横浜大空襲 京浜急行平沼駅 〜終電に乗り遅れ、後から来た時間外の電車に乗ったら太平洋戦争真っ只中の平沼駅に到着した件〜

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第1話横浜大空襲 京浜急行平沼駅

横浜大空襲 京浜急行平沼駅



京浜急行上大岡駅の改札を僕は千鳥足で登って行った。


飲みたくもない酒を、会社の上司に言われるがまま飲み干し、毎日が自分の吐き出したゲロとの戦いだ。


中学入学と同時に勉強に明け暮れ、そこそこの高校に入学し、そこそこの大学を卒業した。


青春と呼べるあらゆる物を犠牲にし、そこそこの企業に就職する事が出来た。


当然のように親は喜んだ。


終身雇用…例え今は死語になりつつ有るとしても、僕は同窓生の誰よりもエリートコースに乗り、将来の生活を保証されているつもりだった。


なのに実際はどうだ…。


入社早々、社内の派閥に巻き込まれた僕は、毎日が決起集会と名付けられた飲み会に駆り出され、吐くほどに酒を飲まされている。


テンションばかりがやたら高い先輩の口から吐き出される、他の派閥の悪口に声高く賛同し、その度に一気飲みを強いられた。


午前0時丁度…上大岡発横浜行きの終電は、やっと僕が解放される自宅への護送車両でもあった。


間に合えば良い…。


強かに酔った僕はホームへ上がる階段で嘔吐し、虚しく走り去る電車を見送る事も一度や二度では無かった。


そして今日も…。


ネクタイの先端にこびれついた自分の吐瀉物をハンカチで拭い、僕は最終電車が走り去るのを焦点の合わない目で見送った。


横浜駅にほど近い自宅に帰るには、分不相応なタクシーを飛ばすしかない。


新入社員の給料はたかが知れている。


終電に間に合えば二百円の道のりも、タクシーで帰れば四千円近い金が一度に消える。


欲しい物など何も買えない…。


五月病と言う言葉が頭に浮かんだ。


駅のホームへと続く階段の最上段に座り込み、僕は力なく項垂れていた。


「プルルルル」と言う電子音がホームに鳴り響き「間もなく電車が到着します」と言うアナウンスが聞こえた。


時計を見た。


午前0時をとっくに過ぎていた。


最終電車の時間が変わったのだろうか…。


僕はよろめきながら立ち上がり、駅のホームへと向かった。


電光掲示板を見た。


「間もなく電車が来ます」と言う字が確かに掲示されている。


助かった…それが素直な感想だ。


やけに古ぼけた電車がホームに滑り込んだ。


朝の通勤ラッシュか…と思うほどの人が乗っている。


汗臭い匂いと人いきれで僕は吐きそうになった。


僕が嘔吐えずく度、僕の周りの人の輪が広がった。


冷たい視線を浴びながら、僕はつり革にしがみ付くしかなかった


「次は平沼ぁ…平沼駅に止まりまぁす。この電車は当駅止まりとなりまぁす。ご乗車ありがとうございまぁす」


と言うアナウンスが流れた。


なんだよ…横浜駅に行かないのか…。


まあ、平沼なら逆に都合が良い。


僕の住む実家は平沼橋のすぐ近くだ。


横浜駅よりも近い。


少しだけ得した気分になった…少しだけ…。


いや待てよ…京浜急行に平沼駅なんて無いぞ…。


いや、正確には「今は無い」と言った方が正しい。


待て待て…ホームは有る。


それは朽ち果てたコンクリートの残骸で、地上に降りる階段だって途中でなくなっているはずだ。


線路の橋桁だって鉄板で覆われ、人の出入りなんて不可能なはずなのに…この電車はそこに止まると言うのか…。


そうか…僕は乗る電車を間違えたのだ。


平沼駅と言うならそれは相鉄だ。


僕は間違えて相鉄の終電に乗ったのだろう…。


しかし…上大岡に相鉄なんて乗り入れてはいない…。


僕の頭の中は、高速回転で辻褄合わせをやっている。


やってはいるが…オーバードランクで強かに酔っている僕に、答えなんか出せるはずもない。


電車はアーチ型をした天井の、見た事も無い駅に止まった。


人混みの勢いに押され、僕は電車の外へと吐き出された。


茫然とホームに立ち尽くし、駅の改札へと向かう人の波に目を移した。


誰もが大きな風呂敷包を背負い、薄汚い継ぎはぎだらけの服を着ている。


中には軍服を着た者も少なくはなかった。


周りの景色が揺らぎ、駅の照明がゆっくりと落ちて行く。


スーツを着た僕だけが、その場にそぐわない人間としてスポットライトを浴びているようだ。


「とにかく駅の外に出なきゃ」


僕は意を決し、地上へと続く駅の階段を降りて行った。


そこは確かに平沼駅だった。


角には宮内庁御用達の蕎麦屋の看板が有り、平沼橋商店街の看板も見える。


しかし何かが違う…。


夜中の12時を過ぎていると言うのに、路端に人が溢れているのだ。


怪我人も居る…それも中途半端な怪我じゃ無い。


腕の無い者、足の無い者、顔の半分を薄汚れた包帯で巻かれた者…。


戦争映画の中でしか見たことのない風景がそこにあった。


「どう言う事だよ…」


駅前に立ち尽くし僕は独りごちた。


タイムスリップ…すぐに浮かんだのはそんな言葉だ。


来ないはずの電車に乗り、駅に着くと時代が変わっている。


そんな使い古された三文小説のような事が実際に起こりうると言うのか…。


有るはずがない。


この世に科学で証明できない物など絶対に有る筈は無いのだ。


だとしたら、今実際に目にしているこの光景は何だと言うのだろう。


これだけの怪我人がいるのだ。


もしタイムスリップをしたとしたら…おそらくは太平洋戦争真っ只中。


終戦間際…横浜の町は500機以上のB29爆撃機とP51戦闘機の襲来によって壊滅的な打撃を受けた。


僕は学生時代に習った歴史の教科書を、頭の中で広げた。


あれは確か…1945年…そうだ、1945年2月から8月に掛け、横浜の町は11回もの空爆を受けたはずだ。


待て待て…そうだ「平沼駅」だ。


京浜急行平沼駅は横浜大空襲で焼失したんだ。


その後、横浜駅と戸部駅が近い事もあり、戦後はそのまま廃駅となった。


その平沼駅がまだ有ると言うことは…横浜大空襲の前…。


横浜大空襲っていつだ?


四千人以上の死者を出したあの空襲は一体いつだったのだろう…。


思い出せ…思い出さなきゃ…。


平沼の町は40万発を超える焼夷弾で焼き尽くされたはずだ。


この人で溢れる現状では、ここにいるすべての人が焼き殺されてしまう。


いつだ…いつだ…思い出せ…。


そうだ、5月…5月…何日だった…B 29が来て横浜を焼き尽くした… 29… 29…29日。


5月29日だ。


5月29日午前9時22分…それから約1時間、アメリカ軍は横浜の町を焼き尽くしたんだ。


5月29日?


今日は何日だよ…。


就職のお祝いに、父から譲り受けたロレックスの時計を見た。


文字盤に28の数字が見える。


「マジかよ…」


ゲロを吐くほど酔っていたと言うのに、僕の頭の中から完全に霞が消えていた。


目の前の景色も揺れる事はない。


助けなきゃ…一人でも多く、この町の人を助けなきゃ…。


今はその使命感だけが僕を動かしている。


もう一度時計を見た。


午前1時をとうに過ぎている。


僕に与えられた時間は8時間…その8時間で僕は何が出来るのだろう。


先ずは確認だ。


今日は本当に1945年の5月29日なのか…。


こんな時は女の人の方が声を掛けやすい。


重い荷物を背負い、姉さんかぶりの女性に声を掛けた。


「済みません、今日は何月何日ですか。西暦何年ですか」


女性は驚いたような顔で僕を見た。


「近寄るんじゃないよ!荷物は渡さないよ!」


異常な剣幕で女性は叫び、鋭い視線で僕を睨み付けた。


「違うんです、僕は今日が何月何日か知りたいだけなんです」


僕は必死に説得する。


「知るもんかい!騙されないよ、あんた物取りだろ!」


女性はまったく警戒を解こうとはしない。


着る物も食べるものさえない時代…か弱い女性を狙った物取りは日常的にあったのかも知れない。


聞く人を間違えた…!


僕は直ぐに自分の過ちに気が付いた。


「どうした…」


いつの時代も野次馬は直ぐに集まって来る。


僕と女性を取り巻くように、人の輪が出来た。


「こいつ物取りだよ!私の荷物を盗もうとしてるんだよ!」


女性が僕を指差し怒鳴る。


「なんだと、フテェ野郎だ」


薄汚れた軍服の男が僕の前に立ちはだかった。


僕は及び腰で後ろに下がる。


誰かが僕の背中を押した。


勢いに負け、僕はその男の前に躍り出た。


目の前に閃光が走る。


左目に激痛…。


殴られたのが分かった。


「ち、違うんです、僕は今日が何月何日か知りたいだけなんです。誰でもいいです、誰か教えて下さい」


僕は必死に叫び続けた。


「今日が何日かだって?そんなことは誰も気にしちゃいねぇんだよ」


僕を殴った男がそう言った後、再び僕に殴りかかった。


蹴られた。


長靴が鳩尾に食い込み、僕はその場に倒れ込んだ。


それでも…諦めるわけにはいかない。


この人達を救わなければ。


「誰か教えて下さい、今日は西暦何年ですか」


這いつくばり、胃液を吐きながらも僕は叫び続けた。


「西暦だと、貴様米兵の回し者か!」


米兵…それがキーワードだった。


袋叩き…勉強しかしてこなかった僕が、初めて経験する暴力による痛み…。


背中を丸め頭を抱え、草履虫の様に丸まって倒れ込む。


絶え間なく飛んで来る蹴りや拳に、それ以外の防御方法も僕は思い付かない。


令和に元号が変わり、仕事上の予定の勘違いを防ぐため、近頃は西暦で日時を確認することが習慣になっていた。


その習慣がこんな悲劇を生むと誰が考えよう…。


そもそも時代を遡る事など有るはずが無いのだから「西暦」と言う言葉を口にして、殴る蹴るの暴力を受けた者など世の中にいるはずがない。


「逃げて…みんな逃げてください…」


遠退く意識の中で、僕は呪文の様にその言葉を吐き続けた。




頬に痛みを感じた。


誰かが僕の頬を叩いている。


僕はゆっくりと目を開けた。


「ねえ、あんた生きてるの」


こんな時代に遊女が、いるのかどうかは分からないが、真っ赤な口紅を塗ったお姉さんが僕を現実の世界へと連れ戻した。


もしこれが、本当に現実の世界と呼んで良いなら…と言う注釈はつくが…。


意識を失うほどのリンチを受け、僕の頭はまだ揺れている。


ゆっくりと開けた僕の目に映ったのは、白み掛けた東の空だ。


夜が開けていた。


僕は飛び起きた…つもりだったが、背骨が軋んで思うように動けない。


時計を見た。


父から貰ったロレックスが無くなっていた。


スマホを探した。


ビジネスカバンも財布も…そしてスーツの両袖さえも、何もかもが無くなっていた。


時間を知りたかった。


僕に残された時間が、この町に住む罪も無き多くの一般人を救う時間がどれだけ残されているのかを、僕は知りたかった。


「今何時ですか」


真っ赤な唇のお姉さんに聞いた。


「知らないわよ…時間なんて」


真っ赤な唇が動いて、僕にそう答えた。


唇の横にある、少し大きなホクロがなんかいやらしいな…と揺れ動く頭の中で僕は思った。


何を考えてるんだ…僕は思い切り頭を振った。


吐き気がするほど景色が揺れた。


脳震盪を起こしている事は疑いがない。


「無理しちゃダメよ」


赤い唇のお姉さんが僕をたしなめる。


「時間がないんです…いつ夜が開けましたか」


「たった今よ」


たった今…今日が5月29日だとしたら、およそ日の出は4時半頃…残された時間は5時間もない。


寝てるわけにはいかなかった。


「逃げて下さい」


「えっ?」


「5時間後にアメリカ軍がこの町を焼き払うんです」


「何言っちゃってるの」


「本当なんです、僕は75年後の未来から来たんです」


お姉さんは「うふふ」と笑った後、あたしが遊んであげる…と意味深なことを言った。


「遊びじゃないんです」


僕は言い放ち、路端に座り込む一人一人に声を掛け始めた。


「もう少しで空襲が始まるんです、逃げて下さい出来るだけ遠くに!」


それなのに…誰も動こうとはしない。


誰一人、僕の話を信じてはくれなかった。


お姉さんは、長襦袢に紐を巻いただけの装いで僕の後を笑いながらついてくる。


「あんた必死ねぇ」


お姉さんはそう言って両切りのタバコに火をつけた。


「本当にヤバイんです、お姉さんも逃げて下さい。お願いします」


僕は大声でお姉さんに訴えた。


「そんな大きな声で言わなくても聞こえてるわよ。でもさ、誰もあんたの話なんか聞いてないじゃない」


お姉さんはそう言いながら、持っていたタバコの先で僕が辿ってきた道のりの後ろ側を指差した。


振り返った。


相変わらず路端には、座り込む人で溢れている。


拉致が開かない…こんなやり方では誰一人救う事なんて出来そうもなかった。


こんな時…スマホが有れば、SNSで一気に拡散できるのに…。


一瞬そんな事が頭に浮かんだが、この時代にインターネットなど有るはずもなく、僕は途方に暮れるしかなかった。


何か別の方法を考えなきゃ…。


「タバコ貰えますか」


五分だけ何かを考える…そんな時、タバコは効果的なアイテムだ。


「嫌よ、タバコは高級品なんだから」


そうか…そう言えば、戦時中はタバコやチョコレートやチューイングガムと言う令和の時代に溢れている物が貴重品だったはずだ。


気安く分けて貰えるわけが無かった。


スーツのポケットに手をやった。


追い剥ぎの様に何もかも盗られたと思っていたのに、タバコと使い捨てのライターだけは残っていた。


僕はタバコを取り出し、口に加えた。


「何よ、あんた自分の持ってるじゃない。しかも、それ洋モクじゃない?あんた本当にアメリカの回し者なの?」


言われて僕は自分のタバコを見た。


セブンスター…今まで意識もした事がないが、言われてみればアメリカの国旗に見えないこともない。


そうか…この手が有った…。


今吸ったばかりのタバコをもみ消し、落ちていた木箱を拾って道路の真ん中へ出た。


「ちょっとあんた、何もったいないことしてんのよ」


お姉さんは僕が捨てたタバコを拾い上げ、僕の後ろを付いてくる。


僕は木箱の上に立ち、大声で叫んだ。


「Attention. I am from america.」


一斉に周りの目が集まった。


「ちょっとあんた、何やってるのよ!殺されるわよ!」


金切り声を上げるお姉さん。


僕はお姉さんを手で制し、離れている様に促した。


「皆さん聞いて下さい、僕はアメリカ軍で働いていた日本人です。これが証拠です、よく見てください。アメリカの軍の中だけで売ってるタバコです」


僕はそう叫び、セブンスターの箱を高々と持ち上げた。


ざわめきが起き、僕の周りに多くの人が集まった。


「聞いてください、今日の午前9時にアメリカ軍がこの平沼に焼夷弾をばら撒き、壊滅させる計画があります。僕はその計画を知り皆さんに伝えたくてアメリカ軍を逃げ出してきました。どうか少しでも遠くに逃げて下さい。そして一人でも多くの人にこの事を伝えて下さい!」


一瞬のざわめきの後、僕の周りに集まった民集が四方八方へと駆け出した。


演説は成功だった。


僕は踏み台にしていた木箱を抱え、同じ事を何度も繰り返した。


そして僕は「声」を聞いた。


その声は耳に聞こえた訳ではない。


直接脳みそに語りかける様な、暗く沈んだしゃがれ声だった。


「良いのか?未来が変わるぞ…」


僕は次の演説に向かうための足取りを止め、その声の主を探した。


お姉さんを見た。


お姉さんはキョトンとした顔で僕を見ている。


お姉さんには聞こえていない様だ。


僕は再び走り出した。


そしてまた…。


「良いのか?本当にそれで良いのか?」と言う声を聞いた。


その声は天空の遥か向こうから聞こえてくる様だった。


僕は空を仰ぎ見た。


空が回りだし、僕はその場に尻餅をついた。


未来が変わる…確かにそうだ…横浜大空襲で死ぬはずの人が生き残れば、人の出会いも変わる、誕生する命だって変わってくる。


もしかすると…75年後の未来に僕がいない可能性だってあるのだ。


今日の午前9時22分から10時半までの間…四千人以上と言う失われるはずの尊い命。


その命を助けることによって変わってしまう未来…僕だけのことならそれでも良い…でも他の人はどうだ。


75年後の未来から、忽然と姿を消す人も少なくはないだろう…。


それもまた殺人なのだろうか…。


僕はその場から動く事が出来なくなった。


「ねえ、あんたの話が本当ならさ、あんたも逃げなきゃダメなんじゃないの?」


お姉さんは僕にそう言った。


「もちろん逃げますよ」


僕は答えた。


「だったらもう時間がないよ」


「時間?」


「そう、あの煙突から煙が出ると朝の8時なんだよ」


お姉さんが指差した先に、背の高い工場の煙突があった。


「いつから煙が出ました?」


「もうけっこう前よ」


逃げなきゃ…どれだけの人を救えたかは分からない…どれだけの人の未来を変えてしまったのかも分からない…でも、僕は火に焼かれて死ぬのはごめんだ。


「お姉さんも一緒に逃げましょう」


僕はそう言ってお姉さんの手を引き走り出した。


三春台に住んでいた人の横浜大空襲の経験譚を読んだ事があった。


三春台は平沼から少し離れた山の上だ。


その山を平沼とは逆に下った日の出町まで逃げれば、空襲を避ける事が出来るかも知れない。


下駄を履いたお姉さんがよろめきながらついてくる…そして…。


僕は大切な事を思い出した。


横浜大空襲で死んだ僕の大切な人…。


大爺ちゃんだ。


大爺ちゃんは横浜大空襲で死んだ。


その話を、大婆ちゃんはいつも泣きながら話した。


何度も何度も…会う度に、大婆ちゃんはその話を僕に聞かせた。


横浜大空襲が始まり、大婆ちゃんはまだ赤児だった僕の父を抱き、防空壕へ向かった。


大爺ちゃんはリュクサックに食料やおしめを詰め込み、少し遅れて防空壕を目指した。


大婆ちゃんは防空壕の入り口で大爺ちゃんを待っていた。


「あんた、ここだよ!」


大婆ちゃんは叫んだそうだ。


「おう、今行く!中に入れ!」


大爺ちゃんがそう叫んだ瞬間、P51戦闘機が放った自動小銃の弾が爺ちゃんの命を奪ったのだ。


「後1秒でも早く家を出てたなら…」


それが大婆ちゃんの口癖だった。


どうして今まで思い出さなかったのだろう。


どうして…。


助けなきゃ…大爺ちゃんを助けなきゃ…大爺ちゃんを助けることによって、僕の命が75年後の未来から消える事はかなりの確率であるかも知れない…。


それでも…僕を可愛がってくれた大婆ちゃんが泣かずに済むなら…僕は消えたって良い。


例え生き延びて75年後の未来に戻れたとしても、僕に待っているのは五月病と言う精神疾患と、或いは自殺へ向かう最悪のシナリオだ。


大爺ちゃんに知らせなきゃ…。


「ごめん、僕行かなきゃ」


僕は立ち止まり、お姉さんにそう告げた。


「行くってどこに行くのよ」


お姉さんも困惑している。


「大爺ちゃんを助けなきゃ」


「大爺ちゃんってあんたのお爺ちゃんなの」


僕は力強く頷き「ひい爺ちゃんだよ…ひい婆ちゃんの為なんだ」と言って走り出した。


「本当に良いんだな」と言う声がまた聞こえた。


僕は耳を塞ぎながら、残り少ない体力を振り絞り、実家のある岡野町を目指した。


平沼駅は線路を挟んで平沼町と岡野町に分かれる。


つまり、岡野町も横浜大空襲で焼失した町の一つだった。


僕は必死で線路を渡りきり、今ある実家と同じ場所を探した。


戦時中は、三軒隣の長屋に住んでいたと大婆ちゃんに聞いた事がある。


しかし、どこを見ても長屋だらけで、大爺ちゃんと大婆ちゃんが暮らした長屋を直ぐに見つける事が出来ない。


表札を見て回るがもどかしさばかりが先走り、僕は次から次と玄関を叩き続けた。


「渡辺弥一さんの家を知りませんか」


髪を茶髪に染め、袖のないスーツを着た僕を警戒しているのか、誰も教えてはくれない。


後ろから下駄の音が近づいてくる。


振り返った。


お姉さんがそこに立っていた。


「何やってるんですか、早く逃げて下さい」


僕はお姉さんを押し除け、直ぐに逃げる様に言った。


「最後まであたしが遊んであげるわよ」


お姉さんはのんびりとした口調で言った。


僕は深いため息を吐いた。


「遊んでる訳じゃないんです」


「分かってるわよ」


お姉さんはそう言って目の前の引き戸を叩いた。


「誰かいるぅ」


今まで誰も出てこなかったと言うのに、お姉さんが呼ぶと直ぐに人が現れた。


「渡辺弥一さんの家分かる?」


お姉さんが聞くと、その家の人は黙って一軒の家を指差した。


僕はお礼も言わず、指差された家の玄関を叩いた。


誰も出てこなかった。


家の中で赤ちゃんが泣いていた。


ガラスの引き戸を横に引いた。


鍵が掛かっていた。


ガラスを割った。


割れたガラスの隙間から手を入れ鍵を開けた。


仏壇の前で赤ちゃんが泣いていた。


仏壇には若い女性の遺影が有った。


まだ新しい写真…線香が一本、煙を上げていた。


母に似ている気がした。


玄関を荒々しく開ける音が聞こえた。


大男が部屋に雪崩れ込み僕を羽交い締めにした。


「この盗人がぁ」


僕は身動きが出来ない。


「違うんです、僕は未来から来た貴方のひ孫なんです」


僕は夢中で抵抗しながら、それだけの事を言った。


「何をたわけた事をぬかしやがって」


殴られた。


痛いとは思えなかった。


「本当だよ、その子はあんたのひ孫さ。あんたを未来から助けに来たのさ。今日、アメリカ軍がこの町を焼き払うとさ」


お姉さんが口を添えた。


気狂きぐるいどもが!」


大爺ちゃんはそう言って怒りの矛先をお姉さんに向けた。


町にサイレンが鳴り響いた。


「来たよ」


お姉さんはそう言った。


アメリカ軍が押し寄せてきた。


大爺ちゃんの顔色が変わった。


「ガキを頼む」


「お安い御用さ」


大爺ちゃんの言葉にお姉さんが応えた。


大爺ちゃんは食料や衣類、仏壇の位牌などをずた袋に詰めていた。


大爺ちゃんは、まだ何かを探している。


「そんな暇は有りません、今すぐ逃げてください」


僕は大爺ちゃんの袖を引き、玄関を飛び出した。


「分かったからお前も早く防空壕へ逃げろ」


家を飛び出した瞬間、長屋の上に焼夷弾が落ち炎を上げた。


路端では多くの人が倒れていた。


爆発音がした。


僕の目の前に胴体のない頭だけが転がって来た。


頬まで垂れ下がった目玉が僕の恐怖心を煽った。


地獄絵図がそこに有った。


一刻も早く逃げなければ…と全力で走っていた僕の足が止まった。


「お前、本当にそれで良いのか?」


目玉をぶら下げたその頭が僕に語り掛けた。


僕は動けなくなった。


「走れ!止まるな!」


大爺ちゃんが僕の背中を押した。


僕は大爺ちゃんから荷物を取り上げ、大爺ちゃんの手を取って走り出した。


「大爺ちゃんも早く!1秒で良いから早く走って!」


「分かった!一成お前も頑張れ!」


大爺ちゃんが僕の名前を呼んだ。


えっ、なぜ大爺ちゃんは僕の名前を知ってるんだろう。


僕は再び立ち止まった。


「止まるな!早く来い!」


今度は大爺ちゃんが僕から荷物を取り上げ、僕の手を引いて走り出した。


「あんたここだよ!」


お姉さんが防空壕の前で僕と大爺ちゃんを呼んだ。


その瞬間…自動小銃の連発する発射音がして、大爺ちゃんが膝から崩れた。


そして…風を切る焼夷弾の音が頭上から聞こえ、僕の目の前に落ちた。


スローモーションを見ている様に、僕はその光景を完全に記憶にとどめていた。


焼夷弾は目の前で破裂し、大量の光を放った。


その光は僕の視界から全ての景色を奪った。


僕の体が空を飛んでいた。


「そうか…僕はここで死ぬんだ」


諦め…と言う感情が僕を包み込んだ。


怖いとは思わなかった。


ただ…大爺ちゃんを助けられなかった後悔だけが僕を支配していた。




「ピーッ…ピーッ…」と言う電子音が耳に届いた。


僕はゆっくりと目を開けた。


真っ白い壁と天井…。


「ここはどこですか」


僕は誰にともなく問い掛けた。


「あら、目が覚めたのね。病院よ」


僕の顔を覗き込んだ看護師が言った。


綺麗な人だった。


こんな状況の時に、なぜ僕は綺麗な女の人のお世話になるのだろう…。


「今日は西暦何年ですか」


「たった二日しか寝てなかったのよ…2020年に決まってるじゃない」


看護師の綺麗なお姉さんが「うふふ」と笑った。


「それより、何が有ったか知らないけど、もう自殺なんて考えちゃダメよ。駅員さんが気が付いて直ぐに火を消してくれたから良いけど、顔に火傷なんかしたら台無しよ…その可愛い顔」


「えっ、僕自殺なんか…」


「分かってるって、今度辛い事があったらお姉さんが遊んであげるね」


そう言って看護師のお姉さんは病室を出て行った。


直ぐに部屋のドアをノックする音がした。


「はい」


僕は返事をした。


「目が覚めたかい」


病室に入って来たのは大婆ちゃんだ。


「大婆ちゃん…」


もう90をとおに過ぎてると言うのに、大婆ちゃんは今日も赤い口紅を塗っている。


「全部見て来たんだね」


大婆はそう言った。


そうか…大婆ちゃんはあの日の事を知っているのか…。


「僕…もしかすると、多くの人の未来を変えてしまったかも知れない」


僕がそう言うと、大婆ちゃんはうっすらと笑い「お前のおかげであの日の死者が4000人で済んだのさ」と言った。


そうだったんだ…元々僕は、あの日あの時平沼駅にたどり着いていたんだ…。


「人の人生なんか、そう簡単に変えられるものでは無いのさ」


そう言って笑った大婆ちゃんの赤い口元に、少し大きめのホクロが有った。




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