月食
依田鼓
一日目
一日目
キッチンには、芳しい香りが漂っていた。私は木べらを持ってコンロの前に立ち、鍋の番人となっていた。自分の方へ鍋を傾けると、黄みがかって透き通る豚肉の脂が、ぴょんぴょんとはねた。それに気を付けながら狙いを定めて、底の方へ張りついた茶色の薄い焦げを剥がすように、ごしごしかき混ぜる。うん、綺麗に色づいているし、脂もよく引き出せてるみたいだ。私は、ボウルにこんもりと盛った根菜たちを投入した。ごろごろと転がり落ちて、じゅわあと気持ちの良い音を立てる。私は、この音が変わる瞬間が何より好きだった。口の中にたまっている生唾を、ごくりと飲んだ。
そういえば。私は思いついて、別の小鍋に水を注ぐ。それを火にかけると、冷蔵庫の扉を開けて、板こんにゃくを取り出した。――具だくさんの方が幸せだもの。大さじですくって小さく水泡の立ちつつある鍋に入れた。
鍋の底をこそぐ。つまみで火の加減を見る。鍋底に火が当たるか当たらないかまで下げて、音が小さくなるのを聞いた。
「醤油も入れてみるか。」
思い付きで加える。大さじ一杯。また音色を変えて、香ばしい香りを湯気と共に立てた。具材全体に脂が回るように、鍋肌をこつこつと叩きながら混ぜた。
隣のコンロで火にかけていた水が沸騰する。少し火を弱めて、主人公の鍋と交互に見ながら、一分もしないうちにざるにあげた。これはまた後で入れよう。
時計を見る。気づけば十時を少し過ぎている。まあ、あの子がくるまでには完成しそうかな。私は「よし」と呟いて、エプロンの紐をぎゅっと結びなおした。
あと一息というところで、電話が鳴った。川口さんからだった。
「はい、もしもし。」
「あーもしもし。いま、スイがそっち向かってるから。」
「そうですか。……向かってるって、どこから来てるんです?」
「そんなの知らないわよ。それより、任せたわよ。スイのこと。お礼はするからさ。」
「……はい。あ、あと――」
私が言い終わる前に、川口さんは電話を切った。好きなものとか苦手なものとか、先に聞いておきたかったんだけどな。受話器から流れる、ツー、ツーという音が、小さく、部屋に響いた。
昼食の準備がひと段落してから、私はベランダで、淹れたお茶を飲んでいた。今日は良い日和だ。暖かい日差しに、少し冷たい春の風。夏に使う予定だった大きな麦わら帽子を被って、ここから見える公園の桜を眺めていた。
おととし、私は勤めていた会社を逃げるように退社した。原因は人間関係とストレス。よくある話だ。上司は怒鳴るばかりで仕事を教えてくれず、結局焦ってミスをして、そしてまた、怒られて。そんな悪循環を絵に描いたみたいな環境に居て、気が病まない方がおかしかった。業績がいい人はこぞって無趣味で、話してもなんの面白みもない人ばかり。親と、慕っていた別の上司に相談しても「三年は続けろ」なんて言われ退路がなくて、気付いた時には、心の方が参っていた。何もかも、終わった後に気付くんだ。会社にも親にも頭を下げて謝られたが、私はそれを何の感情も入れずにただ眺めていただけだった。
わかっていたのに逃れられなかった。誰かの顔をうかがって過ごしていた毎日だった。その割に、私は上司の顔なんてこれっぽっちも覚えてないのだ。私の人生に穴を開けておいて、その人間がのうのうと暮らしているなんて……。いや、やめよう。私のほうが、社会とかいう曖昧な空間に合わなかったのだ。みんながそれなりに踊っている間、私はただ突っ立っていただけなんだ。
そこからのんびり暮らし始めて、もう二年が経とうとしている。相変わらず、人混みは苦手だし、大きな音には過剰に反応してしまう。それでも、社会保障と少ない貯金で細々と生きていた。私には、これくらいの生活がちょうどよかった。
チャイムが鳴った。ここにきた時、驚かないように小さくしてもらった。考えてみれば、親を除いてこれが初めての来客だった。私はちょっと、背筋を伸ばした。
「はーい。」
私は玄関に向かって、声をかけた。手に持っていたマグカップを置いて立ち上がる。準備は万端である。サンダルを踏んで、私は玄関のドアを開けた。
そこには、大きな荷物を持った少女が立っていた。この子が、今日のお客様である。と同時に、私はぎょっとした。昔の……友人に、空見したからだ。しかしすぐに、その勝手な思案を振り払って、私は目の前の女の子を見た。
「……どうも。スイです。よろしくお願いします。」
深々と頭を下げた。なんだか真面目だ。制服着てるし。背丈は私より少し低い。まあ、そんなに変わんないかな。むしろ高校生にしては大きんじゃないか。面を上げる。つるんと短く揃った髪が揺れた。その顔立ちは小さくまとまって端正だった。勿論、まだ化粧とかはしてないみたいだけど、この子は相当かっこいい大人になるだろうな、と思った。
「こんにちは。待ってたよ。あ、おなかすいてる?」
スイちゃんは私の顔をぽかんと眺めて、こくんと頷いた。私は微笑む。荷物を受け取るときに、制服の袖から黒のインナーがちらりと見えた。
大きくなったねとか、最後に会ったのはいつだっけとか、そういった他愛もない話をしながら、案内と言うほどでもない部屋の説明をした。スイちゃんは大抵、一つか二つくらいの言葉を返していたが、もう用意が整っているキッチンを見た時に、「おお」と声を漏らした。スイちゃんはとっさに口を塞いだが、私はにやにやしながら聞いていないフリをした。スイちゃんは、そっけないというか、緊張しているようだった。まあ、無理もないか。ほとんど初対面みたいなもんだ。
私の部屋は、場所だけ教えて中には入らなかった。まあ、当たり前か。
「スイちゃんは……いま十六だっけ。」
はい、と小さく返事が聞こえた。私が十六の時は――ああそうか。あの時か。私はちらりとタンスの上に飾ってある写真立てを見て、心の中で後悔した。
「そういえば、お母さんたちは何日間居ないの?」
「あ、えと、三日です。……すみません、お世話になります。」
「いやあ別にいいって。私も暇だったからさ。……そっか、大変だね。」
スイちゃんは私の目を見ようとしない。私は、物静かなスイちゃんを見て、川口さんとはえらい違いだな、なんて失礼な事を考えていた。
川口さんは私の遠い親戚なのだけれど、これが結構な遊び人で、親族の中でも手を焼いていた。まあ実際、私と川口さんは直接話したこともないし、私は両親がそう話しているのを小耳に挟んだだけで、自分の生活で精一杯な私が、他のところの家庭を気にする余裕はなかった。
私がダメになってから少し経った、ちょうど去年くらいかな。実家と色々話している時、川口さんの話題になった。母親、つまり川口さんの強いすすめがあって、とある名門私立の中学校に行かせるとかなんとか。結局どうなったかは知らないけれど、今着ている真新しい制服を見ればなんとなくわかった。
私は幼い頃のスイちゃんに会ったことがある。いまよりもっと明るくて、どちらかと言えば外で遊ぶのが好きだった記憶だ。高校生くらいの年代というのは、生活の良いところも悪いところもその様々を感受してしまって、主に精神面で大変な時期だと思うのだけれど、川口さんはまだ、ふらふらしたままである。私は遠い親戚ながらも、風の噂に聞くスイちゃんの方をひどく気に病んでいた。
そんな折、川口さんが私に連絡をよこしてきた。家を空けるからその間スイを預かっていてほしいとのこと。私は、この一年で得た料理スキルを誰かに発揮したいと思っていたところだったし、スイちゃんのことを勝手に気にしていたから、悩むどころかむしろ歓迎した。年下の女の子なら、私も緊張しないで済むだろうし、私はこの日を、待ち遠しく思っていたくらいだった。
「あの、お手伝いします。」
私がご飯をよそっていると、伏し目がちに話しかけてきた。
「あーどうしよっかな。じゃあ、机と、お茶を用意してほしいかも。机はね、居間に立てかけてあるのをひろげて。あとお茶は……。」
私が指示を出すと、スイちゃんは少し安心した表情になった。とたとたと板張りを鳴らして歩く。本人には言えないけれど、何だか懐っこい犬みたいに思えて、自然と口角が緩んだ。
配膳が済んだ。目の前には、ご飯と、豚汁。それにサバの塩焼き。一人用の折りたたみ机だから、並べると狭く感じる。お昼にしては豪華すぎるくらいだ。幸せな匂いが、居間中に漂う。スイちゃんは何かを探しているようだった。私はそれに気付いて、足元にあったレジ袋から新品の包装を取り出した。
「お箸はねえ、……じゃーん。ここにいる間はこれ使って。」
「え、いや、割り箸とかで大丈夫ですよ……。」
「別にいいのよ。これ、スイちゃんのために買ってきたやつだから。」
赤と白の梅の花がプリントされた箸を渡した。昨日、百均で見つけてきたのだ。私は申し訳なさそうな顔をしたスイちゃんを見て、自分がものすごく浮かれているのに気付いた。人としゃべるのは久しぶりだったから、気合を入れていたのだ。疎ましく思われていないのならいいんだけど。
「じゃ、食べよっか。」
仕切りなおすように言う。スイちゃんに笑いかけると、微笑み返してくれた。私たちは揃って、いただきますをした。
「あのさ、苦手なものとか、ある?」
豚汁を飲む。生姜がよく効いていておいしい。豚の絡むような甘い脂が、つやつやと光っている。スイちゃんは私を見た。やっと、目を見てくれた。
「いや、たぶんないです。」
「じゃあさ。」
私はお茶を一息にのんでから言った。
「好きなものは? よく食べる料理とか、あったら教えて!」
作るから、と私は勢いよく続けた。スイちゃんは驚いた表情だったが、少し考えた後に
「……家では買ってきた惣菜を温めて食べることが多くて、あんまり、わかんないです。」
と言った。その答えを聞いて、私はしまった、と思った。せっかくの食事の最中なのに余計なことを聞いてしまった。同時に、川口さんを頭の中に思い浮かべる。私は、霧を払うみたいに浮かんだ顔をぐしゃぐしゃにして消した。
「そっか。……お母さん、忙しそうだもんね。」
スイは何も言わない。まずいな。二人の間に沈黙が流れる。
「……じゃあさ。」
私は言った。
「食べ終わったら、お買い物しに行こうよ。おいしいもの食べよう、ね?」
スイはやっと私の目を見て、
「はい。いいですね。」
と言った。
二人で食器を片付ける。うちには乾燥機なんていう高価なものは置いていないから、窓を開けて放置する。自然乾燥である。いちいち拭いて、棚にしまう労力が惜しいのだ。
私はマスクをつけて、帽子を被った。外に出かけるときは、いつもこの格好だった。スイちゃんは制服のままで、白の長い靴下の上に茶色い革靴を履いた。コンコンとかかとを鳴らす。
「スイちゃんは夜何食べたい?」
朗らかな陽の中を並んで歩く。そろそろ春とは言えまだ三月の半ばである。流れる風は冷たく、服の隙間を通り抜けて、私は思わず身震いした。
「えと、何だろう。……あったかいものがいいです。」
その言葉に、私の胸は少し締め付けられる。
「ふつう、料理はあったかいんだよ、スイちゃん。」
私は笑ったけれど、なんだか切ない気持ちになった。スイちゃんを見る。制服からは新品の匂いがする。肩に付いた糸くずを払ってあげると、軽く頭を下げてほほ笑んだ。
なんだか不思議な感じだ。こうやって並んで歩いてると私も制服を着ているみたいに感じる。背丈は私のほうがちょっとだけ高いけど、まるで同級生みたいだ。
あの頃に戻ったみたいだ。こうやって並んで、登校も下校も一緒に過ごした日々。暑い時はだらだら歩いて、寒い時はくっついて歩いたな。並木の桜が鼻の上に乗っかって、それを写真に撮って笑ったりして。寝坊しても待ってくれたし、遅刻の言い訳を二人で考えて、結局まとめて怒られたっけ。私には、本当に昔のことのように思えたし、ついこの間にあったような気がした。
いつの間にか、私は私の知らぬうちに大人になったらしい。一体いつ、私は大人になったのだろう。エスカレーターみたいに、二十歳を越えれば勝手になるんだと思っていたのに、実際は違った。たくさんの大人とこどもが入り混じって、私はその混濁に流されて、何者でもない人間になってしまった。寝て起きてご飯作って、未来なんか何も見えないまま、明日を探している。数えてみると、あの子と最後に別れてから片手では収まらない年月が経っていた。
「ねえ、スイちゃん。」
「はい。」
同じ買い物バッグを私たちは揺らしている。
「いい天気だねえ。」
「……そうですね。」
スイちゃんはやっと空を見上げて、眩しそうに手をかざしたのだった。
結局、スイちゃんの言った「あったかいもの」と私の出した「鶏肉」の案をくっつけて、水炊きをすることになった。二人であっつい豆腐をはふはふ言いながら食べている。外はもう、すっかり日が沈んで暗くなっていた。気温も少しずつ下がってきたが、鍋の熱気のおかげで全然寒くなかった。私は、人と食べるとこんなに楽しいんだって、久しぶりに思い出していた。
もうだいぶ、スイちゃんは良いみたいだ。こわばった表情はなくなっている。あんまり笑わないのは元々の性格らしい。クールで端的な物言いも、別にそっけないわけではないようだ。
食べ終わると、昼と同じように食器を片付けた。二人分になると、一気に洗い物が増える。食器かごに入らない分は、仕方なく棚にしまった。
「お風呂湧いたよ。」
そういうと、スイちゃんは背負ってきた大きなリュックの中を探った。下着とタオルを取り出している。見ちゃいけないのだけど、ずっと来ているぴっちりとした黒のインナーの替えが見える。えらく多いな。一、二、三……いやいや、やめよう。人の荷物をのぞき見なんて。私は風呂場の説明をして、先のお風呂をスイちゃんに譲った。
私はあったかい格好をしてベランダに出た。マグカップが置きっぱなしなことに気付く。あちゃーと思いながらも、新しく淹れた紅茶を隣に置いて、ふうと白い息を空に向かって吐いた。
「明日は何作ろうかな。」と私は呟いた。誰かがいると、献立を考えるのがいつも以上に楽しい。スイちゃんは特にあんまり笑わないから、ついつい笑わせようとか喜ばせたいって思ってしまう。罪な子だよ、ほんとに。私はふんと鼻をならした。
「あ。」
そういえば、リンスの場所を教えてないや。私は隣の冷えたマグカップに紅茶のだしがらを捨てる。椅子から立ち上がると、少し目眩がした。
流しにマグカップを置いて風呂場へ向かう。スイちゃんは、たぶんわからないからって大声出して呼びつけるタイプじゃなさそうだ。すりガラス越しにシャワーを流している。聞こえないだろうし、直接言ってあげなきゃ。
「スイちゃーん、ごめんだけど開けるよー。」
まあ、女同士だし、歳の差もあるし、別に大丈夫か。なんて思ってた私がバカだった。どんな人間にも、見られちゃ嫌な事の一つはあるもんだろう。
――例えばそれが、背中に残る無数の生傷だったとしたら、私は、どうすれば良かったのだろうか。
スイちゃんはゆっくり振り返って、私と目を合わせた。まんまるに大きく開き、こちらをのぞき込むように見ている。シャワーの音だけが、私たちの間に響いた。ゆっくりとスイちゃんはそれを止め、地の底から響くように、言った。
「……閉めてください。」
私は呆然としていたが、その言葉に動かされ、ごめん、と言って勢いよく閉めた。
細い直線の裂傷。凸凹に盛り上がった赤いミミズ腫れ。青黒い痣が全体に広がって、こう言っては本当に失礼だが、気持ちの悪い紫陽花のように見えた。
脚に力が入らず、尻を打つように後ろへ倒れた。一気に早くなった鼓動が止まらない。瞳孔が開くような感覚を覚える。
私は、脱衣所に置かれた黒のインナーを見た。そしてその直後、川口さんの顔が脳裏に浮かんだ。シャワーの音が再び脱衣所に響いた。それにまぎれるように、私はそこを抜けだした。
居間に戻って、ぐるぐると同じ思考を繰り返していた。私は今にでも、川口さんを通報するべきだろうか。それとも、何も見ていないふりをして、残り二日間を過ごすべきだろうか。
私は、スイちゃんの受けた途方もない傷跡を一体どうやって扱えばいいか悩んだ。考えるだけで恐ろしくて、悔しくて……悲しかった。不条理に耐える心が、どれほどの速さですさんでいくかを私は知っていた。だからこそ……これは慎重になるべきだと思った。だけど、スイちゃんの傷を癒す方法、そしてスイちゃんが傷についてどう考えているか、私は何も知らないのだった。
悶々としていると、スイちゃんがお風呂から上がってきた。何か言わなきゃと思って考えあぐねている間に、スイちゃんはとうとう居間まで来た。髪はまだ濡れたまま、インナーを着て、手には制服とタオルを抱えている。無表情だった。何を考えているのかわからないのは、私がスイちゃんの深部をまだ知らないからだ。話を切り出せないまま目が泳ぐ。スイちゃんは、私を見ているようで実はその奥の壁を捉えている真っ直ぐなまなざしだった。畳まれた制服をそっと足元に置いて、私の前へと正座をする。そしてその頭をカーペットの上に深々と下げて、言った。
「お願いします。どうか、何も、見なかったことにしてもらえませんか。……お願いします。」
お願いします、とスイちゃんは何度も重ねて言った。私は何も考えられず、うん、と気のない返事をした。私たちはその後、何も会話を交わすことなく、別々の部屋に入った。
私はベッドに寝転んで、天井の木目を数えていた。私は……どうしたらよかったんだろう。一体何ができるんだろう。……答えはわかり切っていた。何もできやしない。非力だ。私は大人になりきれないこどものままである。狭い部屋に閉じこもって、一日をぼんやり過ぎるのを待っている。私は死ぬまでこれを繰り返すだけだ。未来なんてとっくに諦めていた。
結局、私は私のことを考えていた。私は、スイちゃんの何もかもを知らないのだ。別の部屋で、一人で何を考えて、何を思っているのか。川口さん――母親をどれほど憎んでいるのか。私には想像もできなかった。
寝れずにくだを巻いている。目を閉じても、ぐるぐると後悔が渦を巻いて、鬱屈な気分が収まらないままである。私は寝るのを諦めて、ベランダで星を見ることにした。
ブランケットを肩にかぶる。ホットミルクの湯気が揺れる。外置きのスリッパが凍っているように冷たい。私は思い切って、靴下を履いたままスリッパの上に足を乗せた。
口の中に、牛乳と追加した砂糖の甘みが広がる。ふぅと息を吐くと、夜空に白くたなびいた。ここは丘の上のへんぴな場所にある団地だ。街灯が少ないから星がよく見えた。
「あの……。」
薄い声とともに、すーっと私の部屋のふすまが開いた。その隙間からスイちゃんが顔を出した。
「ご一緒しても、いいですか。」
断る理由は無かった。流しに置かれたマグカップを洗って、二杯分のホットミルクを作った。私とおそろいのを肩にかけてあげる。スイちゃんは短く感謝を述べて、それを丁寧に羽織った。
「寒くない?」と尋ねる。スイちゃんは大丈夫です、と言って、私たちはおんなじ空を見上げた。
そこで会話が途切れた。私は、スイちゃんはどの星を見てるんだろうと思って、机に置いたマグカップを取る動作で視線の先を追った。最初はきょろきょろ瞳を動かしていたが、今は一点を見ている。私は、山の陰に落ちてしまいそうなオリオン座を見た。
「あの……もし、噂が本当で、隕石が落ちてきたら、さくらさんは何をしますか。」
沈黙を最初に破ったのはスイちゃんの方だった。えっ、と私はすっとんきょうな声を上げる。ええと、そうだなあなんて言いながら、私は答えた。
「たぶん、いつもよりものすごく時間がかかる料理をして、いつもより少し夜更かしをするかなあ。」
こういう素っ頓狂な質問もするんだなあと、私はスイちゃんをまじまじと見た。いたって真面目そうだからと言って、こどもっぽいことを言わないとは限らないのだ。スイちゃんは私の答えを聞いて、「素敵ですね」と言って微笑んだ。マグカップをカイロみたいに握りしめて、椅子の上で体育座りをしている。ホットミルクに口を付けると、白い口髭を生やした。私もそれを真似してスイちゃんに見せた。スイちゃんはハッとして、口元を両手で覆った。その光景がおかしくて私が笑うと、スイちゃんも、くすくすと笑った。
「スイちゃんは、どうするの。」
「私は……私にはわかりません。」
「……そっか。」
少しの間があいて、だけど……と、スイちゃんは真面目な顔した。そしてきめ台詞みたいに言った。
「さくらさんの作る最後の料理を、ぜひ食べてみたいですね。」
再び、私たちは黙りこくった。私は、何を言うかひたすら迷っていた。傷のこと、川口さんのこと、学校のこと。だけど私は、スイちゃんも同じことを考えているのではないかと思い始めた。そう思うと、私とスイちゃんのそれぞれ持つ孤独と孤独が、深い闇の底へ沈んでいくあいだに重なっていくような感覚を覚えた。
風が出だす。ホットミルクの白い揺らめきは、次第に無くなっていった。
「部屋に入ろうか。」
湯冷めして風邪引いちゃうよ、と言った。はい、とスイちゃんは小さく答えて、私たちはベランダから引きあげた。
暗いキッチンに、がちゃんと音が響く。二人分のマグカップ。私が実家時代から使っているかなり年季が入ったものと、絵柄に一目ぼれしたお高いもの。交互に使っていたから、こうして二つが流しに置かれているのはなかなか見ない景色だった。
私が、じゃあおやすみ、と言うと、スイちゃんは手を前に組んで、恥ずかしそうに言った。
「あの……もう少し、さくらさんのお部屋に居てもいいですか。」
私は驚いたが、やはり断る理由もなく、
「じゃあ、布団持ってくる?」
と尋ねた。スイちゃんはもじもじしながら、「そうします」と呟くように言った。
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