第3話
- 第3章 -
数日が経ち、新委員を迎える日がやってきた。甲本先生は歓迎会のために張り切ってジュースやらポテチやらを用意し、朝からやれ紙皿だの紙コップの買い出しだの、机を並べるので、忙しくしていた。
俺はというと、珍しく一時間目から五時間目の退屈な授業をなんとか受け、一日の授業を切り抜けた。一時間もサボらなかったことをだれかに褒めて欲しいくらいだ。
掃除を終えて、いやに重い足取りで図書館へと足を運んだ。今日ばかりは俺の体が図書館に行くことを拒絶していた。人が苦手なのか、それとも嫌いなのか、あるいはまた別の要因なのか、どうも新しい人間と関わることに恐怖にも近いし憂鬱さを感じた。また一つため息をつき、図書館へ重々しく足を踏み入れた。もうすでに何人か新入生らしき生き物が数名いたが、いないふりをして、いつものように自分の好きな本棚へと向かった。
「あら、啓介君。今日は珍しく遅いわね」
甲本先生だ。先生は満面の笑みを浮かべていた。よほど新入生が入ったのが嬉しいのだろう。先生はうきうきした様子でいた。
「あ、啓介君。そろそろ新入生と対面するから、向こうの机の方に行ってて。あ、自己紹介するから考えといてね」
「……どうしても出ないとダメですか?」
「啓介君、あなたが人付き合いが嫌いなのはよく知ってる。でも、せっかくだし、これから二年ほど付き合う仲間なんだから、今日くらい嫌でもお願いだから出て」
「……はーい」
やる気のない返事で渋々承諾した。俺は手に政治書を持ったまま、机の方に向かった。木の椅子にどっかりと座り、パラパラとページをめくった。政権交代の時のページだったっけな?確か名もなき大学教授の矛盾まみれの腹立たしい批評があった気がした。俺は政治書を読み始めた。
図書館には続々と新一年生と見られる委員がきた。一人増え二人増えていくうちに、俺の中では不満の塊が大きくなっていった。だんだんと集中ができなくなり、無性に腹が立ち始め、机をトントンと小さな音を立てて叩いた。
「はぁ……」
また、ため息をついた。一体一日に何度ため息をつくのか。俺は途方にくれたように本を閉じた。本当はこんな態度で生きていていいはずない。俺なんて死ねばいいと思う。たかが委員同士の対面ですら嫌がるこんな役立たず、一体社会の何の役に立つと言うのだ。死ね。死ね。今すぐに死んでしまえ。心の中で自分が生まれたことを何度も何度も申し訳なく思った。
他人から見れば、おそらく俺は今恐ろしい表情を浮かべていたに違いない。自分でも顔が強張っていたのがよくわかった。そしてかつて読んだショーペンハウアーの本を思い出した。ペシミスト(厭世主義者)なんて言葉は俺によく似合う。もう少しすれば嫌で仕方ない対面が始まる。もう気が重たくて、その場から動こうとすら思えなかった。その時、
「あの……」
どこかで聞き覚えのある声だった。俺は声のする方に顔を向けた。
「あっ……」
なんとそこにいたのは、数日前に三年生に絡まれているところを助けた後輩女子だった。
「どうも、あの時の先輩……ですよね?」
後輩女子は首を傾げて、自分の方を見つめた。
「ああ、まあ、お久しぶり」
不安定なトーンであっけらかんとした返事をしてしまった。あまりにとっさの出来事で、何を言うべきかわからなかった。
「先日はどうもありがとうございました」
後輩女子は深々と丁寧に頭下げた。
「いや、まあ」
俺はまたそっけない返事をしてしまった。俗に言うコミュ症は、こんな簡単な返事すら上手くできないものなのだと痛感した。俺があまりに下手くそな返事をするものだから、二人の間に気まずい会話独特の空気が流れた。背中から冷や汗が流れるのがわかった。このままではいけないと思うが、一体どうすればいいのかよくわからなかった。しばし無言の間が訪れたが、俺はなんとか息を整え、後輩女子に話しかけた。
「君は、図書委員かい?」
「はい、先輩もですか?」
「ああ、そうだよ。一応な」
「よろしくお願いします!まさかこんなところでお逢いするなんて思っても見ませんでした。嬉しいです」
彼女の最後の言葉が妙に引っかかった。自分に逢えて嬉しいなどと言うのはどうかしているとすら思ったのだ。それでもその一言でなぜか胸がいっぱいになった。
「先輩名前はなんて言うんですか?」
「俺か?」
「ええ」
「あ、おれはな、東雲啓介って言うんだ」
「シノノメですか?なんて漢字を書くんですか?」
「東の雲と書いて東雲だ。明け方という意味だ」
「珍しい苗字ですね」
「そうかもしれないな」
そしてふと、気がついたが、俺はこうやすやすと人に名乗ったことがなかった。彼女から聞いてきたのもあるが、いつも自分はすんなりと自分の名前を人に教えなかった。ただひたすらに不思議な心持ちだった。同時に、俺は彼女の名前も聞きたいといういう思いに駆られた。しかし教えてくれるだろうか。もしかしたら、
「なんで名前を聞くんですか?」
などと冷たくあしらわれて終わりかもしれない。どうも今ひとつ彼女から名前を聞き出す勇気がなかったが、そんな勇気を振るう必要もなかった。
「私は天ヶ瀬舞といいます。よろしくお願いします。東雲先輩」
「ああ、よろしく」
幸運なことに、彼女の方から名乗ってくれた。天ヶ瀬舞、天ヶ瀬舞。俺は彼女の名前を頭の中でお気に入りの曲のように何度も何度も再生した。彼女の名前の響きが心地よい。
「あ、そうだ!」
「どうした?」
「先輩、連絡先を交換しませんから」
「ああ、もちろん」
「よろしくお願いします」
連絡先、と聞いて少しあの三年生の不良たちのことを思い出した。あんなアホなことするのはみっともないな。と思うのと同時に、彼女と連絡先を交換できたことを嬉しく思った。
そしてしばらくして対面式が始まった。対面、といっても軽く自己紹介して、当番を決めた後、あとはお菓子を食べて親睦を深めれば終わりだ。舞は対面式の最中も、俺に話しかけてくれた。
「東雲先輩は部活は何かやられてるんですか?」
「いや、すぐに辞めた」
「委員会だけってことですか?」
「そうなんだよ、なんもないやつさ」
「いえ、先輩すごくいい人だと思います」
「何故だ?」
「助けてくれましたもん。本当にあの時は怖かったです」
「そうか、よかった」
俺はこの瞬間を味わっていた。久々に、生きている心地がした。先ほどまでのペシミストは一体どこに消えたのだろう?そんなことを考えるのも馬鹿らしくなるくらい、今日は楽しかった。何より、こんなに素敵な邂逅があるとは、運命とはわからないものだな。
先ほどから舞をよく見てみると、西洋人形のように非常に美しい。漆黒で艶のある髪、宝石のように輝く瞳、丁度いい高さの鼻、柔らかそうなピンク色の唇、少し火照ったように赤い頬、そして彼女の小柄な体系がその魅力をより引き立たせた。嗚呼、美しい。金色に輝くオレンジジュースを飲みながら、チラチラと彼女をの方を見た。
でも、それと同時に俺は絶望したりもした。おそらく、このように美しい女は、俺とは釣り合わないことを瞬時に悟った。どうせこんな劣等感の塊のようなペシミストに女なんてできるはずもない。俺は自分の情けなさを笑った。笑って笑って、嘲り尽くした。そして次に彼女と話したことに対する深い罪悪感を覚えた。なんだかこの同じ空間に彼女といることに、俺は心の底から恥ずかしくなってしまった。このまま彼女といることが、自分にとっての罪なのではないかと、どこかで思った。
「東雲先輩、どうしたんですか?なんかとても顔色が悪いです」
「そうか?なんともないぞ」
口では幾らでも強がったことを言うが、本当は非常に自分は不安定な気持ちでいた。舞がそばにいる安堵と喜びに対し、舞のそばに自分がいることと、ともに話したことに対しての罪悪感と無責任さがアンビバレンスなものとなって心の中にあった。
「東雲先輩、無理はしないでください。もし何かあれば私に言ってくれればいいですからね」
彼女は優しい目つきでじっと俺の方を見た。まるで生まれたてのヒヨコでも見つめるかのような優しい目つきだった。無言のまま自分はうなづいて、「ちょっと外に行ってくる」と席を外した。そして図書館の外で泣いた。悲しくて泣いたのではない、嬉しかった。ただひたすらに嬉しかった。人からこんなにも優しさを受け取ったのは久々だった。何故だか、体が震えていた。本当におかしくなったのかもしれない。苦しみの呪縛から解き放たれたような気分だった。彼女の優しさを噛み締めて、俺は五分ほど外で泣き続けていた。
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