第3章 誰かが死ぬということ

第26話 フィリネの異変

 東天に曙光が射し込み始めるのも気付かずに、玲士朗はベッドに横になったまま天井を見上げ続けていた。昨晩の柚希の取り乱し方が気掛かりでほとんど眠ることができず、今も様子を見に行きたいと逸る心を何とか押し留めていた。


「あいつ、何で急に……」


 答えの出ない苛立ちで思わず声が漏れる。隣で眠る鷹介は玲士朗を一瞥したが、気づかない振りをして空寝を続けていた。


 不安と焦燥に耐え切れず、玲士朗は顰め面のままベッドから起き上がり、部屋を出て行く。


「おはようございます、レイジローさん」


 炊事に勤しんでいたフィリネが折り目正しく頭を下げた。その挙動はふらふらと覚束ず、昨日以上に顔色が悪かったが、今の玲士朗にはその異変に気付く余裕はない。心ここに在らずといった態で彼女を一瞥するだけだった。


「おはようございます。ちょっと散歩してきます」


 足早に外へ出ようとすると勢いよく扉が開いて、色を失った涼風が呼吸荒く軒先に立ち尽くしていた。まだネフェの死のショックから立ち直れていないのに、充血した両眼は一睡もできなかったことを物語っていて、さらに憔悴した姿が痛々しかった。


「ど、どうした涼風」


「ねぇ、玲士朗は憶えてるよね!? ネフェのこと、憶えてるよね!?」


 涼風は玲士朗に詰め寄った。血の気をなくし、人形のように凍った表情は狂気すら感じさせ、玲士朗はたじろいだ。


「何言ってんだお前……ネフェがどうした?」


「おかしいの! みんな、ネフェのことを憶えていなくて……ううん、違う。初めからそんな子いなかったみたいに……デルマさんもソフィーも、みんな、みんな――っ」


 嗚咽がその先の言葉をかき消した。両手で顔を覆い、人目も憚らず泣き続ける涼風を前にして、玲士朗は為す術なく茫然とするしかなかった。ただならぬ気配を感じて、鷹介も寝所から転がり出る。


「涼風か?」


「ああ。でも、いきなり泣き出して……」


「涼風っ――よかった。ここにいた」


 息も絶え絶えに駆け込んできたのは詩音だった。


「何があったんだ詩音」


 玲士朗の問いに、詩音は困惑の色を隠せない。


「私が教えてほしいわよ。何がどうなっているのか分からない。誰も彼もみんなネフェのことを忘れちゃったみたいに――フィリネさん!?」


 詩音の叫びに弾かれるように玲士朗が振り返ると、今まさに気を失って地面に倒れ込まんとするフィリネを、間一髪のところで鷹介が受け止めていた。


 突然のことで息が止まるかのような衝撃を玲士朗は感じていた。だがそれは彼だけではなかった。


「……母さん?」


 まだ微睡みの中にあったはずのクシェルが、いつの間にか玲士朗の背後に立ち尽くしていた。母の危急に際して尚、泣き喚くこともなく、取り乱すこともなく、普段と変わらない淡々とした様子ではあったが、見かけでは分からない彼の秘めたる熱情を玲士朗は見逃さない。失神する母の姿を映す翆緑色の大きな瞳は、驚愕にはち切れんばかりだった。


 最愛の母を失った甥――晴翔と同じ痛ましい姿が、悪夢のように玲士朗の眼前に再来していた。




 アミューネ村に医者はいなかった。村人が彼らの診察を受けるには、不定期に巡回する近くの町医者や信撲騎士団が聖地巡礼者のために引き連れる雇われ医師が村を訪れるのを待つより他にない。だから治療が間に合わなかったり、民間療法と迷信が病気や怪我の治療に用いられたりして、根本的な救命がなされないまま命を落とす者も多かった。その話を村長のヨシカから聞いた玲士朗達は当初、愕然とした。


 だがそれも過去の話だった。免疫系の発達した長命なエルフ達との交流により、治療に関する正しい知識と自己治癒力を高める生活方式がもたらされ、アミューネ村の医療は劇的に進歩していた。たとえ治療を必要とするような事態になっても、エルフの診察と治療を受けることで大抵の病や負傷は治癒したし、何よりも村人達の安心感は、彼らの健やかなバイオリズムを護持することに一役買っていた。病は気からとは良く言ったものだ。人生における最も根深い憂いの一つを寛解かんかいさせた人々は、集団免疫でも身につけたように不思議と健康に傾いた。


 フィリネもまた、これまで大きな病に罹らなかったし、働き過ぎのきらいはあっても体調を崩すことは少なかった。だから、日に日に痩せ細り、遂に倒れてしまった母の姿を目にしたクシェルのショックは計り知れないものがあったに違いない。ベッドに寝かされたフィリネを診察したシエラは、母親の傍に寄り添う息子の不安と緊張を和らげたかったが、それはできなかった。


 玲士朗、鷹介、詩音、メーネが固唾を呑んでシエラの第一声を待っていた。少し離れたテーブルには泣き疲れた涼風が椅子に身体を預け、彼女を宥めていた美兎と梢も心配そうな顔つきをフィリネに向けている。押し黙るシエラに、玲士朗は堪らず声を掛けた。


「シエラ、フィリネさんは……」


 沈鬱な面持ちのシエラは視線を下げたまま、固い声を絞り出す。


「かなり衰弱しています。けど……原因が分からない」


 一同の息を呑む音がやけに大きく響いた。落胆と失望に身体が凍り付いたかのように身じろぎ一つできない。


「外傷はないし、細菌やウイルスによる感染症でもない。過労の兆候は確かにありますが、この急激な衰弱はもっと別の要因によるものです」


「治せる、のよね?」


 恐る恐る詩音が尋ねたが、シエラは一層肩を落とした。重苦しい沈黙が全員の心を押し潰すかのようだった。


 静寂を破って、エーリッヒが屋内に駆け込んでくる。その背後には彼と同じ年代の少し小柄な少年が控え目についてきていた。


「皆さん、遅くなって申し訳ありません。テオを連れてきました」


 コニーとタボアの一人息子にしてエーリッヒの親友――テオは、父親に似て細身で小柄な少年だった。柔らかな癖毛と、優し気だが意志の強さを感じさせる眼に母コニーの面影がある。まだ息切れを整えることが出来ず、苦し気な息遣いのまま挨拶をしたテオだったが、フィリネの様子を見るなり脇に抱えていた古めかしい一冊の本の頁を必死に繰り始める。


「テオは文献を読めるので、この村の歴史や言い伝えに明るいんです。フィリネさんの状態を話したら、思い当たる節があったみたいで」


「こ、ここです! 皆さん、この記述」


 テオは緊張した面持ちのまま、本に書かれた内容を噛み砕いて読み上げる。


「二百年前、昨日と同じように、この村の近くにマリスティアが現れました。幸い、村を襲うことありませんでしたが、村人の一人が原因不明の病に罹ったようです。高熱を発し、日に日に衰弱し、あらゆる薬も治療も効かなかった。その病は、マリスティアの瘴気を敏感に感じ取る希少な体質故の症状でした。この地を訪れた救世主様と剣臣様によってマリスティアが討滅されると、その村人は徐々に回復したと書いてあります」


「確かに状況は酷似しているが……」


 鷹介の懸念を詩音が代わりに引き継いだ。


「でも、マリスティアは倒したわよ? その本に書いてあることが正しいのなら、フィリネさんだって回復しているはずでしょう?」


「……いえ、まだこの村の近くにいるのです」


 メーネは苦々しく呟いた。思いもかけない言葉に誰もが耳を疑った。


「近くって……どういうこと?」


 そう尋ねる美兎の瞳には、沸き起こる恐怖の色がありありと刻まれていた。


「歴代の救世主を祀る聖なる霊廟の一つが、アミューネ村の近くに建立されています。そこには、マリスティアの上位存在――『中枢種ちゅうすうしゅ』と呼ばれる強力な個体が封じられている。私や皆さんの力に呼応して、長い眠りから目覚めた可能性があります」


「何でそんな危険な奴が、救世主のお墓にいるのよッ――」


 嘆くかのような詩音の問いかけに、メーネは軽々に答えることができなかった。それは、このテルマテルで幾度となく繰り返される悪神との戦いが生み出す歪みに他ならず、救世主と剣臣が乗り越えなければならない試練でもあったのだから。


 閉塞感に窒息するかのような沈黙が再び漂い始めていた。時折、苦し気に顔を歪ませるフィリネを見て、玲士朗は居た堪れなさに歯噛みした。母親の顔を覗き込んだまま微動だにしないクシェルの小さな背中を見つめながら呟く。


「そこに行こう」


 一同は驚き、玲士朗に視線を投げかける。


「フィリネさんが治る可能性が少しでもあるのなら、行くべきだ。それに、マリスティアを倒すのは俺達剣臣の役目なんだろ? 昨日だってできたんだ。俺達は戦える」


「ちょ、ちょっと玲士朗、待ちなさいよ。そんな急に……」


 詩音の言葉にも耳を貸さない玲士朗は何かに憑りつかれたかのようだった。


「早くしないと手遅れになる。大丈夫さ、みんなが一緒なら、俺は――」


「冗談じゃないわ」


 鋭い語気で玲士朗の言葉を遮ったのは梢だった。

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