりなんだ。秋は季節の変わり目で体調が崩れちゃうし、冬は……まあ、寒いし。そしたらね、私が家で寝込んでると、「私にもちょうだい!」って馬鹿なこと言って看病してくれるの。私、昔から熱が上がると怖い夢を見るんだ。夢というか、夢と現実の境が無くなる、みたいな。意識がもうろうとしてくると部屋に置いてる家具がゆらゆら幽霊みたいに見えてくるの。だから……いつも私が寝るまで傍にいてくれてたんだ。あの子が居てくれると、本当に楽になって、いつの間にか夢の中にいて、起きれば治ってた。私、あの時が一番幸せだったなあ。
それが続くのも、中学生の真ん中くらいだった。その子は時々、「早く大人になりたいね」って私に言ってきた。今思うと、あれは「遠くに行きたいね」って意味なんだって思う。私、全然気付けなかった。「子供のままでいいよ」ってずっと言ってた。そしたら困ったみたいに笑うの。私は本当に、いつまでもこのままでいいのになあなんて考えてた。
中学最後の夏くらいから、その子は本格的に勉強を始めて『帰宅部』はだんだんと無くなっていった。向上心が私より何倍もある人だったから、とうとう私は一人ぼっちになったの。忙しそうにしてたから『帰宅部』にも誘えなかったし、休日なんか何もやることなくて寝てばっか。それでも私はまだ甘えていたくて、その子が駆けていくのをずるずると引き留めていたんだ。今思えば、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。だけどわかんなかったんだろうね。私は結局、どうしても自分の本心を伝えたくて、最終的に、卒業式の日に告白をしたんだ。
実はね、その子、女の子なの。私はずっと、一番の友達として隣にいた。だけどそれじゃ足りなくなってきちゃったの。会えないと寂しくて、その子の姿を目で追って。それが恋だと気づいたのは、もう止められなくなった。わざわざ友情を捨ててまで、私は告白したの。たくさん悩んだし、たくさん泣いた。でも、それくらい本気だった。性別なんてわけないって思ってた。だって、その子にとって私は、そのくらいの価値があると思ってたんだもの。
――そう。振られちゃったの。おまけに「気持ち悪い」って。あの子、ものすごく怒ってた。そして、泣いてた。当然だよね。信じてた友情を裏切られたんだもん。誰だってそうなるよ。なんでわかんなかったんだろうね。なんでだろうね。」
さくらさんは両腕で顔を覆った。風の音と共に、すすり泣く声がする。
私よりいくつも上の人が、こうして泣いているのを見ると、私は大人というのがよくわからなくなった。大人は泣かないし、笑わない。昼間は外を歩いて、夜は疲れて帰ってくる。でも、さくらさんは大人に対するイメージをすべてくつがえすような生活をしている。こうやって縮こまって泣いているのも、私にしてみれば驚くべき光景だった。
私は、さくらさんのはかりしれない悲しみを想った。ずっと連れ添った友人と、離ればなれになる苦しさ。それをわかっていても抑えられなかったさくらさんの深い愛。そして、失恋。私の人生の半分が、それらの悲哀で覆われているとしたら、どんなに苦しいんだろうか。……わからないのが悔しい。さくらさんの孤独は、私のとは違う。この場しのぎの共感じゃ、深い悲しみは癒せない。
だけど、場違いかもしれないけれど、さくらさんはさくらさんだな、なんて思った。大人とか子供ではなく、「さくらさん」という性格を私は見た。この二日間で……短くても、私たちは秘密をさらけ出した、お互いに世界にたった一人の友人である。私はどうにかして、励ますんじゃなくて、喜んでもらうんじゃなくて、「あなたはあなたなんだ」って、伝えたかった。
私は、脳裏にさくらさんの部屋で見た写真立てを思い出した。
「……あの。」
私は、思い切って言う。
「私は、さくらさんらしいなって、思います。……まださくらさんのこと、全然知らないけど、自分の気持ちに正直なのは、絶対いいことだと思います。たまたま、フラれちゃっただけで、次がありますから。」
あ、いや、次と言うのは変な意味じゃなくて、と慌てて言い直す。だけど言い換える言葉が無くて「えっと、えっと」と唸っていると、さくらさんは両腕を地面におろした。
「……なんだそれ。」
目のあたりが赤く染まって、まだ潤んでいた。鼻声で笑っている。
私は、さくらさんの笑顔に、自然と笑い返していた。
私も、私のことを全部話した。さくらさんはやっと起き上がって、私が草むらに向かって語るのを隣で聴いた。目を合わせるわけでもなく、さくらさんは無言のまま、私の過去を聴いてくれた。
思い出したくないこともたくさんあった。身体が硬直して話の流れが止まると、さくらさんは優しく私の背中をさすってくれた。触れるか触れないかくらいの力で、そっと、撫でてくれた。本当は誰にも見せちゃいけない傷のはずなのに、さくらさんの大きな手が歪な背中の凹凸に当たる度、それがすごく嬉しくてたまらなくなった。
喋り終わる頃には私もさくらさんもぼろぼろになって、お互いの顔を見て笑った。うれしくなるとまた泣いて、私が泣くとさくらさんも泣いた。気付けば夕方になっていた。私たちは、ぐちゃぐちゃになった感情を整えるために、崩れそうな展望台に登って落ちる夕陽を見ていた。
「スイちゃん。」
「はい。」
「私ね、別に後悔してないよ。」
「なら、良かったです。」
「本当に好きだったから、もう会えなくて悲しい、それだけなの。」
「……はい。」
私も。
「誰かに……さくらさんに言えてよかったです。このまま誰にも言えなかったら、たぶん、どこかで勝手に死んでいたと思います。」
「なら、良かった。」
私たちは決して幸福ではないけれど、お互いに足りない部分とはみ出た部分をくっつけて、一つの円になれる気がした。
軽くなったバスケットを振って歩いて、暗くなった道を帰る。空には、太陽が落ちた後の薄明が広がっていた。オレンジから濃紺への自然な移り変わりが、刻一刻と姿を変えている。私たちは多くを語らずにいた。疲れていたのもあったが、本心を語り合った私たちの間に流れる、心地よい静寂に身を任せていたのだ。
家に着くとすぐに、さくらさんは居間のカーペットに滑り込むみたいに倒れた。
「久しぶりに遠出したから疲れたあ。」と、床と顔の隙間からくぐもった声が聞こえた。私はそこまで疲れていなかったが、そうですね、と返事をした。私はバスケットのふたを開けて片づけをした。と言っても、お弁当はラップで丁寧に包まれていたから、タッパーはちゃちゃっとゆすぐだけで済んだ。レジャーシートはお風呂に持ってく。浴槽は朝に水を抜いて洗っていたようで、照明を反射して白く光っていた。
居間に戻ると、さくらさんは台所に立って何やら考え込んでいた。
「うーん……しまった。」
今度は、冷蔵庫を開いて顎に手を当てている。
「どうしたんですか。」
と私は聞いた。
「ほんとは、帰り道にスーパーに寄って、お買い物しようと思ってたんだ。」
忘れちゃってた、とさくらさんは困った笑い方をした。
「なにか買ってきましょうか。まだ私、元気ですから。」
「若いっていいねえ。……いや、もうめんどうだし、おなかすいてるから即席麺でいいかな。」
あっ、と何かに気付いたみたいに息を漏らして、
「……うん。それでいいかも。スイちゃんは、どう?」
何を思いついたののかわからないが、さくらさんに任せておけば大丈夫だろう。私は、はいと言ってほほ笑んだ。
一足先にお風呂に入ることになった。勿論、私は遠慮をしたが、楽しみにしててよと言って笑うから、仕方なく湯船につかっている。
お風呂は、少しぬるめにしている。あんまり熱いと化膿してくるから。私は、今日の出来事をぐるぐると思い返していた。
――素敵なことがあると明日が怖くなる癖は、一体いつから始まったんだろう。今は特に、その波が一番高いところにきていた。鼻まで水面に埋めて、私は目を閉じた。
母の癇癪には本当に苦労して生きてきた。それが爆ぜて、消えない傷が初めて出来たのは、小学校五年生だったかな。何だったかな。たぶん、何でもなかったんだろうな。
自分は秀でた人間だと、母はいつも鼻高々に語っていた。しかしそれを言うのは私の前だけで、祖母の家へ行くと、母は急におとなしくなった。母と祖母には確執があったのは、幼い私の目から見てもわかった。祖母が死んでから、母の傲慢さは留まるところを知らなかった。
それは、祖母の古風な考えに、彼女の送るはずだった華々しい人生が潰された恨みがあったからだ。私は深くを知らない。だけど、抑圧された青春が今になって弾けているのを見ると、私はなんだか悲しい気持ちになった。
夜な夜な遊んで帰ってくる母を軽蔑するとともに、心のどこかで、可哀そうな人間だと同情した。母は、何者にもなれなかった過去の時代の遺失物だと、今ではわかる。私は、母を殺したいほど憎んでいるけれど、彼女の人生の中に、かび臭い因習に囚われた人間が何人現れたのか、私は知らない。
お風呂から上がって、廊下へ出る。すると、食欲をそそる良い香りが漂ってきていた。私は、わくわくしながら居間に入った。
「お、ぴったりだねえ。呼びに行こうとしてたんだよ。髪乾かした後でいいから、食べる準備しよっか。」
部屋には、深く煎ったゴマの濃い香りが充満していた。思わずうっとりとする。
「辛いもの、苦手かな。まあお好みで。」
ひとり言を呟いている。私はそそくさと、任せられた仕事をこなした。
食卓に置かれたのは、味噌ラーメンだった。即席麺とは思えないほどのクオリティである。白ねぎと、白菜の先っぽの青い方。細切りの人参に、上からコーンが散らばっている。彩も美しく、短時間で即席麺をここまで昇華させるのは、最早才能だなとさえ思った。さくらさんは、私が感動してみているのを、嬉しそうに眺めている。
「「いただきます。」」
スープを飲むと、さらに衝撃が走った。備え付けの粉末を溶かしただけではない。これは、この部屋に溢れている良い香りの正体、ゴマであった。下の方から軽く混ぜると、スープの対流が起こった。
野菜と麺をレンゲに入れて、一緒に食べる。ゴマの風味が鼻を通り抜ける。野菜はほどよい歯ごたえがあり、ごま油が表面を覆っていて香ばしい。縮れた麺がよくスープに絡んでいる。
私は、微笑んでさくらさんを見た。もしこの世があと少しで終わるのならば、最後の料理は、やっぱりさくらさんの手作りがいいな、と思った。
「コーヒー、飲める?」
さくらさんは、食後の一息を必ず入れるたちなんだなと思った。コーヒーは好きでも嫌いでもなかった。飲めはするけど、大人がこぞってブラックを頼む理由が、私にはわからなかった。
「少し、砂糖が欲しいです。」
例のごとく、ブランケットを肩から羽織ってベランダに出る。外はそこまで寒くなかったが、息は白い。それに辺りは静かで光が無いから、凍っているみたいな雰囲気だった。空を見上げる。
「私、オリオン座しかわかんないや。」
さくらさんは笑って言った。私もそうだった。
私たちは無言になって、コーヒーを飲んで、時々通る車のライトを目で追った。月が陰ったり、木の葉が風に飛ばされたり、人が歩く靴の音がやがて二つになるのを聞いた。
夜に溶けるようだった。時は遅々として進み、しかし止まることは無い。私は、いつしか明日を考えていた。
「……さくらさん。」
横顔を見る。こちらを見ない。うん、と喉を鳴らした。
「……私、もし世界が終わるのなら、さくらさんの隣にいます。」
顔がほころんだ。さくらさんも、私も。
「そっか、じゃあ……。」
さくらさんは、私を見つめて言った。
「何、食べよっか。」
月食 依田鼓 @tudumi197
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