第32話 惑いの森

 玲士朗達はアミューネ村を出立し、湖を大きく迂回してスピッツベルゲン霊廟を目指した。慣れない土地、加えて野党や猛獣も出現する危険な林道と獣道を踏破してきた彼らだったが、なお疲労は見受けられなかった。それはフィリネを助ける使命感に突き動かされている所為もあったが、何より剣臣として手に入れた強靭な肉体と冠絶した身体能力の為せる業でもあった。


 木製の道標が趣を感じさせる三叉路に辿り着くと、メーネが全員の疲労具合を確かめるように振り返る。


「左に進めば、直にスピッツベルゲン山と霊廟が見えてきます。ここで少し休憩しましょう」


 玲士朗達は手近な大木の根元に腰を下ろし、一息ついた。肉体的にはそうでもないものの、森の中を歩き続けて気を張り詰めていた分、精神的には休息を欲していたのだ。


 サバイバル術に通じた悟志お手製の蒸留水を分け合いながら、好奇心も露に目を輝かせた柚希が尋ねた。


「右の道はどこに続いてるの?」


「『ルクサディア』という大きな街があります。この地域の交易の中心地ですね。霊廟の近くにあって巡礼者達の宿場街としても栄えているので、『拠点都市』とも呼ばれています」


 記憶を辿るように、鷹介は何度かルクサディア、と小さく呟いた。


「確か、騎士団のオッサンがルクサディア云々って言ってたな」


「はい。ある程度人口の多い街にはセレン信仰会の地方拠点である『会堂かいどう』が設置されていて、会堂と信徒を守護する信僕騎士団が駐留しています。彼らはその会堂所属の騎士でしょう」


 詩音は神妙な面持ちで呟いた。


「亡くなったクルトって騎士は、霊廟に向かう巡礼者達を護っていたのよね。命の危険を冒してでも行く霊廟って、やっぱりすごい御利益があったりするってこと?」


「それこそ、全部回れば誰もが剣臣と同じくらいの力を手に入れる、とかね」


 大して期待もしていないような梢の口振りに、メーネは力なく微笑を見せた。


「剣臣の力は先天的なものです。稀に具現鋳造の力を持って生まれたテルマテル人もいますが、ごく少数です。その多くはセレン信仰会に才能を見出され、最高位の騎士――『守護聖騎士しゅごせいきし』として、人類守護の使命と責務にその身を捧げています」


 メーネは視線を地面に落とし、述懐する。


「マリスティアもバラルも、人の心の闇が生み出すもの。皆、心を強く持ちたいと願うから、危険と隣り合わせであっても、歴代の救世主の加護を得るために巡礼を続けているのでしょう。

 スピッツベルゲン霊廟は二百年程前に建立された最も新しい霊廟で、当時はルクサディアも今ほどの賑わいはなかった。しかし、巡礼者が多くなるに伴い、流通が活発になり、商業が発達し、人口が増えたことで巡礼者を護衛するための信僕騎士も数多く配置され、霊廟巡礼はさらに盛んになりました。人々の活気は、マリスティアやバラルに対抗する“生きる力”にもなり得る。霊廟への巡礼はそういった意味でも人類社会に大いに寄与していると私は思います」


「ま、生きる上で希望は必要だからな――ちょっと用を足してくる」


 億劫そうに立ち上がり、茂みの中に消えていく鷹介の後ろ姿を見送りながら、柚希がポツリと呟く。


「私達が具現鋳造の力をもっと上手に使えれば、もっとたくさんの人を助けられるのかな」


「それは思い上がりじゃない? 一人ひとりの力は高が知れてるわ。そもそも、私達はその力のことすらよく理解していないもの。メーネは剣臣の力を説明できたりするの?」


 梢の問いに、メーネはしばらく考え込んだ。うまく説明できるか自信はありませんが、と前置きしてから語り始める。

  

「人類は世界を言語で区切り、名辞された要素が存在を得て、言語世界の範囲――私達が認識できる無と有の地平線を構築しています。しかし本来的に、この世界は仮相の海であり、本質的な形を持たず、それ故にどのような事物も事象も存在し得る。人類という知的生命体が観測し、言語化することで、要素は一時的に固定化され、仮初の安定を手に入れているだけに過ぎないのだと思います。こうあってほしい、こうあるべきだという規則や願望を正当化して、多くの人々をその集合意識に包含する大きな物語を成立させることで、人々の信仰を媒介に剣臣の能力や具現鋳造が現実に干渉する力として存在している。そのような力を実在させるテルマテル世界の物語を書き進めるのは、地上の覇者たる霊長の八種族であり、その滅亡も、多くの人々が信じるに足る信仰さえ整ってしまえば、それは現実化するのではないでしょうか」


「む、難しいよう……」


 知恵熱で顔が赤くなり始めた柚希に梢が助け舟を出す。


「つまり、剣臣も具現鋳造もマリスティアもバラルも、大本は同じ。多くの人が信じ、望むからこそ現実に存在してしまうんじゃないかってことね」


「はい。あくまで私の所感でしかありませんが」


「マリスティアとバラルも、人類が望んだ結果……」


 玲士朗は考え込んだ。絶望は死に至る病という。ならばマリスティアもバラルも、人が生きることに対して抱く絶望の権化だろう。


 人々は誰しも無意識に絶望を感じているということなのか。その原因は何なのか。今の玲士朗にはその手掛かりすら見出せなかった。


「ねぇ、誰か来るよ」


 柚希の声に、一同はルクサディア方面に目を向けた。視線の先から、若い男女が項垂れながらとぼとぼと三叉路の方へ歩いてきているのが見て取れる。男女は玲士朗達の姿に気付くなり、その奇妙な出で立ちに少し当惑したようだったが、恐る恐る近寄ってきた。


「もし……旅の方々ですか?」


 か細い声で女性が尋ねた。憔悴の色がはっきりと見て取れる蒼白い顔は、アミューネ村に残してきたフィリネを彷彿とさせて、誰もが只事でない雰囲気を感じた。


「はい、スピッツベルゲン霊廟の巡礼に」


 メーネの神々しい美しさと玲瓏な美声に女性は息を呑んだ。縋るような面持ちで玲士朗達を見回す。


「あの……道中、女の子を見かけませんでしたか? まだ六歳の、黒髪の女の子」


 詩音は眉間に皺を寄せる。


「見かけなかったわね……」


「迷子ですか? なら、私達も一緒に探しますよ」


 柚希の安請け合いに梢は釘を刺そうとしたが、時機を逸して言葉を飲み込み、代わりに溜息だけ吐いた。


 思いがけない申し出に男女は面食らった。藁にもすがる思いなのか、玲士朗達にテルマテル人とは異なる何かを感じ取って一縷の望みを見出したのか、男性は訥々と話し出した。


「……娘が街の外に出かけた切り、もう何日も戻ってきていないんです。最近、この辺りで子ども達の失踪が相次いでおり、街を挙げて捜索しているのですが、一向に手掛かりがなく……」


 話しながら、次第に肩を落として再び項垂れていく男女を、柚希は気の毒そうに見つめていた。愛娘の安否も消息も分からない親の憂慮と焦燥は推し量るに余りある。意を決した柚希は、力強く夫婦に宣言する。


「なら、早く探しましょう! 私達も手伝いますから。いいよねみんな?」


 梢が慌てて反論した。


「ちょっと待ちなさい。フィリネさんはどうするのよ」


「勿論、フィリネさんも助ける。でも、目の前で困っている人を放ってはおけないよ」


 柚希の決然とした口振りに、詩音はやれやれと肩を竦めた。


「あんまり時間は割けないわよ。手分けして探しましょう」


「……分かったわよ」


 梢も良心の呵責を感じていたらしく、不承不承の体の割に捜索への着手は迅速だった。


「お二人はここに残り、後から来る私達の連れ合いに事情を説明していただけますか? きっと彼も協力してくれると思います」


 メーネが鷹介への対応を夫婦に依頼し終えると、玲士朗達は森のあちこちに散らばって捜索を開始した。目にも留まらぬ速さで移動する奇抜な格好の男女を唖然として見送りながら、夫婦はその場に立ち尽くしていた。


 森の中を駆け抜けながら、玲士朗は小さな懸念を口にせずにはいられなかった。


「鷹介も巻き込まれてなきゃいいけどな」

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