第378話 コンサート

 ネットにアップロードした動画が引き金となって、クロエの存在が注目されるようになった。

 クロエのマネージャー兼事務所社長である前田は、クロエの歌唱力が格段に上がったのを確認し、以前の持ち歌をレコーディングし直しアルバムを出そうと提案した。


 前田の提案を聞いたクロエは、少し躊躇った。前田が選んだ曲は、クロエの持ち歌の中でもあまりヒットしなかった曲だったからだ。


「でも、ヒットした曲が入っていませんけど、いいんですか?」

 クロエはアルバムを作っても売れるのか心配になったのだ。


「いいんだ。クロエのヒットした曲は、アップテンポなノリの軽い曲が多かった。今回はバラード系を中心に選曲した」

 前田が用意した音楽スタジオでレコーディングを行い、クロエの新しいアルバムが完成した。


 新しいアルバムはクロエが心配したように、最初は売れなかった。だが、発売後一ヶ月が経過する頃からゆっくりと販売数が増え始める。


 売れ始めた理由が、何となく歌声が耳に残るとか、ハスキーボイスに惹き付けられるというものが多かった。


 そして、最終的にはクロエの一番売れたアルバムとなった。

 それを知って不機嫌となった男がいる。クロエが以前に所属していた芸能事務所の栗林社長である。社員たちはそれに気付き、クロエについての話題は禁止となった。


 その後、クロエは小さなコンサートを開くようになる。日本に居る間だけなので、回数も少なくコンサートの時間も短い。


 コンサート会場には、今までのコンサートと違い大人の女性や男性が多かった。新しいアルバムの曲を聞いて興味を持ち、聞きに来てくれたのだ。


「クロエって、何だか変わったわね」

「落ち着いた大人の女性になった感じがするのよね」

「それに、あの声よ。初めて聞いた時から鳥肌が立つ感じよ」

 見に来た人々はクロエが変わったと感じたようだ。


 段々と評価を上げていくクロエの噂を聞いた栗林社長は、心の奥に黒い感情が湧き上がるのを感じた。自分が失敗したと感じるより、クロエが自分の判断力を狂わせたという感情を覚えたのだ。


 その行為は単なる八つ当たりだった。栗林社長はコネの有る音楽プロデューサーやテレビ局などにクロエを相手しないように圧力を掛けた。


 御蔭でクロエには大きな仕事は来なかった。社長の行動は事務所のタレントにも伝わり、タレントの中にはクロエの悪口を言う者も現れる。そして、タレントの戯言ざれごとを信じるファンも。


 クロエはボイストレーニングの帰りに、つけられているのに気付いた。以前のクロエだったら慌てるところであるが、クロエは冷静だ。


 車を駐車している駐車場に行くと、後ろから声を掛けられた。クロエが振り返って見ると若い男性がクロエを睨んでいた。


「あんたが悪いんだ」

 いきなり男が殴り掛かって来た。冷静に動きを見ていたクロエは、サイドステップしてパンチを躱し、相手の腹に膝を減り込ませた。


 それだけで男は地面に倒れ動けなくなる。

「ええっ、何それ」

 あまりに呆気ないので、クロエは肩透かしを食らったように感じた。よく見ると男は顔から脂汗を流し苦しんでいる。


 クロエは倒れている男を尋問し、何故襲ったのかを聞き出した。男はクロエの後輩である星野ミクのファンで、ミクがクロエの悪口を言っているのを聞き、ミクの為に懲らしめてやろうと思ったらしい。


「何それ、馬鹿じゃないの」

 クロエは呆れバカバカしくなり、男を放置し車に乗ると帰宅する。そして、この一件は誰にも言わなかった。


 ちょっとした事件に遭ったが、クロエの活動は順調に展開し、横浜の大きな会場でコンサートを開く事になる。


 クロエを注目している人々は予想より多かったようで、チケットは完売した。その日、ピアニストの児島は、親しくしている音楽プロデューサー我孫子真一あびこしんいちを誘ってコンサート会場に来ていた。


「君、クロエと言ったら、引退したアイドルじゃないのかね」

「彼女は引退した訳じゃありません。ただ休養していただけです」

「私は、アイドルにあまり興味がないんだが」


「彼女の音楽は特別です。本当に聞く価値が有りますから」

 児島は伊丹からクロエを紹介され、彼女が作詞作曲した曲の完成を手伝わされた。魅力的だが荒削りな曲をより洗練したものに仕上げたのだ。


 二人が会場に入るとすでに多くの観客で席が埋まっている。我孫子が周りを見渡す。

「ふむ、少しは人気が有るようじゃないか」

 児島は誰かを見付け声を上げる。


「あそこ……クロエを首にした芸能事務所の社長ですよ。よく来れたな」

「栗林社長か。本当にクロエが優秀なら惜しくなったのではないか」


 時間が来てコンサートが始まる。最初の曲はクロエの尊敬する歌手のカバー曲だった。真剣な顔で聞いていた我孫子は、サビの部分でハスキーボイスが出た時、ハッとした顔をする。


 曲が終わり、拍手が鳴り響いた。

「今の声は何だね?」

 児島はニヤリと笑い説明する。


「あのハスキーボイスは、クロエの新しい武器です。魅力的な声じゃないですか」

 二曲目、三曲目と聞いている内に、我孫子はハスキーボイスが何処で出るのか期待するようになる。それは他の観客も同じようで、ハスキーボイスが出ると興奮するのが伝わって来た。


 観客の反応は上々のようだ。クロエも観客の興奮が伝わったようで、上気した顔で歌っている。後半になって、クロエ自身が作詞作曲した曲を歌い始める。


「次の曲は、私も手伝った曲なんです。覚悟して下さい」

「おいおい、何を覚悟すると言うんだね」

 児島が珍しく興奮しているのを感じて、我孫子が戸惑ったような声を出した。


 そして、歌が始まった。その歌はクロエが虎人族の葬儀に立ち会った時の経験を元に作った曲だった。


 冷たくなった亡骸を迎える家族の悲しみ、泣き崩れる妻や恋人の姿がクロエ独自の言葉で綴られており、その言葉一つ一つに最愛の人を亡くした者の悲しみが込められている。


 ハスキーボイスで悲しみの言葉が歌われる。我孫子は自分の目から涙が零れ落ちるのを止められなかった。深い悲しみが込められた奇蹟の声は、人々の心を揺さぶり失った大切な人の事を思い出させ、人生経験の長い者ほど歌の世界に惹き込まれる。


 最後のサビの部分で家族が別れの言葉を繰り返す場面を歌い始めると、ハンカチを取り出し涙を押さえる観客が増えた。


 歌が終わり、すすり泣く声とヴァイオリンの奏でる哀愁に満ちた音だけがコンサート会場を支配する。我孫子が立ち上がり、『ブラボー』と叫び拍手する。それを期に大勢の観客が拍手を始めた。


「いい曲だ。ありがとう、誘ってくれて感謝する」

 我孫子に礼を言われ、児島は笑顔を見せる。この曲を生み出すのに関係出来た事に深い喜びを感じた。


 コンサートは終盤を迎え、これもクロエが作詞作曲した曲を披露した。恋の始まりと失恋を歌った曲である。


 花開いた恋の切なさと喜びから始まり、恋が終焉した時の悲しみと苦さがハスキーボイスで歌われると、会場が盛り上がった。


 その中で栗林社長だけが、苦虫を噛み潰したような顔をしている。自分が首にしたアーティストが大きく成長し歌の世界に戻って来たのだ。後悔しているのだろうと予想がつく。


 コンサートが終わり、名残り惜しそうに観客が帰る。

 このコンサートは評判となり、次のコンサートが期待されるようになった。所属事務所にも次のコンサートについて問い合わせが殺到し、前田や事務員が大忙しとなる。


 クロエはチャンスを掴み、大きなコンサートを定期的に開けるようになった。同時にクロエが作詞作曲した二つの曲は大ヒットする。


 その後も、案内人助手としての経験を元に曲を作り続け、アルバムを出すと世界的に売れ始めた。


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