第366話 ボイストレーニング
クロエは自分が人前で歌えるようになった事を喜んだ。マネージャーが死んで以来、クロエの心に刺さり血を流していた棘が消えたように感じた。クロエはピアノから離れると、ルキに抱きつき抱え上げる。
「ありがとう、ルキちゃん」
「ルキにもピアノを教えてね」
「いいわよ。ピアノも歌も教えて上げる」
クロエが喜んでいたのは、そこまでで。伊丹から声が変化していると聞いて愕然とした。クロエの声は独特の艶があると評価されていたのだ。
「そんな……どうしたらいいの」
伊丹が厳しい顔で言う。
「修行するしかないでござる」
「しゅ、修行ですか。ボイストレーニングという事でしょうか?」
「それもござる。だが、一番に肺活量と体力を付ける事が肝心でござる」
伊丹はクロエがあまり肺活量がないのに気付いていた。曲の途中で息切れしている事が有ったのだ。
伊丹が最初にクロエに課した修行は躯豪術を習得する事だった。クロエは呼吸法から重点的に教えられ、徹底的に躯豪術を叩き込まれた。この修行の過程で、クロエは魔力を理解する。
身体の中の魔力を感じ、それを制御出来るようになった頃、クロエは前より声が出やすくなったと感じた。
躯豪術の呼吸法を身に着けると同時に、身体中の筋肉や肺・心臓・胃・腸・横隔膜などの動きを意識出来るようになり、体全体で歌うという事が出来るようになったのだ。
クロエの修行は次の段階に進んだ。古武術の基本となる組討術の習得である。今回は伊丹との約束組手を中心に修行する。最初はゆっくりと型を確かめるという感じで行っていたが、伊丹は次第にスピードを上げる。
途中でクロエの息が荒くなっても伊丹は続け、クロエの精神が真っ白になり伊丹の動きに反応するだけになった。
「ここまで」
伊丹の声が響いたと同時に、クロエは道場に倒れた。気を失った訳ではなく、全力を出し切って立っているのも出来ないほど疲れたのだ。
「だ、大丈夫でござるか」
珍しく伊丹が慌てたように介抱する。クロエは慌てて介抱する伊丹を見て、何だか笑いが込み上げてきた。
クロエの声が変化した。声に力強さが出て来て、出せる音域が広くなったのだ。
「そろそろ本格的にボイストレーニングをした方がいいようでござるな」
「伊丹さんが教えてくれるんですか?」
伊丹が困った顔をする。
「それは無理。拙者は音楽方面には疎いのでござる」
「そ、それじゃあ、どうしたら?」
「一度日本に帰り、専門家に相談するのが良かろう」
「そうですね。練習方法を聞いて来ます」
次のミッシングタイムで、伊丹とクロエは日本に戻った。一日掛けて書き上げた報告書を東條管理官に提出する。
それを受け取った東條管理官は素早く読んだ。
「華やかな場所で活躍していた者が大丈夫なのかと心配していたが、頑張っているようだな」
クロエは東條管理官が苦手だった。あの鋭い目付きで睨まれると、小学生の頃政治家の伯父の家で誤って高価な花瓶を割り、伯父から叱られた時の事を思い出す。
クロエは伊丹と合流し、新しく芸能事務所を設立した前田の所へ行った。前田の事務所は新宿にあり、すでに二人の新人をスカウトしていた。
「ようこそ、伊丹さん、クロエ」
「社長になったんですね。おめでとうございます」
前田が複雑な表情を浮かべた。前の事務所をクビになったのだから、おめでとうという気分ではないようだ。
「いやいや、伊丹さんに資金を出して頂いた御蔭です」
伊丹の資産から考えれば事務所設立の為に出した金など、どういう事もなかった。
「ところで、前田社長は優秀なボイストレーナーを知りませんか?」
クロエが尋ねた。前田は有名な歌手のボイストレーナーをした経験を持つ者を紹介し、連絡を取ってくれた。
伊丹とクロエは紹介されたボイストレーナーの下へ向かう。そのボイストレーニング教室はちょっとした丘の上にある洋館だった。伊丹とクロエは丘を登って洋館まで行くと中に入る。
そこでは別のタレントがレッスンを受けていた。
レッスンを受けていたのは、クロエが所属していた芸能事務所に同期で入ったアイドルの
クロエたちはレッスン室の隅で、サヤのレッスンが終わるのを待った。佐々木は少し太った四〇歳ほどの女性ボイストレーナーだ。
「音程がズレているわよ」
ボイストレーナーの佐々木が指摘する声が響いた。レッスンが終わり、サヤが振り向いてクロエの方を見た。
「あらっ、クロエじゃない。引退したんじゃないの」
クロエの顔に一瞬だけ影が差した。
「事務所は辞めたけど、引退はしていないの。今は休養中よ」
「でも、その歳でアイドルに復帰なんて無理よ」
クロエはシンガーソングライターとして活動したかったのだが、事務所はアイドルとしてテレビ局やイベント会社、CMスポンサーに売り込んでいた。なので、クロエはアイドルの一人として一般的には認識されている。
「アイドルは卒業して、シンガーソングライターとして活動するつもりだから」
「へえ、クロエは作曲とか出来たんだっけ」
実際に何曲か作っているが、ほとんどヒットしていない。原因は背伸びした難しい曲を作り、クロエの歌唱力では歌いこなせず売れなかったのだ。
クロエとサヤの話を佐々木が止めた。
「あなたたちは?」
クロエが前田から紹介されて来た事を伝えた。
「ああ、聞いています。クロエさんは知っていますが、あなたは?」
「クロエを支援している伊丹と申す」
サヤが口を挟む。
「この人が新しいマネージャーなの?」
クロエが急いで否定する。
「違います。私が尊敬する方なんです」
サヤが胡散臭いものを見るような目で伊丹を見る。
クロエが佐々木にボイストレーニングの依頼をすると、すぐには承知せず歌を聞きたいと佐々木が言い出した。
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