第13話 佐藤理奈(その一)※別視点

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 佐藤理奈は談話室のソファに座り、壁掛け時計を眺めていた。

 生首が不定期に時刻をお知らせする、通称、生首時計である。

 あと数分で就寝時刻ということもあり、談話室にいるのは自分だけ。

 アンティーク調を織りなす二十畳ほどのフロア。

 そこにはランプの明かりがほのかに灯り、秒の針が静かに時を刻んでいる。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 理奈は秒針を目で追いながら、就寝時刻が訪れるのをじっと待つ。


「夜の十時五十九分だよー、夜の十時五十九分だよー、夜の十時五十九分だよー」


 そこへ文字盤が左右にパカっとひらき、生首が不定期の時刻を告げた。

 銀髪のツインテールで目のクリっとした、あどけない少女の生首だ。

 これが本物のはずがないので、機械仕掛けの人形なのだろう。

 とにかく、あと一分で就寝時刻が訪れる。

 それまでに太一は生徒寮へ戻るのかどうか、そのことを理奈は確かめている。

 もし彼が戻らないのであれば、今日で一週間が経つ。

 地下でケンカ別れしてからというもの、それっきり。

 あれから太一の姿を目にしたものは誰もいない。

 そのことは学園でも大騒ぎとなっていて、生徒の間ではいろいろな噂が飛び交っていた。


 青島太一は逃亡して家に帰ったのではないか。

 青島太一はどこかで首を吊って死んでいるのではないか。

 青島太一は女装して普通に授業を受けているのではないか。


 そのような憶測が交錯し、挙げ句の果てには金を賭ける生徒も少なくはなかった。

 しかし、真相を知り得ているのは、理奈とレイカの二人だけである。


『俺はもう二度と地上へ戻るつもりはない! この地下で自由気ままにスローライフな人生を送るんだ! そうすればおまえらの顔を見なくて済むからな! あばよ!』


 あのとき、彼はそう啖呵を切った。

 本人がそうすると言ったのだから、地下に身を潜めているのは間違いがない。

 もちろん、理奈はレイカとともに、真相については口を固く閉ざしている。

 それを口外してしまうと、学園規則を破ったことが発覚してしまうからだ。

 とはいえ、理奈は太一のことを心配しているわけではなかった。

 のっぴきならない事情があるからこそ、こうして彼の帰りを見極めている。

 そしてあのバカは、一週間経っても戻ってはこなかった。

 今なら行動を起こしても大丈夫だ。


「時は満ちたわ」


 十一時ジャスト。

 積年の恨みを晴らすような思いで、理奈はすっとソファを立ち上がる。

 すでに自分の生首は胴体に装着済みだ。

 両手を自由に動かせる万全の状態で、粛々と目的を遂行しなければならない。

 談話室から続く階段を上がり、太一の部屋、『205号室』をコンコンとノックする。

 あたりまえだが返事はない。

 それでも理奈は慎重にドアをひらき、空き巣犯のように室内へ身を滑らせた。


「アレがあるとしたら……机よね」


 一番怪しい勉強机に狙いを定める。

 窓から差し込む月明かりだけを頼りに、引き出しの中を物色していく。

 するとお目当ての品が見つかった。

 スマートフォンである。

 この部屋に忍び込んだ理由。

 それは中庭でのおしっこ動画を削除し、証拠を抹消するためにほかならない。

 だがもし太一に見つかれば、また弱みを握られてしまうことになる。

 だからこそ理奈は、彼が確実に戻らない日をうかがっていたのだ。


「ウフフフ……。これであたしは自由になれるんだわ……」


 理奈は不敵な笑みを浮かべてスマホの電源をポチリとON。

 そしてデータフォルダをひらき、自分の放尿シーンを探した。

 しかし――。


「おかしいな……なんでないんだろ……」


 データが見つからない。

 保存された動画はあるのだが、どれもカブトシが交尾をしているものばかりだ。

 写真に関してもカブトムシのそれが大半を占めており、おしっこ画像は見当たらない。

 となれば答えはひとつ――。


「動画は太一が削除したんだわ……」


 スマホを持つ理奈の両手がプルプルと震えた。

 あまりの衝撃で、生首がポロリと転げ落ちそうになる。


「太一……太一……太一……」


 理奈は嗚咽を漏らすように彼の名前を繰り返した。

 この気持ちをひと言では語れない。

 嬉しい気持ち、救われた気持ち、感謝の気持ち、太一を信じなかった自分の情けなさ。

 そんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、間欠泉のように心の中から噴き出してくる。

 どうしてあのとき、太一をオナラの犯人と決めつけてしまったのか。

 犯人であろうがなかろうが、もっと優しい言葉をかけるべきだった。

 そうすれば、彼が地下で孤独なスローライフを送ることもなかったのだ。


「太一ッ!」


 理奈は叫んだ。

 そしてジャージの袖で涙をぬぐうと、一目散に部屋を飛び出した。

 迎えにいかなければならない。

 太一を迎えにいかなければならないのだ。

 生徒寮を抜け出し、深夜の学園内をひた走り、理奈は彼の名前を叫び続けた。





 翌日の早朝。

 理奈は生徒食堂の前で倒れていた。

 干からびた即身仏のような姿となり、息も絶え絶えに死にかけている。

 なぜライフゲージが残り1にまで削られたかというと、地下で夜通し迷子になってしまったからだ。

 奇跡的に生還を果たしたものの、極度の疲労と脱水症状からこうして干からびた。

 そして生徒食堂に水を求め、この場で行き倒れとなったのである。

 そんなわけで、太一を探すどころではなかった。


「み、水を……」


 理奈はうつ伏せのまま、骨と皮だけになった手をわずかに伸ばした。

 あと数メートル先に食堂の観音扉が見える。

 その向こうには、己の命をつなぐ水がある。

 だが体がこれ以上動かない。

 最後の力を振り絞っても、たったの数センチ、手を伸ばすのがやっとなのだ。

 いつもは簡単にチリンとひらく扉が、果てしなく遠く、そして分厚い岩盤にも思えた。

 そこへ――。


「こんなところに即身仏が倒れてるだっぺ」


 食堂の菊代おばさんがやってきた。

 朝食の準備に出向いたものと思われる。

 そんな彼女は自身の生首を手にぶら下げており、その生首で理奈の顔を覗き込んだ。


「もしかして、理奈ちゃんだべか?」

「み、水を……水を……」

「水がどうしたんだっぺ? その干からびた体にぶっかけてほしいだべか?」


 体にぶっかけるバカがどこにいる。

 そうツッコミたいところだが、理奈には最小限の言葉しか口にできなかった。

 水を、水を、という、ただそれだけの渇望を、消え入るような声で繰り返す。

 すると――。


「待ってるだ! 今すぐ水さ持ってくるだっぺ!」


 菊代おばさんも緊急事態と察してくれた。

 生首を胴体にカチャンと装着し、消火活動の勢いで食堂の中へすっ飛んでいく。


 助かった――。

 これでやっと水が飲める――。

 キンキンに冷えてなくてもいい――。

 犯罪的なうまさじゃなくてもいい――。

 今はただ、コップ一杯の水を、カラカラに乾いた喉へ流し込みたい――。

 だからおばさん、早く水を持ってきて――。


 そんな理奈の願いが通じたのか、ようやく菊代おばさんが戻ってきた。

 するとおばさんは勇ましく豪快に、


「乾物を戻すときは米のとぎ汁に限るだっぺよ!」


 バケツ満タンにした米のとぎ汁を、理奈の体にドバっとぶっかけた。

 米のとぎ汁に罪はない。

 灰汁あくを抜いたり、身を柔らかくしたり、洗顔では美容効果もある優れものだ。

 だがこの場における米のとぎ汁は、最強にして最悪のとどめの一撃。

 砂漠で死にかけた旅人に、熱した油をぶっかけるようなものである。


「み、水を……水を……カハッ!」


 オアシスにあと一歩届かず。

 理奈のライフゲージは完全にこと切れ、灰汁と一緒に己の魂も抜け落ちた。




 その後、理奈はしぶとく息を吹き返した。

 水分をじゅうぶん補給し、朝飯もたらふく食べたので、もう即身仏の面影はない。

 どうして乾物となり倒れていたのか、そう菊代おばさんに問われたが、謎のウイルスのせいだとごまかしておいた。

 食堂のおばさんとはいえ、西棟の覇者である。

 昨晩、生徒寮を抜け出したことを白状すれば、彼女の逆鱗にふれることだろう。

 それはさておき。

 今日は授業のない日曜日だし、朝から太一の行方を探すことができる。

 機動性も考慮して、このまま生首をつないでおくことにした。

 なんにせよ、まずはお風呂へ入りたい。

 体にぶっかけられた米のとぎ汁を洗い流し、心身ともにシャキっとしたいところ。

 着替えなどの用意もあるので、理奈は一度自室へと引き返した。

 ところが――。


「あれ……? おかしいな……」


 クローゼットの中にある、下着専用の収納ケース。

 そこから下着がワンセット無くなっていた。

 一番のお気に入り、濃紺でエレガントなパンツとブラジャーだ。

 もしかしたら、洗濯のときに紛失したのかもわからない。

 下着はおいおい探すとして、ひとまず理奈は風呂場へ向かうことにした。

 そして女湯のノレンをくぐり脱衣所へ入ると――。


「理奈さん……悪いけど、お風呂は使えないのよ……」


 寮長の藻江に入浴を止められた。

 生首を装着する彼女は、ジャージの袖と裾をまくり上げ、デッキブラシを持っている。

 どうやら風呂場の掃除中であるらしい。


「掃除中ならしかたありませんね。ならあたし、男湯のほうを使わせてもらいます。太一もいないことだし、いいですよね?」

「それが……男湯も使えないのよ……」

「どうしてですか?」

「あれを見て……」


 藻江は風呂場の方へデッキブラシの先端を向けた。

 彼女に言われたとおり、理奈もそちらを覗き込む。

 すると――。

 風呂場全体がモコモコの泡だらけとなっていて、まるで雲の王国のようになっていた。

 湯船や洗い場が見えないどころか、へたをすれば窒息しかねない大量の泡である。


「藻江先輩……これ、どうしたんですか……?」

「誰かが間違って、湯船にシャンプーをこぼしたんじゃないかしら……」

「間違ったとか、そういうレベルじゃないと思うんですけど……」

「でも、こんなイタズラをする人はいないだろうし……」

「まあ、それはそうですけど……」


 そう納得したものの、理奈には太一の顔が真っ先に思い浮かんだ。

 しかし、彼は地下で暮らしているし、イタズラを働くことなどありえない。

 ということは、誰かが間違えてシャンプーをこぼしたのだ。

 十本ぐらいドバっと。


「そういうわけで、男湯も同じく泡だらけになっているの……。湯船は壁の下で通じているから、被害が拡大したみたい……」

「なら藻江先輩、あたしも掃除手伝います。一人じゃ大変だろうし」

「いいのよ、気にしないで……。寮長のわたし一人の責任にすれば、問題を最小限に抑えることができるもの……。だから理奈さん、お風呂に入りたいのであれば、東棟のほうを使ってもらえるかしら……」

「東棟ですか……」


 理奈は渋柿でも食べたような顔で二の足を踏んだ。

 東棟といえば純血の聖地。

 人間とのハーフである自分が、ほいほいと気軽に立ち入れる場所ではない。

 ある意味、阪神の本拠地、甲子園球場の一塁側応援席で、一人だけ巨人のユニフォームを着ているようなものだ。

 そんなバカはおそらく殺される。

 でも、お風呂だけはどうしても入りたい。

 そんなもどかしさに理奈が悶々としていたところ――。


「オーホホホ! 洗濯の時間でしてよ! オーホホホ!」


 レイカが洗濯をするため、意気揚々と脱衣所へやってきた。

 生首を装着したスタイルで、洗濯物が詰まったバスケットを両手に持っている。

 シーツ類、下着類、それらが山と重なるバスケットだ。

 彼女はそのほかにも、大きなカゴを背負い込んでいた。

 その中には巨大なフランスパン――のようなものが十本ほど立てかけられている。

 パンを洗濯するバカはいないので、それに似たなにかを洗うつもりでいるらしい。

 ちなみに脱衣所は共用の洗濯スペースだ。

 家庭用の洗濯機が数台設置されている。


「あら、理奈さん。今からお風呂に入るのでして?」

「入りたいけど入れないのよ。お風呂場が大変なことになってるの」


 理奈はため息をついてそちらに指を差す。

 すでに藻江は脱衣所をあとにし、吐血しながら風呂場の掃除に勤しんでいる。


「なんですのあれ。モコモコの泡だらけになっておりますわよ」

「誰かがシャンプーをこぼしたのよ。それで藻江先輩が責任を取って掃除してるの」

「そうでしたの。そんなことより、わたくしは洗濯をしないと」


 泡事件は無関心であるらしい。

 レイカはそしらぬ顔でバスケットの中身を洗濯機へ放り込んだ。

 そして背負ったカゴをおろし、フランスパンのような物もそこへ投げ入れていく。

 理奈は先ほどからそれが気になった。

 長さは一メートル半ほど、小麦色というより金色に輝く謎の物体だ。

 このままでは夜も眠れないし、理奈はすべからくそれを訊いてみることにした。


「レイカさん、その長くて金色の不気味なものってなに?」

「ウィッグですわ」

「ウィッグって……つけ毛のウィッグのこと……?」

「もちろんですわ。わたくしが頭につけているのが、このウィッグでしてよ」


 なんと、レイカの金髪縦ロールは偽物だったのだ。

 足元近くまで伸びる二本の髪は、着脱式となっていた。

 しかもそのストックが十本ぐらいある。

 理奈はあまりの衝撃でクラクラと目眩を覚えた。

 そんなところに――。


「おかしいですわね」


 レイカが首をかしげて洗濯槽を覗き込んだ。

 というか、洗濯槽からウィッグが飛び出し、野菜スティックのように広がっている。

 なにがおかしいのか知らないが、彼女をひっくるめて全部がおかしい。

 ともあれ理奈はよろけながらも問う。


「レ、レイカさん……どうかしたの……?」

「ウィッグが二つ足りないのでしてよ」

「部屋に忘れてきたんじゃない……?」

「こんな異彩を放つトマホークミサイルみたいなものを、忘れてくるはずがありませんわ」


 彼女自身、尋常ではないウィッグと認識しているらしい。

 そんなものをどうして頭からぶら下げようと思ったのか。

 一般人にはとうてい理解の及ばないファッションセンスだ。

 するとレイカは、「また買えばいいですわ」と、紛失したウィッグに見切りをつけた。

 そして強引に洗濯機の蓋を閉めると、洗濯開始ボタンをポチリとON。

 そこで彼女はこちらの方へくるりと振り向き、おもむろに不快な表情を浮かべた。


「それより理奈さん。あなた、なにかくさいですわよ。しいて言うなら、くたびれたおっさんの加齢臭のようなにおいがしますわ」

「いろいろ事情があって、米のとぎ汁を全身にかぶったのよ……」

「じゃあ、今すぐお風呂に入るべきですわ」

「だから、入りたくでも入れないの……。誰かがシャンプーをこぼしたせいで……」

「なら、東棟のお風呂を使えばいいことでしてよ」

「それができないから困ってるんでしょ……。だって……東棟は純血の聖地だし……」


 理奈は声のトーンがどんどん弱まり、しまいには泣きたい気分になってきた。

 東棟へ行く勇気がないから落ち込んだのではない。

 くたびれたおっさんの加齢臭という言葉が、グサリと胸に突き刺さったのだ。

 佐藤理奈、花も恥じらう十五歳。

 四年前はまだ小学六年生だった。


「うだうだ言ってないで、さっさと行きますわよ」

「ちょ、ちょっと、レイカさん!」


 レイカは有無も言わさず、理奈のジャージの襟をグイっと引っ張った。

 そんな彼女にズルズル引きずられ、理奈は強制的に東棟へと運ばれた。

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