第367話 ボイストレーニング2
何を歌うか聞かれたクロエは、レ・ミゼラブルの『夢やぶれて』を選んだ。佐々木がピアノを弾き始め、それに合わせてクロエが歌いだす。
サヤは冷ややかな視線をクロエに向けながら、クロエの歌を聞く。クロエの歌は声量が乏しいが、独特の艶がある声で情感豊かに歌うスタイルだ。
いや、そのはずだだったが、変わっていた。伊丹の修行により増大した肺活量が、クロエを声量豊かな歌い手に変えたのだ。
だが、クロエは増えた声量を上手く活用出来ていなかった。それに加え、時々ゾクリと来るようなハスキーボイスに変わる瞬間があるのだが、それが歌に中途半端な印象を与える。
佐々木はクロエが宝石の原石であり、磨けば光り輝く存在になるのではないかと予感した。しかし、そうは思わない者も居て、サヤが遠慮ない評価を下す。
「何なの、前より下手になっているじゃない」
クロエが傷付いた表情を浮かべた。伊丹が慰めるように、
「それは致し方のない事なのではござらぬか。修行により声自体が変化しておるのだから」
佐々木の目がキラッと光る。
「ほう、最近声が変わったの。珍しいわね」
佐々木はボイストレーニングを引き受けてくれた。クロエが日本に居る間は、ボイストレーニングに通う事になる。
クロエたちが帰ろうとした時、次にトレーニングを受ける練習生が来た。クロエと一緒に仕事をした事もある大手芸能事務所の女子高生とマネージャーである。
女子高生は普通なのだが、マネージャーが強烈な個性の持ち主だった。
「おやっ、クロエさんじゃありまへんか。ショックで海外へ行ったという噂を聞いとりましたが、日本におったんですな」
「別の仕事で日本を離れてはいましたけど」
「ほほう、芸能界を辞めて就職しはったんでっか。でも、何故こんな所へ」
サヤと同じような事を聞かれ、クロエは手短に説明した。
「なるほど、働きながら復帰を目指しトレーニングしてはる訳でんな。根性ありますな。ええことです」
「いえ、それほどでも」
「どうでっか。うちの事務所に入りまへんか。そんな顔の怖いオッさんの所より待遇はええと思いまっせ」
伊丹は苦笑した。
クロエは伊丹に対して、平然とオッさん呼ばわりするマネージャーの度胸に驚く。伊丹は歩いているだけで威圧感があり、ヤの付く自由業の者も避けるほどなのだ。
「事務所はもう決まっていますから」
「惜しいでんな。どうせ小さな事務所なんやろうけど、困った事が有ったら相談してや」
余計なお世話だとクロエは思ったが、愛想笑いして適当に返事をする。
挨拶をして洋館から出ようとした時、車のブレーキ音がして叫び声が上がった。伊丹がドアを開け外を見る。小学生くらいの男の子が道路に倒れている。
傍には高そうな外車が停まっていた。車の中には顔を青褪めさせた男が運転席に座ったまま倒れている少年を見ている。
伊丹が素早く指示を出す。
「佐々木殿、救急車を」
近所の住民が騒ぎを聞き付け集まって来た。その中に少年の母親らしい人がいて、少年の名前を呼びながら抱きかかえる。
少年は家を出た直後、車に轢かれたらしい。内臓を傷めたらしく口から血を吐き出している。伊丹たちが近付いた時、運転者が明らかに逃げようとした。伊丹は事故車の前に回り込み立ち塞がった。事故車は急ブレーキを踏み止まる。
伊丹は運転席の横に移動し、フロントドアのガラスを素手で叩き割る。怯えた顔をしている運転者を引き摺り出し道路に投げ捨てた。道路に座り込んだ運転者は、伊丹の顔を見て短い悲鳴を上げる。
「伊丹さん、子供が危険な状態です。お願いします」
伊丹は子供に駆け寄り容体を診た。腹部に大きな傷があり、血が流れ出している。このまま救急車を待っているのは危険な感じだ。
「これを使って」
佐々木が毛布を持って来た。伊丹は毛布を歩道の上に敷き、母親に子供を寝かせるように指示した。
子供を揺さぶろうとする母親をクロエが止める。
「駄目です、お母さん。伊丹さんに任せてください」
「この人、お医者様なの」
「違いますが、頼りになる方です」
伊丹は目を閉じ精神を集中する。少年の腹部に手をかざした伊丹は<治癒>を発動した。
周りで見守っていた人々も、伊丹の身体から何か力が放出され始めたのを感じたようで、畏怖の表情を浮かべ伊丹を見詰める。
少年の傷口が少しずつ塞がり始める。出血が止まり、少年の顔色も幾分回復する。周りがざわめき、伊丹を見る目が変わる。
「これで大丈夫でござる」
母親は何が起こったのか理解している訳ではなかったが、伊丹が治療してくれたのだと分かり頭を下げ礼を言う。
その様子を見ていたマネージャーとアイドルの二人は、同じ事を呟く。
「「「クロエの魔法使い」」」
救急車が来て少年と母親を乗せて去り、次にパトカーが来た。面倒に巻き込まれるのは嫌なので、伊丹とクロエは退散する。
クロエは佐々木の下でボイストレーニングを始め、増えた声量と広がった音域が安定するまで熱心に続けた。
また、迷宮都市に居る時にもボイストレーニングを続けた。それを面白いと感じたのか、ルキが真似するようになった。
クロエはルキからマポスにピアノを教えてくれと頼まれた事を思い出し、伊丹と相談した。
「ピアノの曲を伝えるだけなら簡単。<記憶眼>の魔法が使えるようになればいいのでござる」
クロエはエヴァソン遺跡の神紋区画で『魔導数理眼の神紋』を取得した。
それにより<記憶眼>の魔法を使えるようになったクロエは、日本で様々な曲の譜面を暗記し、マポスの為に提供した。
マポスは歌謡曲も弾けるようになり、マポスの伴奏でクロエが歌うという機会が増えた。その為だろうか、趙悠館の食堂が賑やかになる。
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