第31話 救世主の在り方
アミューネ村の内と外を隔てる境界として、簡素な木製の柵が村全体を囲んでいた。メーネは柵の一つに身体を預け、親の迎えを待ち続ける子どものような不安気な表情で枯葉に埋もれた村道に視線を落としていた。
「早いな」
寂しげな背中に声を掛けたのは玲士朗だった。一度ビクリと小さく肩を震わせたメーネは恐る恐る振り向いた。その眼差しは何かに怯えているような痛々しさで、玲士朗は少し当惑した。
「……レイジロー、来てくれたんですね」
哀し気な微笑だった。玲士朗は肩を竦めて笑顔を見せた。
「言い出しっぺが来なくちゃ、ダメだろ。他のみんなももうすぐ来るよ」
玲士朗はメーネの近くまで寄って、同じように柵にもたれかかる。簡素な作りの所為か、柵はキイキイと軋む物悲しい音を上げた。乾いた風が通り過ぎて、枯葉がカサカサと儚い音を立てて流れていく。荒涼として、寂寞として、あまりの心細さに二人は身体を縮こまらせた。
「今朝はみっともない姿を見せて悪かった」
「いえ、そのようなことは」
「その後の話は詩音から聞いたよ。テルマテルの人達は、死んだ人のことを忘れちゃうんだってな」
「……はい。アルテミシアの祈りの結実たる
蛇神バラルは自らに対する人類の信仰――恐怖を媒介に現界する。バラルへの恐怖とはつまり、自分や大切な人の死に他ならない。かつて死んでいった人達と同じように、自分達もまた死んでいく宿命にあるという自覚は、人にとって死ぬことそのものよりも怖ろしいものなのだ。故に死の概念を忘れて、いなくなった人々を忘れて、人にとって最大の恐怖を封印した。それが初代救世主・聖祖アルテミシアの遺した人類救済法だった。
「代償は大きかったと思います。けれど、テルマテルの人々は死ぬことへの憂いを持たず、恐怖を抱かず、それ故にバラルを呼び起こすことなく、こうして人の世を営み続けている。
まるで教科書の記述を読み上げるような淡白な口調だった。心の底から信じることのできない言説を口にする遣る瀬無さに、メーネの美しい瞳は人形のような虚ろさを湛えていく。フッと人形らしからぬ自嘲の笑みを見せた。
「でも今は、よく分からなくなってしまった。必要性の前に是非の問答など無意味なのかもしれませんが、かつての私は、人々の命を護るために、彼らが生きる上で最も大切なものを奪ってしまったのかもしれない。レイジロー達と出逢って、そう感じたんです」
「俺達?」
「死を恐れ、死者を悼み、思い出に囚われ、泣いて苦しみ、それでも貴方達は生きることに絶望しない。それは、この残酷で理不尽な世界に立ち向かう心の強さなのかもしれない。意志を形にする具現鋳造という力を持った剣臣たる所以も、そこにあるのかと」
玲士朗は静かに頭を振った。
「大袈裟だよ。強くなんかない。忘れられないから必死に耐えているだけだし、死ぬ勇気もないから痛みを抱えて生き続けているだけだよ」
「辛い、ですか?」
「そう感じることもある。でも……これは鷹介の受け売りなんだけど、感情なんて長続きしない。くだらない理由で区切りがきて、また何かの拍子に思い出して……その繰り返しだよ」
寛解はあっても完治はない。苦楽は常にせめぎ合って、人生の最期にどちらが優勢かを競うようなものだ。木からリンゴが落ちるのと同じくらい当たり前すぎて、絶望すら感じない。
「メーネも、辛いんだ?」
「私はかつての私に慄然としているだけです。どのような思いで
それが怖いんです、とメーネは消え入るような声で呟いた。
幾度も転生を重ねているとはいえ、彼女に受け継がれている記憶はそれほど多くないし、当時の実感は伴っていないという。心の葛藤を伴わない、言うなれば血の通わない事実の積み重ねは無味乾燥の結果しか明示しない。救済のために、人々から故人の記憶を奪い続ける結界を生み出したという、冷たい現実。
果たしてそれが正しいことなのか、他に別の方法がなかったのか。何一つ分からないからこそ、メーネの思考は悪い方に悪い方にと流れ続けていく。
「こんな私を信じてほしいだなんて……」
意気消沈するメーネを一瞥し、玲士朗はうっすらと見える
「なぁ、死者も死後の世界も、生きている人のために在るんじゃないかって思わないか?」
「生きている人の、ため……?」
「ああ。だって、死んだ人も死後の世界も、生きている人にしかないだろ? 自分は勿論、大切な誰かが死ぬのは怖い。死んでしまった人達への愛慕も未練も後ろめたさもあるかもしれない。でもそれは、言ってしまえば、自分がまだ生きているんだってことを再認識するために、自分自身が抱えるものなんだと思う。
生きている人のために、明日を迎えるために誰かの死を忘れることが必要なら、それは寂しいことかもしれないけど、間違いではないんじゃないか?」
思いがけない言葉に、メーネは狼狽した。
「では、このまま誰もが死を忘れ続けることが最善だと、幸福だとレイジローは思いますか?」
玲士朗はメーネの悲痛な表情から、彼女の抱えている苦悩と葛藤の一端を垣間見た気がした。
「……そうか、メーネは前にも同じこと、俺に訊いたよな。死んだ姉さんのことを、忘れたいかって」
心を落ち着かせるように、玲士朗は大きく息を吐く。
「忘れたい。でも、忘れたくもない」
玲士朗の言葉に、メーネの表情は困惑の色を深めた。
「ふざけているわけじゃないんだ。俺にも自分が何を望んでいるのか分からないんだよ。メーネと同じで、自分のことなんて、自分が一番良く分かっていないんだ。でも――」
玲士朗の言葉は途切れた。二人の名を呼ぶ声とともに手を振りながら駆け寄ってきたのは柚希だった。その後ろから鷹介、詩音、涼風、颯磨、悟志、美兎、梢が続く。さらに、彼らの背後からはロザリーとシエラ、エーリッヒとテオ、レニやコニー、クシェルまでもが霊廟へ向かう玲士朗達を見送りに出向いていた。
「遅れてごめんねメーネ。私も一緒に行くよ」
「でもユズキ、貴方は……」
「大丈夫だよ。この通り元気いっぱいだから」
屈託ない笑顔を見せる柚希に、メーネは複雑な胸中を表情に呈した。その気持ちを斟酌した詩音は、誇張した陽気さでメーネにいった。
「メーネ、心配しないで。ゆずきちも他の連中も、私が責任をもって引率するわ。村に帰るまでが遠足よ」
詩音の軽口に鷹介も便乗した。
「遠足というとお約束だが……梢、はぐれんなよ。迷子になっても探さんぞ」
「分かってるわよ、イチイチうるさいわね」
「け、喧嘩しないで二人とも」
鷹介と梢の一悶着を美兎が仲裁していた。その様子を見て表情を緩める玲士朗のもとに、神妙な面持ちの涼風がゆっくりと近づいた。
「玲士朗、今朝はごめんね」
「気にすんな。お互い様だ」
「そうそう。玲ちゃんもそこそこダサいところ見せたらしいし、おあいこだよ」
「……颯磨、調子取り戻してきたね」
苦笑する悟志の背後から、シエラとロザリーが打ち揃って前に出た。
「皆さんに姉さまから伝言です」
「『今日は衣装のお披露目会だから、早く戻ってくるように』って」
「ガキのお遣いかよ」
鷹介のぼやきに、詩音は笑いを堪え切れない。
「でも、その緊張感の無さがアニーさんらしいわよね」
「素っ気ないかもしれませんが、姉さま、結構皆さんのことを気に入ってるんですよ? 私も、皆さんの無事のご帰還をお祈りさせていただきます」
「居残り組の世話は任せて。ちゃんと完治させておくから」
今度はエーリッヒとコニーが玲士朗達の前まで進み出た。
「父の名代を名乗るのはおこがましいですが……私達も、皆さんの無事のお帰りをお待ちしています」
「フィリネのこと、よろしく頼むよ。ほらクシェル、アンタも言いたいこと、あるんだろう?」
コニーに促されて、クシェルはおずおずと玲士朗の前に出た。無言のまま、俯き続けるクシェルを、玲士朗は居た堪れない気持ちで見つめる。
「――お願い、します」
絞り出すかのような、震えた声だった。母を助けることが出来ない自分の無力さに怒りを感じ、見ず知らずの異邦人に願いを託さなければならない悔しさが滲み出ていた。
「母さんを……助けてください。お願いします」
深々と頭を下げ、彼の感情は飽和した。最愛の母のために大粒の涙を流し続ける年相応の子どもがそこにいた。
小さな身体を不安に震わせるクシェルに、生別した甥の面影が重なり、玲士朗は一瞬の胸の痛みを覚えた。その痛みを受け止めて、地面に膝をつきながらクシェルの肩に優しく触れた。
「助けるよ。絶対に、助けてみせる」
玲士朗、メーネ、詩音、柚希、梢、鷹介の六人は、見送りを受けながら、一路スピッツベルゲン霊廟を目指してアミューネ村から離れていく。申し訳程度にしか整備されていない道を辿りながら、一行は奥深き森林へと足を踏み入れる。
「そういえば、話が途中だったな」
メーネはそれを待ち侘びていたかのようだった。真摯な眼差しで玲士朗を見返した。
「俺達は、自分で自分をよく分かっていない。鏡に自分の外見が映るのと同じように、内面の在り方を教えてくれるのは他人――家族や友人なんだと思う。俺は俺らしさっていうのを、アイツらから教えてもらったよ」
「レイジローらしさ……」
「俺は姉さんの死を忘れたいと思った。でも、それは俺らしくないって、柚希達に言われて、『嗚呼、そうかもしれないな』って思ったんだ。
何が正しいのか、最善なのか、俺にも分からない。それでも、決めるのは今生きている俺達とこの世界の人達なんだ。俺もメーネも独りじゃない。だから、悩むならみんなで悩もう。その先にある答えが、きっと正しくて……最善なんだ」
メーネは、眩しいものを見るかのように、玲士朗の穏やかな笑顔に眼を眇めた。
人とは、なんと脆弱な生き物なのか。自分自身すらあやふやにしか認識できず、その生きる目的も、望みも、誰かがいなくては抱くことも感じることもできないなんて。
しかし――だからこそ、人には人を思いやる優しさがある。温かさがある。尊さがある。メーネは玲士朗達の生き方からそれを学びつつあった。
過去は変えられないし、正しいかどうかはその時代に生きた人々が決めることである。聖祖アルテミシアが始め、歴代の救世主が繋いだ『死の忘却』という人類救済が、今を生きる人々にとって望む世界の在り様なのか、対話と交流を通して今一度問い直すことこそ、バラル討伐と表裏をなす救世主の責務ではないのか。
「――嗚呼、私はまだ何も知らない。でも、だからこそ、あらゆる人達から教えてもらうんですね」
他者が自己の内面を映す鏡であるならば、救世主とは人々の総意によって形作られる世界の在り様を示す鏡であるべきだ。ならば、メーネが為すことは過去の自分への猜疑でも後悔でも自責でもない。未来に向かって、今を生きる人々の望みを、意志を、心を知って、その在り方を示すことなのだから。
「ありがとう、レイジロー。少し、分かってきた気がします」
もはやメーネの表情に憂いはなく、彼女らしい穏やかで清廉な微笑が湛えられていた。
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