第25話 蝶は月に羽ばたく

 騎士達の言動を遠目から観察していた玲士朗達は、信僕騎士団への印象を一層悪化させていた。梢は苛つき交じりに溜息を吐く。


「大人って何でああいう言い方しかできないのかしら。自分が世間の本道だって言わんばかりに、誰も彼も自分の気風に従わせようとするのよね」


 颯磨が無感情に梢の後を引き取った。


「長く現実の正当性を目の当たりにしてきた大人って、想像力がないんだよ。知識と経験っていう視野の狭い賢さが、普遍の正しさみたいなものを幻視させるから」


 それまでなんとか感情の昂ぶりを押さえつけていたロザリーが、堰を切ったように怒りを爆発させた。


「ったく、なんなのあのオジサン、ムカつくッ! ちょっと文句言ってくるね!」


 啖呵を切って猪突しようとするロザリーをシエラが諫める。


「やめなさいって。あの姉さまが我慢してるんだから、それを無碍にするようなことはしちゃダメよ」


「そうかもしれないけど……あーもう! むしゃくしゃが止まらない……!」


 ロザリーがやり場のない憤懣に見悶えていると、謹厳実直な麗人という猫被りを脱ぎ捨てたアニーが戯けた様子で玲二郎達のもとへやってくる。


「あー疲れたぁ。あの隊長さん、見かけによらずおしゃべりよね。おかげで余計な気を遣ったわ」


 芝居がかった挙措で倦怠感を表現するアニーをロザリーが涙ぐみながら労う。


「姉さまぁ! あんなに酷いこと言われたのにいつも通りで神……」


「ふふん、そうでしょう。あ、レイジロー達も崇めてくれていいわよ。ご利益あるかもよ~?」


「こら、調子に乗らない」


 漫才のようなエルフ達の掛け合いを楽し気に眺めていた詩音がいう。


「でも、アニーさんの言葉、ちょっと感動したな。あ、まさかとは思うけど、口から出任せなんてことは……」


「失敬な。私だって言うときは言うんですぅ」


 アニーは子どものような膨れっ面を見せた。愛くるしさから一転して、老成した憂い顔を見せる。


「英雄伝説は悲劇を生むわ。美化され、潤色された夢物語が後世の人間の憧憬を扇動し、命を弄ぶ。どんな崇高な理念であろうと、或いは清廉な使命であろうと、望んで殉じる人なんていないでしょう。その家族や恋人や友人の誰もが納得して、幸福のうちに送り出すことがないのなら、それはやっぱり悲劇よ。他でもない貴方達が、その証明なんだから」


 玲士朗達は顔を見合わせた。メーネとともに剣臣としてテルマテルを厄災から救う責務を期待されていると思い込んでいただけに、アニーの言葉は予想外だった。


「でも、みんなそのことは忘れてしまう。輝かしい偉業と功績が虚像を作り出して、雄々しく戦い、望んで使命に殉じた高潔な勇者として語り継いでいってしまう。ありもしない遠い背中を追いかけて、進んで犠牲になろうとする人が出てきたら、目も当てられない。だから、私は正しい戦いなんてないと思っているわ」


 死にたくないのに、死んでいった人が一人でもいる限り、それは悔やまれるべき悲劇であり、誰もが望んで死んでいったと決めつけるのは、後世の人間の身勝手でしかないとアニーは断ずる。


 それまで悄然として沈黙を守っていた涼風が、鬱屈とした表情で訥々とつとつといった。


「戦えば人が死ぬ。家族や友人は、こんなにも悲しくて、辛くて、苦しい思いをするのに」


 涼風の念頭にはネフェの笑顔が克明に映し出されている。その声も、匂いも、温もりも、触れ合った彼女の肉体が鮮明に記憶している。今はもう、この世にいない友人の確かな生の痕跡が、涼風の心に烙印のように刻み込まれ、その痛みと苦しみに悶え続けているのだった。


 アニーは微かに寂しげな声でいった。


「貴方達が使う“死ぬ”って言葉、何だか心を騒つかせるのに、懐かしくて、大事な感性も感じるのよね。不思議」


 涼風の苦悶を感じ取って、アニーもまた遠いどこかに思いを馳せるかのような虚ろな眼差しで、煌々と輝く頭上の月を仰ぐ。


「人の心も記憶も、不連続だから忘れてしまう。大切だったはずのものを置き去りにして、振り返ることもなくこうして歩き続けてしまうことが悔しいわね」


 アニーらしくない感傷的な独白は、一同を何とはなしに困惑させた。しかし、祭主として葬送の儀に臨むアニーが準備のためにその場を離れてしまったため、皆、彼女の言葉の真意を探りながらも、違和感を抱き続けることしかできなかった。


 ただ一人、メーネだけが、アニーの思いに共感するかのように、哀切の色を濃くした眼差しで無憂の天蓋ペール・ヴェールとその先に浮かぶ月を見上げていた。


 蔓と草花で編まれた棺を村人とエルフ達が厳粛に担ぎ、二つの葬列は粛々と歩を進める。一方には騎士の亡骸が、もう一方にはネフェの衣服や装身具が納められ、白く煙るように透き通る花弁を持つ大輪の花々に抱かれていた。


 湖の前まで運ばれた棺は一旦、斎服に着替えたアニーの両脇に設えられた簡素な祭壇に据えられた。葬列が戻っていくと、入れ替わりにネフェの両親であるマイノアとデルマ、ソフィーを含む兄弟姉妹達、そして会堂騎士長のバーチュと部下二名が棺の前に進み出る。


 マイノアとデルマは棺から亡き息子の衣服を取り上げ、騎士達は同僚の亡骸を押し戴く。そして青白く幻想的に光輝く湖面に、衣服と亡骸はゆっくりと横たえられた。湖岸から緩慢に離れていく様子を名残惜しく見つめながら、ソフィーとその兄弟姉妹、そしてバーチュが棺から取り出した花束を湖面に浮かべていく。


「綺麗な花だね」


 美兎の寂し気な感嘆に、メーネが応じた。


「夜にしか咲かない花、『夜夜の心ノーブル・ティア・ドロップ』。救世主アルテミシアの涙と伝えられる花で、贖物あがものとして、肉体を失った魂の穢れを遷し、災いを払うとされています」


「魂の穢れ……?」


 メーネは青白い光を投げかける月を再び見上げた。


「魂は、彼岸の門と称されるあの月から地上に降りてきて、肉体に宿る。そして肉体を失うと、やがて帰っていくものとされています。

 しかし、未練を残した人の魂は、天上に昇ることなく、地上に惹かれ続ける。人だった時の温かみや優しさを忘れて、生命を怨み、妬み、憎悪して、心の平静を保てなくなる。そうして穢れを溜め込み、やがてこの世の摂理に従属しない狂った生命体として人に祟る魔物と化してしまう。それがマリスティアの正体なんです」


 玲士朗達は驚きとともに息を呑んだ。颯磨は、自身の手に残る戦いの感触を苦々しく思い出していた。


「人の悪意と怨念が実体化した存在、もとは人だった魂の成れの果て。だからこそ、マリスティアは人を呪い、人の世を呪うんです。命という存在の輪郭を壊し、心を侵し、無制限に増殖していく。彼らが跳梁跋扈することになれば、やがてバラル神を顕現させる媒介となり、世界は摂理そのものを維持できず、崩壊する。

 故に、マリスティアは討滅しなければならず、生み出してもならない。この葬送の儀は、魂の穢れを浄め、怒りや憎しみ、悲しみを鎮め、魂を在るべき彼岸に還すために営まれるのです」


 泣き腫らした両目が痛々しい涼風は、尚も声を詰まらせ、力なくうわ言のように呟く。


「ネフェは……ネフェは、違うわ。誰も呪ったりしない」


「ええ、勿論です。彼は清廉な魂の持ち主です。だからこそ、心を込めて送り出してあげなければならない。いつか誰もが帰る場所に、迷うことなく辿り着けるように」




 参列した全ての人が故人との最後の別れを終えたことを見届け、アニーが月を遥拝して祝詞を捧げる。


「背きてまる魂を、御身の慈愛を以て導き給え。誓いを此処に、我らは無憂の刻下に身を任せん」


 水面を漂う『夜夜の心ノーブル・ティア・ドロップ』は自身の存在を主張するかのように輝き出し、それに呼応して、夜の闇より尚昏い帳が辺りに落ちかかる。まるで舞台の照明が暗くなるかのように、ここ一帯の月光と無憂の天蓋ペール・ヴェールの輝きが弱まったのだ。


 心の底をシンと冷やし、底知れない闇を湛える奈落へ突き落とされるかのような世界との断絶感を、玲士朗は再び苦しい胸の内と共に痛感した。この感覚は、姉を失った時と同じ、死が自分のすぐ脇を通り過ぎる感覚だと悟る。


 そして玲士朗は、視界の端に妖しく、茫とした紫暗色の光が揺らめくのを捉えた。見る者を魅了し、幻惑の果てに心を奪い尽くす魔性の蝶――耀霊蝶ようれいちょう。再び相まみえた神秘的な鱗翅目は、やはり異界の遣いなのかと、玲士朗は空恐ろしくなった。あの蝶が羽ばたくとき、彼らは平穏な日常から異世界テルマテルに転移してしまったのだから。


 蝶は無邪気に、そして優雅に、村人達の間を縫うように飛び回る。羽ばたく度に光り輝く鱗粉が大気に溶けて、陽の光の下では見ることのできない大地の記憶を可視化する。茫漠とした姿形の亡霊が現れたのだった。


 ――曰く、月光はこの世ならざる世界から漏れ出た妖光。月明かりに支配される夜は、人の世の理や常識の通用しない異界なのだ。


 亡霊の姿を見て、涼風は眼を瞠った。最早この世に存在しない、ネフェの亡霊。マイノアとデルマは、その光景を涙に暮れながらも必死に見届けようとし、ソフィーや他の兄弟姉妹達も、畏敬と悲しみを以て亡霊の立ち居振る舞いを見守っている。


 亡霊が現れては消えていく。村中を走り回るネフェ、家族とともに仕事に励むネフェ、収穫祭にはしゃぐネフェ……この村が記憶する生前のネフェの姿がいくつも投影されていく。


 涼風は、目の前から走り去るネフェの亡霊を見つめて、再び嗚咽を漏らした。膝から崩れ落ちる涼風を振り返ったネフェの瞳に彼女は映らず、何の感情も見せぬまま、また背中を向けて走り出していく。全てを忘れてしまったかのように、泣き崩れる涼風を顧みることなく、ただ遠い場所を目指して。


 俄かには受け入れがたい光景に、しかし玲士朗は直感した。あの蝶はネフェの魂なのだ。揺霊蝶が羽ばたく度に、魂から漏れ出たこの世ならざる煌めきが、テルマテルの記憶するネフェの姿を呼び起こす。


 村人達は悲壮な面持ちながら、畏敬を以て蝶の行く先を見守っていた。やがて揺霊蝶は湖に達し、岸辺から離れていく騎士の亡骸の上を飛び回る。降りかかる鱗粉の光が騎士の亡骸に落ちかかり、呼応するかのように、騎士の身体からもう一羽の揺霊蝶が飛び立っていく。そして騎士の身体は、一段と眩く発光した後、細かい光の粒子となって大気に溶け込んでいった。


 口惜しさに歯噛みし、バーチュは重々しい口調で呟いた。


「クルト、けいの魂が心安らかならんことを望む。その無念は我々が必ず晴らそう」


 二羽の揺霊蝶は連れだって天上に昇っていく。玲士朗は未だその優美な飛び立ちに目を奪われ続けていたが、前触れもなく感じる右腕への違和感に意識が引き戻される。玲士朗の腕に縋りついていたのは柚希だった。


「ゆ、柚希?」


 柚希は冷たい雨に打たれた後のように、身体を震わせて苦し気な呼吸を続けていた。


「玲士朗……何だろう、この気持ち。すごく、すごく苦しいよ」


 涙ながらに声を絞り出し、荒い息遣いに華奢な肩は激しく上下した。胸を押さえて喘ぎながら蹲る柚希に、玲士朗とメーネは当惑した。


「柚希、どうしたんだよ!」


「ユズキ、落ち着いて」


「私が、私でなくなっていく。どうして……嫌だよこんなの」


 泣きじゃくり、うわ言を繰り返す柚希を抱き止めながら、玲士朗は戸惑いと不安のあまり、思わずメーネを見た。だがそのメーネも、突然の予期しえぬ事態に困惑し、狼狽した表情を玲士朗に返すことしかできなかった。


 ネフェと騎士クルトの魂たる二羽の揺霊蝶が月に吸い込まれて異界の帳が雲散霧消すると、ネフェの亡霊も姿を消していった。月明かりが再び夢のように地上の生きとし生ける者達に落ちかかっていた。




 人はどこから来て、どこへ行くのか。誰もが一度は疑問に感じ、不安を覚えながらも、やがて日常に埋没させてしまう、自己の存在への探求心。


 古傷が疼くように、ふとした契機でよぎる底知れない不安と得体の知れない恐怖は、人の心を損なう宿痾しゅくあだ。だから人は、不安をやり過ごすために形を与えたがる。たとえそれが形而上的な神話であろうと、荒唐無稽な与太話であろうとも構わない。そうだと了解してしまえば、あやふやで捉えどころのない不気味な感情の納まりが良くなる。そしていつの間にか思い煩うことすら忘却し、無憂の日常という習慣を積み重ねていく。


 忘却は肯定だ。人は根源的な問いを忘れることで“現在”を肯定し続ける。忘れることで、彼岸あちら側の存在を曖昧にして、此岸こちら側に魂をつなぎとめる引力を生み出すのだ。


 だが、彼らはまだ子どもと大人の境界にいた。日常の積み重ねという魂の引力が弱い子どもの面を残すが故に、心は彼岸あちら側に惹かれかけてしまう。


 まだ『遠くに行ってはいけないよ』と諭されていた頃には想像もしなかった心細さが、彼らの心に蟠り続けていた。魂の化身たる幽光の蝶が、神秘的な月明かりの回廊を登っていく度に、彼らの胸中に深遠な不安と恐怖を掻き立てる。


 自分達がどこから来て、どこへ向かうのか。彼らは無意識に身体を寄せ合い、お互いがどこか遠くへ行ってしまわないように、異世界の入り口たる月を仰ぎ見て、対峙し続けていた。

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