第3話 三作目読書中を覗かれる

 それから一週間が経った。体育の授業ではプールは最終日となり、テストの代わりとして100mのタイム測定をするという。この夏はなんだかんだと言い訳をして一度も入水せずに逃れてきたが、テストを受けないと成績がもらえないため、致し方なく授業に参加した日の帰り。濡れた水着とタオルでいつもより重たくなった鞄を肩にかけ、電車を待ちながらシリーズ三作目になる小説を読んでいた。すると、隣に人影が並んだ。まだそれほど混雑していないのに、少々距離感が近い。

 ・・・なんだろう、気色悪い。

 私は眉間に皺を寄せて紙面から隣の人の顔へと視線を移した。

「いつも何読んでるの?」

 私が顔を見るより先に本を覗き込んできたのは、相馬だった。

「うわ。何?びっくりした。」

 私は反射的に本を隠すようにして後ずさった。

「そんなに驚かなくても。」

 相馬は屈託のない笑顔でそう言った。

「え、何?・・・あれ?つか、あっちじゃないの?」

 私は向かいのホームを指さした。

「うん、今日はちょっと用事があって。」

「そう、なんだ。ああ、びっくりした。」

「いつも本読んでるよね。」

 まるでいつも見ているかのような言い方をする。

「べ、別に、ただの、小説だけど・・・」

 指を挟んだページに栞をはさみ直して、恐る恐る本を渡した。

「見ていいの?・・・時代もの?へえ。」

 相馬はタイトルと著者名を確認し、パラパラとめくっている。

「直木賞をとったことある作家の、まあ、もうだいぶ前のだけど・・・一応、まあまあ有名な作家・・・知ってる?」

 そう簡単に説明をしてみたが、いまいち反応が鈍いところからすると相馬はどうやらあまりこの手の本は読まないタイプらしい。

「ごめん。ちっとも知らないや。」

 本を閉じると、両手で私に返しながら言った。

「これ、まあまあ分厚いけど、面白い?」

「う、うん。」

 電車がホームに滑り込んできた。午後の各駅停車は座っている人もまばらだ。二人で自然と隣り合わせに座ってから、私は尋ねた。

「どこ行くの?」

「うん。B駅まで。坂田は?」

「あ、私はA駅で降りるけど。」

「家、A駅?」

「うん。」

 A駅よりも数駅先になるB駅にはわざわざ行くような所など何もない。用事とはいったい何なのだろう。

「坂田って、泳ぐの早いんだね。」

 唐突に相馬が言った。

 今日のプールの授業、見られていたのか。

 そう思うと自分の顔が少し赤くなるのがわかった。

「曲がりなりにも女子なんで、水着姿を見られたとか思うと恥ずかしいんだけど。」

「いや違う違う。いや、てっきり泳げないからサボってるのかと思ってたら、すげー綺麗なフォームでめっちゃ早いから。変な意味でなく、みんな、見てたよ。」

 思わず少し目を細めて相馬を見たが、逆に恥ずかしくなってすぐに自分の手を見ながら言った。

「・・・小二の時に少しスイミング通っただけだし。」

「あれだけ泳げるなら水泳部とか入ればいいのに。」

「泳ぐのはいいんだけど、その後が嫌い。」

「その後?」

「あの、濡れた水着を着替えるのが、ものすごく嫌い。ぴちぴちしてびたびたする感じが、どうしても気持ち悪い。」

 きっと私が変わり者であることをはっきりと認識したのだろう。相馬は目をぱちくりとさせている。

「せっかく泳ぎうまいのに、部活に入らない理由がそれ?」

「・・・ていうか、私みたいな素人が、スイミングスクール上がりのガチな水泳部の子より早く泳いじゃったりしたらさ、のけ者扱いされるわけよ。」

「はあ・・・?」

「中学時代の黒歴史でね。まあ、高校では誰も知らない話だけど。」

「あ、そういうこと・・・ふふ。」

 相馬は変にニヤけてそう言った。

「何?」

「いや、それつまり、高校では俺だけが知っている秘密ってことでしょ?」

 いつも屈託のない笑顔の相馬だが、私はこの時初めて人間臭い表情を見た気がした。

 正面の座席には初老の男性が居眠りをしている。午後の日差しは私と相馬の背中をじりじりと温めたが、クーラーが程よく効いている各駅停車の電車内は昼寝に最適だ。

「あ、そうだ。さっきの本、よかったら今度貸してくれないかな。」

「へ?」

 驚いた私は思わず相馬の顔を見た。相馬はにっこりと笑いながらもかすかに首を傾けた。あたかも私がなぜそんなに驚いたのかが不思議だとでもいうように。

「あ、えっと、うん。いい、よ。でもこれは三作目だから・・・」

「じゃあ、一作目を、ぜひ。」

「シリーズ全巻、このくらいの厚さだけど・・・?」

 読み始めれば面白いのだが、元々読書習慣のない人にこの分厚さは耐えられるのだろうか、と心配になった。

「大丈夫、多分。実はちょうど時間潰しになる本を探してたんだ。でも、本屋行ってみたけど、何をどう選べばいいのかちっともわからなくてさ。」

 社内アナウンスがA駅への到着を告げた。

「あ、じゃあ、今度持っていくよ。」

 そう言って私が立ち上がると、相馬はいつもの笑顔で

「うん。ありがとう。じゃ。」

と、右手を挙げた。

 ホームに降りた私は、相馬は本当にこんな妖怪話が登場する時代小説に興味を持ったのだろうかと疑問に思いつつ、行く電車を横目で見送った。


 翌日、私は書店のカバーがかかったままの小説シリーズ一作目を小さな紙袋に入れて隣のクラスを覗いた。理数クラスで一緒になる男子・・・確か花井と言う名前だったはず・・・がちょうど扉近くに居たので声を掛けた。

「え?相馬?・・・あいつ今日、来てるのかな。ちょっと待って。」

 花井はわざわざ別の子に相馬の所在を聞いてくれた。教室内には見当たらなかったが、どうやら学校には来ているらしいとのことだったので、渡せばわかるから、と紙袋と彼に託した。


 それから数日は、ちゃんと受け取ったのだろうか、とか、少しは読んでみただろうか、とか考えて落ち着かなかった。そもそも普通の時代小説とはちょっと違う、怪奇モノのテイストも多く含まれる小説だ。既に私自身のことは少々変り者であると承知したはず、とは思ったが、やっぱり読み始めたらいまいちよくわからない、とか、何が面白いんだろう、とか、そんな風に思っていないだろうか。・・・まあ、自分にとって彼は気にはなる存在ではあったが、そうかといって変に好かれようと思っていたわけでもないから、あの本がもし気に入らないならそう正直に言ってくれても構わない。面白さがわからないくせに読んだふりをされてもいやだし、結局読み終えられずにズルズルと半永久的に返してくれないと言うパターンだけは絶対に避けたい。というのも、ひと昔前の作品群なので文庫本は世に出回っているだけで増版は久しくかかっていないらしい。特に四作目は、どういう訳か私のよく行く書店に在庫がなく再入荷の予定もないと言われ、あちこちネットで探してようやく入手した代物だ。もし相馬に手渡ししていたなら、そのあたりのレア事情も話しておこうかとも思っていた。万が一にもドはまりして、自分でも買いたいと思ってもすぐには手に入らないよと教えておいてあげた方が親切というもの・・・いや、たかが本一冊貸すだけでそこまでの情報は必要ないか。何せ、あの作家名を知らないような非読書家なのだ。そんなことを最初から語ってしまっていたら引かれていたに違いない・・・。

 そんな私の思いをあざ笑うかのように、何日経っても相馬からの反応は一切なく、廊下でも駐輪場でも駅でも、相馬の姿を見かけることさえなかった。

 

 そして、一人悶々とした日々は、週末に物理教師に小テストの結果について呼び出しをくらったときに終わりとなった。成績が芳しくない私には相馬のことを気にする余裕がなくなっていた。

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