幕間 走馬灯(ジェラール・ヴェルヌ)1

 あの日に戻れるなら、何でもするのにと、思わなかった日はない。


 僕には、大人になった後もずっと仲のいいエミールという弟がいた。

 売れもしない絵に没頭する夢見がちでマイペースな兄が反面教師となったのか、堅実なしっかり者だった。 


 その弟が、史上最高のチェンジリングと言われるほど図抜けた存在だったジェイソン・ヒギンズ――その研究助手となり、やがて結婚した。初めの数年は、新居を兼ねた私設研究所に、僕もしばしば遊びに顔を出したものだ。


 その頃のジェイソンは社交的で、メディアで触れられない日がないほど活動的な女性だった。

 ふらりと会いに来る僕にも、夫婦で楽しく歓迎してくれた。

 しかし観察が仕事の一部でもある僕には、ジェイソンの明るさの裏に、常に何か抱えたものがあるように感じられていた。やはり異世界人であるせいか、誰に対しても最後の一歩に見えない壁を残している印象とでも言おうか。誰にも言えない秘密でもあるのかもしれない。

 だがそれだけに、エミールに対してだけは全幅の信頼と執着にも似た強い愛情を惜しみなく注いでいるように感じられた。きっとエミールはジェイソンの全てを受け入れ、本当の家族となったのだろう。


 しかし幸せそうな二人と接しているうちに、僕の心が次第に変化していった。


 家族もまともに養えないうだつの上がらない貧乏画家の兄と、大富豪の配偶者として気ままに暮らす成功者の弟。

 会う度に、心の奥底でどろりとしたものが積み重なっていく。


 きちんと定職に就くか、家族を持たずに一人で自由に生きるかを選ぶべきだと、友人知人から何度言われてきたか分からない。でも、絵だけを描いて生きていきたい願望も、それを精神的に支えてくれる家族という存在の安らぎも、どちらも捨てられない。

 前妻に愛想を尽かされた失敗をしてもなお、新しい家族でまた同じことをしている。自分は駄目な人間だ。分かっていても変えられない。


 いつの頃か、弟に羨ましさを越えた、妬みを覚えるようになってしまった。

 ずっと仲の良い兄弟だったのに。


 ほん一瞬の、悪戯にも近い出来心だった。


 研究所にある機器は決して触ってはいけないと注意されていたのに、その日、たまたま目についたスイッチを、一つだけ腹いせのようについ押してしまった。

 ただ、それだけだ。

 何のためのスイッチかも知らない。そんなことで何かが変わるなんて、思ってもいなかった。せいぜい検査結果が違うとか、その程度のことだろうと。


 二人が死ねば、親族の僕に遺産が来るかな、なんて他愛ない夢想もしたことはあったが、そんなのは考えるだけだ。兄弟喧嘩の時にいなくなればいいのにとちょっとだけ思うようなもので、本気で願ったりなんてするわけがない。


 しかし結果として、弟は死んでしまった。

 信じ難い不運の偶然が重なり、安全装置が働かず、危険水準を超えてしまった実験装置から毒ガスが発生したそうだ。一瞬のことだったという。


 ジェイソンは葬儀すらせず、一人でエミールを葬送し、それ以後一切人前に現れなくなってしまった。

 僕自身彼女に会ったのは、駆け付けた病院で弟の死を知らされた時が最後だった。

 本人の姿や発言がメディアに流れることもなくなり、やがて謎めいた世紀の天才といった存在になっていった。


 僕自身、まさか、たったあれだけの悪戯じみた行動で事故が起こったとは信じ切れず、かといって後ろ暗い思いもまた振り払えないまま、ジェイソンとの連絡がつかなくなったことをむしろ幸いとして、完全に縁が切れた。


 ――切れたと、思っていた。


 そうでなかったと知ったのは、それから十年ほど経ってからだ。


 相変わらず気ままに放浪して絵を描いていた僕の前に、突然ジェイソンが現れた。昔の華やかな印象とはあまりにも変わり果てた、まるで幽鬼のような目つきで。


 彼女は十年かけて、記憶を読み込んで記録する装置を完成させたのだ。

 状況証拠や証言などではなく、事故の原因をはっきりと特定する絶対的な証拠を――ただその執念だけのために。

 

 もし自分が原因だったとはっきりしたなら、そのままエミールの後を追おうと思っていたそうだ。

 そしてその装置で、事故前後の自分の記憶を記録し、事実を掴んだ。

 僕が通り過ぎた一瞬で、スイッチが切り替わっていた映像が、はっきり録れたと。


 ずっと自分の責任だと思っていた。真相を知った時の私の怒りが分かるか? ――無表情で淡々とそう言う姿に、もう引き返せないほどの壮絶な闇を感じた。


 もう少し待っていろ。同じ地獄をお前にも用意する。そんな予告を残して、彼女は再び姿を消した。


 もうあの時には、ジェイソンはとっくに壊れていたのだろう。復讐という妄執で。


 あの狂気に満ちた目に怯え、僕はそれ以降、ますます家族の下には寄り付けなくなってしまった。

 近いうちに僕は、あの天才に殺される。それに巻き込んではいけないと。


 ――完全に手遅れだったが。


 最初の十年、二十年は、逃げるように住み家を転々としていた。しかし一向に復讐される気配がない。

 世間的にはジェイソンは、一時的に過去の人扱いになっていたが、記憶の記録装置の発表を皮切りに、再び世界を変えるような研究成果を次々と上げていき、やがて押しも押されもせぬチェンジリングの王としての地位を築いていった。


 今から思えば、その資金は全て復讐の舞台装置を作り上げることにつぎ込まれていたのだろう。


 そんなことなど知る由もない僕は、やがて気が緩んでいった。

 あれは感情のままに口から出た脅しに過ぎなかったのだろう。さすがに本当に復讐などなかったかと。


 それが大きな間違いだと思い知るのは、事件から実に四十四年後。僕が八十歳になってからのことだ。

 彼女はとうとう、復讐の舞台を完成させたのだ。


 すっかり油断して、相変わらず貧乏ながら気ままな老後を過ごしていた僕に、突然ジェイソンから連絡が来た。

 あの研究所に来いと。


 彼女はまったく諦めてなどいなかったのだ。あれからの三十数年を、全て復讐のために費やしていた。


 僕は、素直に命令に従った。もう十分に生きた。家族に害が及ばず、僕一人の命ですむならそれでいいと思った。


 ジェイソンの復讐は、そんな甘いものなどではなかったのに。

 かつての予告通り、が待っていた。


 弟の亡くなったまさにその現場である研究室。四十四年ぶりに足を踏み入れたが、記憶と寸分たがわないままだった。

 エミールが死んだ場所で、ジェイソンは待っていた。目が合った瞬間、意識が途切れた。


 次に目を覚ました時には見渡す限り空中ディスプレイのモニターで埋め尽くされた、大きさすら分からない空間にいた。


 そして、目の前には立体モニターのジェイソンがいた。背景からすると、さっき会った研究所に残っているようだ。


 ここはかつて、エミールと二人だけでゆっくりと過ごすために、異空間にこっそりと作った故郷の光景を模した別荘だったという。そこを、僕のための地獄に作り替えたのだと。


 そしてモニター越しに、これから僕がたどらされる運命について聞かされた。


 時間の停まった牢獄に永遠に囚われたこと。食事も眠りも必要なく、自殺も狂うこともできないように、完全に管理されていること。

 ここで唯一できるのは、モニターに映っている、子や孫、ひ孫達の姿をただ見ていることだけ。

 そして、これから行われる遺産相続人選定会について。

 僕が解放される手段は、僕の血を引く人間がこの世から根絶やしになるか、一族の誰かが僕を殺してくれるかだけだと。


 ただ一つだけ、救済の道があるとも言っていた。

 僕の子孫達の誰も、ゲームの存在を知っても、遺産に目がくらむことなく平穏に丸四日間を過ごせたなら、全てを水に流して解放してやろうと。


 そして必要なことをすべてやり遂げたジェイソンは、結果すら見ず、満足したように銃で自分の頭を撃ち抜いた。

 エミール、やっとそっちに行ける――そう言い残して。


 ジェイソンには、この先どう転んでも、私に地獄しか待っていないことがよく分かっていたのだろう。そのように全てを作り上げたのだから。


 そうして、僕の血族全員を巻き込んだジェイソンの復讐が始まってしまった。


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