第356話 クロエの修行とルキ
業界でも中堅と呼ばれる芸能事務所の社長である栗林は、問題となっている歌手のマネージャーを呼んだ。
「社長、何でしょうか?」
「前田、君に任せているクロエだが、まだ歌えないのか?」
前のマネージャーが目の前で殺されたのを目撃したクロエは、心に深い傷を負った。その影響で人前で歌おうとすると、声が出なくなるという症状が出るようになったのだ。
「クロエを心療内科の医者に診せているんだろ。どうなんだ、治りそうなのか?」
「先生には時間が掛かりそうだと言われました」
栗林社長は渋い顔をする。
「クロエか。稼がせてくれると思ったんだが、切り時か」
「もう少し待ってはどうです。立ち直るかも知れませんよ」
「いや、クロエ程度の才能の持ち主はいくらでもいる。あいつに金を掛けるより、他のアーティストに力を注いだ方が効率的だ」
「しかし、彼女の声には価値が有ります」
「だが、その価値があった声が出なくなったんだ」
「……ですが、貴岬大臣の姪ですよ」
「それがどうした。大臣の姪だと言うだけで客が呼べるのか。それに私が親しくしている森山大臣のライバル派閥の人間なんかに気を使う必要などない」
社長は親しくしている政治家とライバル関係にある大臣の関係者だという事で、クロエを持て余し始めていたらしい。今までは人気が出ていたので面倒を見ていたが、歌を失ったクロエに見切りを付けたようだ。
前田は事務所の応接室にクロエを呼び出し、クロエに事務所を辞めるように言う。二人は時間を掛けて話し合い、前田はクロエに歌手を諦めさせた。前田は最後に謝る。
「もう少し様子を見るように、社長にお願いしたんだが駄目だった。私の力が足りないばかりに……済まない」
クロエは悔しいという気持ちを抑えながら、所属していた事務所を去った。事務所は、マスコミにクロエが芸能界を引退すると発表した。そのニュースを自宅マンションで聞いたクロエは自殺したい気持ちになる。
その時、ふと一人の男性の顔が浮かんだ。
彼女は伊丹に連絡を取り、東京駅で会う約束をした。午後二時頃、クロエと伊丹は東京駅で合流し、近くの喫茶店へ向かう。
伊丹はクロエの顔に影が差しているのに気付いた。
「何かあったのでござるか?」
クロエから事情を聞いた伊丹は珍しく怒った。
「その事務所の社長は、価値の分からぬぼんくらでござるな」
「悔しいですけど、他人の前で歌えないのは本当ですから」
「一人の時に歌えるのなら、身体的な問題ではなく、精神的なものである証拠でござろう」
「身体的でも、精神的でも歌えないのなら一緒です」
伊丹が首を振った。
「いやいや、精神はいくらでも鍛えられるものでござる」
「そうなのでしょうか?」
伊丹が力強く頷く。彼が鍛えた者たちは、弱音を吐かず勇敢に修行を終え師の下から旅立っていった。但し、鍛えられた本人は二度と伊丹の下で修行したくないと考えている者が多かった。
「私も鍛えたら、元のように歌えるようになれるでしょうか?」
「確約は出来申さぬが、可能性は有ると」
「でも、伊丹さんは普段異世界に居るのですから、私も異世界に行かなきゃならないのでしょ」
伊丹は普通の者が異世界に行くには、多額の金が必要だと知っている。だが、クロエに負担になるような事はしたくなかった。
「クロエ殿は、今現在失業中なのでござるな?」
「まあ、そうです」
「であれば、拙者の助手というのはどうでござろう?」
クロエが首を傾げた。案内人助手という職種は人気のあるもので競争倍率が高いと聞いていたからだ。
「簡単になれるものではないと聞いていますが」
伊丹が頷いた。
「本来ならそうでござる。しかし、拙者には案内人としての実績が有り、案内人助手の一人二人なら推薦する事も可能でござる」
東條管理官に頼む事になるが、それくらいのゴリ押しを通せるほどの実績は積んでいると伊丹は自負している。
クロエは真剣に考え、挑戦してみる事にした。今のクロエは失うものがない。そう思ってしまったのだ。後で少し後悔するのだが、その時には後戻り出来なくなっていた。
クロエの就職は驚くほどの早さで決まる。芸能界を引退したクロエの周りには、偶にマスコミがうろうろする時があり、ニュースネタになるのを嫌ったクロエは、密かに異世界に旅立った。
それから三週間後。クロエは迷宮都市で案内人助手として修行を続けている。
「クロエお姉ちゃん、そっちに行っちゃよ」
ルキが元気な声を張り上げた。
「ま、任せなさい」
クロエはワイバーンの爪から作った竜爪グレイブを構え、迫って来る鎧豚に武器を振るう。
鎧豚の首に竜爪グレイブの刃が食い込み切り裂く。真っ赤な血が溢れ出し、鎧豚の体が雑草が生い茂る地面に倒れた。
「やっちゃー!」
ルキが嬉しそうに声を上げる。その様子を見ていたアカネが、クロエに指示を出す。
「さあ、クロエ。今日は鎧豚の解体よ」
クロエは顔を顰める。大分慣れてきたが、まだまだ魔物の死骸には抵抗がある。まして解体や剥ぎ取りとなると躊躇ってしまう。
伊丹に鍛えられたクロエは、『魔力袋の神紋』も取得しポーン級の魔物なら仕留められるようになっていた。
「魔物への恐怖心も抑えられるようになったのね」
「はい、伊丹さんやアカネさんたちの御蔭です」
クロエの精神は確実に鍛えられ、心に受けた傷は段々と癒やされている。迷宮都市へ来て最初の頃は、何もかもが怖かった。
ただ趙悠館の人々が優しかったので頑張れた。特に猫人族のルキたちの存在は大きい。猫人族がなにげに見せる可愛い仕草に、クロエは何度も癒やされた。
そして、一番のお気に入りはルキだ。元気で可愛いルキは見ているだけで優しい気持ちになれる。
漸く鎧豚を解体し魔晶管と皮、それに美味そうな部位の肉を剥ぎ取る。リュックに皮と魔晶管を入れ、肉は三人で分けて持つ。
「まだ狩りを続けるんですか?」
クロエがアカネに尋ねる。
「疲れたの?」
「いいえ、まだまだ大丈夫です」
「今日はエヴァソン遺跡に行くつもりなの」
「へえ、あそこには犬人族や虎人族が居るんですよね?」
「そう言えば、クロエは犬人族と虎人族には会った事がなかったっけ」
「ええ、その二種族も猫人族みたいに可愛いんですか?」
「そうね、子供は可愛いよ」
クロエは会うのが楽しみだというように笑顔となる。アカネはクロエの笑顔を見て、彼女の精神が癒え始めているのを感じた。
「アカネお姉ちゃん、変にゃ気配がしゅるよ」
ルキが声を上げた。クロエたちが居るのは、もう少しで森を抜け海岸に出る場所だ。アカネは慎重になった。伊丹からクロエの事はくれぐれもよろしくと頼まれている。
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