第365話 クロエの歌

 俺が事務所を立ち上げる資金として、五〇〇〇万円を出すと言ったので驚いたようだ。

「本気ですか? もしかして何か条件が」


「ええ、要望としてはクロエがアーティストとして活動したくなった時、その準備が出来るようにする事です」

「それは構いませんが、クロエ一人の為に……ファンだったんですか?」


 俺は二、三年ほどテレビの歌番組やコンサートを見た事がなかったので、伊丹からクロエの名前を聞くまで、存在すら知らなかった。


「いえ、違います。ファンなら同僚の伊丹でしょう。もしかすると伊丹が資金を出すと言い出すかもしれません」


 詳細の打ち合わせは、伊丹やクロエに話してからにして、俺は前田と事務所設立の約束を交わした。


 前田は事務所を設立したら、有望そうな若い人材を発掘し、コツコツと事務所の活動範囲を広げると言う。すぐにクロエが復活するとは、思っていないようだ。


 俺は次のミッシングタイムに迷宮都市に戻り、伊丹とクロエを探した。前田の事を話しておいた方がいいと思ったのだ。


 伊丹は趙悠館で見付け、前田の事を伝えた。

「事務所の設立資金は、拙者が」

「そう言うと思ったよ」


 伊丹にとって、クロエは特別なようだ。俺は伊丹からクロエがルキと一緒に出掛けていると聞き、クロエには後でいいかと考え、ハンターギルドへ出掛けた。


 その頃、クロエはルキと一緒に迷宮都市の南に広がる雑木林に来ていた。

 目的は雑木林に生えるリュリュの実である。リュリュは冬に実を着ける珍しい植物であり、その実はあかぎれなどに有効な塗り薬となる。


「ルキちゃん、本当にこっちで合っているの?」

「うん、こっちだよ」

 クロエにとってルキは可愛くて仕方がない妹みたいな存在である。一方、ルキにとってクロエは、手の掛かるお姉ちゃんという感じらしい。


「ねえ、ルキちゃん。マポスはピアノが上手いよね。誰に習ったの?」

「児島のおじさんだよ」

 クロエは児島と言う名前に聞き覚えが有った。有名なピアニスト児島恭司である。


「へえ、ピアニストの児島さんに習ったのか。凄いな、上手いはずよ」

「クロエお姉ちゃんもピアノ弾けるの?」

「少しね」


 クロエは中学の頃からピアノを習い始め、有名なコンテストに出るほどの腕前である。

「だったら、マポスに教えてよ。児島のおじさんがいにゃくにゃっちぇ、教えてくれる人がいにゃいの」

「でも、私は児島さんのように上手じゃないのよ」


「新しい曲を教えてくれるだけでいいの」

 必死に頼むルキの姿に負け、クロエは引き受けた。


 クロエとルキの二人は、リュリュの実を見付け袋一杯採取した。

「これくらいでいいかな」

「うん……ん、何だろう」


 ルキの鋭い聴覚が、何か微かな鳴き声を聞き取った。クロエはリュリュの実を置いて、竜爪グレイブを手に取った。


「魔物なの?」

 ルキが頭をチョコッと傾げる。

「ちゃぶん、違うと思う。あっち」

 歩き出すルキを追って、クロエはリュリュの実を背負い袋に入れ歩き出す。


 途中から、クロエの耳にも聞こえるようになった。二羽の鳥がさえずっているようだ。樫に似た巨木の所まで来た二人は、梢に二羽の小鳥が止まり歌うように鳴き声を上げているのが見えた。


 日本で耳にしたことがない美しい鳴き声である。ルキが小さな声で、

「歌姫鳥だよ」

 クロエはうっとりしながら歌姫鳥の鳴き声に聞き入った。ルキも口を少し開けて聞いている。


 その時、木の陰からデカ尻狸が出て来て、歌姫鳥を驚かした。二羽の歌姫鳥はパッと飛び去ってしまう。


「にゃ」

 ルキがプクッと頬を膨らませて怒り、腰のベルトからパチンコを取り出しデカ尻狸に向けて小石を放った。


 小石は狸のデカイ尻に命中した。甲高い鳴き声を上げたデカ尻狸は尻から血を流しながら逃げて行く。

「もっと聞きたかったのに」

「ルキちゃんは音楽が好きなの?」


「歌は好き。でも、ピアノは小さいきゃらダメらって」

 ルキが不服そうな顔で言う。ピアノを弾いてみたかったらしい。


「簡単な曲を教えて上げようか」

 ルキの顔がパッと輝く。

「本当に、うれしい」

 二人は趙悠館に戻り、リュリュの実を薬房の薬師見習いトリチルに渡した。


「ありがとうございます。これで塗り薬が作れます」

 礼を言うトリチルと別れ、ルキに引き摺られるようにして、食堂のピアノの前に行く。


 クロエはお手本として、猫バスが出て来るアニメの主題歌を弾いた。

「すごーい!」

 ルキが大喜びする。その姿を見るとクロエは嬉しくなる。


 次に少女が神々や妖怪が入りに来る湯屋に迷い込んだアニメの曲を弾き始めた。ルキがキラキラと輝く目で見ているのを感じ、クロエは久しぶりに舞台で歌っていた時の自分を思い出した。


 そして、いつの間にか声を出している自分に気付く。楽しい……本気でそう思える時が来るとは思ってもみなかった。


 趙悠館の食堂に人が集まり始める。耳の良い猫人族が真っ先に来て、ルキの横で聞き始めた。マポスも目をキラキラさせて聞いている。


 病気の治療に来ている依頼者も集まり、久しぶりに聞く日本の歌を笑顔で聞いていた。

 伊丹も食堂に現れ、歌いながらピアノを弾いているクロエの姿を見てニコリとする。人前で歌えるまで心の傷が癒えたのを喜んでいるのだ。


 伊丹はクロエの歌を聞いているうちに、前に聞いた時と少し変化しているのに気付いた。それを長い間歌っていなかった所為による変化だと思った。


「完全に復帰する為には、修行が必要なようでござるな」

 その結果、修行という名のクロエ改造計画が進む事になる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る