第23話 ふぁーすときす

 半信半疑のまま颯磨は帯を頭に巻いた。すると、今まで断続的に襲い掛かっていたマリスティアの呪いが、意味のある文節や映像から単なる音と色にまで分解されていく。不快な雑音はまだ残ってはいるものの、呪詛の言葉はもはや聞こえず、不気味な映像も見えることはなかった。精神を統一し、安定させるための副産物として、不要な雑音と映像を遮断する魔術効果の為せる業であった。


「意外。気休めじゃなかったんだ」


 颯磨の言葉に、何故かロザリーは訝し気な眼差しを向ける。


「……え? ちゃんと効いてる? 嘘ついてない?」


「なんだよ、まさか呪いのアイテムとかじゃないよね?」


「ち、違うよ。その……作ったの初めてだったから自信なくて」


「作った? ロザリーが? 何で?」


「な、何でって……えーと……そう! 姉さまに言われたの! 助けてもらった借りはきちんと返しなさいって! だから作ってきただけ! ホントそれだけだから」


 ロザリーは言い訳のように捲し立てた。それが照れ隠しであったのは誰の目にも明らかだったろうが、颯磨は興味無さそうにふーん、と相槌した。


「まぁ、賄賂と買収は人に借りを作らないための基本だからね。そういうことならありがたくもらっておこうかな」


 穏やかな表情を見せる颯磨に、ロザリーは一瞬、満足そうな笑みを零す。が、すぐに形の良い唇を真一文字に引き結び、くるりと踵を返した。


「ほら、怪我人は早く戻らないといけないんだから!」


 ずんずんと遠ざかっていくロザリーの小さな背中を見て、玲士朗は苦笑した。


「ロザリーも責任を感じてるんだ。颯磨が村に運び込まれたときは、たぶん一番心配してたんだぞ。お前、一時昏睡状態だったからな」


「どおりで村に帰った記憶が曖昧なわけだ。今日は迂闊だったって自分でも思ってるよ」


 颯磨は再び湖面に視線を落とす。煌めく水面に神妙な面持ちが揺らめきながら映っていた。


「……今日のことで改めて思ったんだけど、俺はさ、正義の味方なんて正直ガラじゃないんだ」


 その言葉に違和感を抱いた玲士朗は眉を顰めた。


「人が生きている世界なんて、不愉快なことばかりで、どうしても心の底から肯定できなかった。正しいと信じられている今の体制を批判的に冷笑する方が性に合ってるんだ。そんな人間が、善人も悪人もひっくるめた全人類を救わないといけない身の上だなんて、酷い話だよ。流石にその境遇には不満があった」


「それが苛つきの原因か?」


「いやぁ、これはこじつけだね。慣れない環境にフラストレーションが溜まってただけかも」


 颯磨は困ったように笑いながら頭を掻いた。玲士朗はやれやれと溜息を吐きながら、颯磨と並んで湖に視線を落とす。


 しばらく沈黙が二人の間に横たわっていた。口火を切ったのは、玲士朗だった。


「笑うだろうけど、俺は颯磨が正義の味方だと思ってるよ」


 颯磨は玲士朗の予想通り失笑した。


「玲ちゃんは知ってるだろ? こんな凶悪な人間は正義の味方にふさわしくないよ」


 乾いた笑みが虚しく響く。颯磨が続けた。


「……マリスティアがさ、嗤ったんだ。表情なんて無いくせに、人が苦しんで死んでいく姿だけは、口の端を持ち上げて嘲笑うんだ。それを見たら憎くて憎くて仕方がなくて、心の底から殺してやりたいって思った。#あの時__・__#みたいに。

 ――俺はさ、そういうやり方しかできない、正義とは真逆の感性を持った人間なんだよ」


 颯磨の卑屈な言い草に、玲士朗は穏やかに反駁していた。


「誰かの痛みや苦しみを感じて怒れる人間は、正義の味方だろ」


 十数年来の幼馴染として、颯磨の生き方や考え方を良く知る玲士朗にとって、その言葉は本心から発せられたものだった。そして、彼らの真逆な心情の吐露には、とある過去の記憶の共有があった。颯磨が露悪的に自分を卑下するに至った辛く、悲しいその記憶は、玲士朗だけが知る二人の秘密でもある。


 その感傷は二人に沈黙を余儀なくさせる。気が塞ぐことを嫌って、玲士朗は努めて陽気な声でいった。


「芦ノ湖の夕焼けも、これくらい綺麗だったよな」


「そう……だったっけ。早くも記憶が曖昧だよ」


 颯磨が苦笑していると、遠く離れたロザリーが声を張り上げる。早く付いてこいという催促だった。玲士朗と颯磨は肩を竦め合いながら速足でロザリーのもとへ急いだ。眩い夕陽に照らされるロザリーの遠い姿に目を眇めながら、颯磨は物憂げな表情で誰にも聞こえぬ呟きを漏らす。


「――今回は運が良かっただけさ。正義の味方なんて、やっぱり御免だよ」




「あら、起きてたのね」


 アニーは戸口を潜るなり、ベッドの上で半身を起こしたメーネを見て意外そうに呟いた。その顔色はまだ少し優れなかったが、来客に礼を失すまいと健気に微笑を見せる。


 メーネの傍らにはシエラが付き添い、横手から蒸留水で満たされたマグを手渡していた。アニーはシエラを労いつつ、ベッド脇の椅子に腰掛ける。


「マリスティアは退けられたのですね」


「ええ、剣臣さん達のおかげ。怪我をした子もいたし、お見舞いも兼ねてお礼をしてきたところ。最後は貴方よメーネ。私の家族を護ってくれて、ありがとう」


 メーネの聖鳥卵色ロビンズ・エッグ・ブルーの瞳は戸惑いの色に翳った。


「……私は、ほとんど何もできなかった。感謝を受ける立場にありません」


「そう言うと思った。でも、貴方と剣臣さん達のおかげでマリスティアを討滅できたのは事実よ」


 アニーの励ましに、しかしメーネは痛切な声を漏らす。


「ですが……犠牲は出ました」


「そうね……でもそれは、貴方達だけの所為じゃないもの。貴方達が力不足を嘆くなら、私達は不甲斐なさを恥じなければならない」


 重苦しい沈黙が息苦しさをもたらす。犠牲になったネフェを悼む気持ちと、力及ばなかった己自身を責める気持ちをそれぞれが感じ、視線を落としていた。


 アニーは努めて明るい調子で話し出す。


「身体の具合は、どう? まだ顔色は悪そうだけど」


「シエラさんのおかげで、大分良くなりました」


 笑顔で謝辞を示すメーネだったが、未だ尾を引く精神的苦痛に、端正な顔が小さく歪むのをアニーは目敏く見て取った。


「マリスティアの呪いはまだ尾を引いてるのね」


「はい。ですが、呪いに直接触れたわけではないので、大したことはありません。これくらいの痛み、耐えられます」


「貴方って本当に生真面目ね。苦しい時は頑張る必要ないのよ? ――ちょっと失礼」


 気安い物腰に、メーネは完全に不意を衝かれた。やおらアニーはメーネの顔を引き寄せて唇を奪ったのだった。


 当惑の息遣いがメーネの喉から微かに漏れたが、瑞々しく柔らかな感触と優しく全身に広がる温かさ、そしてアニーの肌や髪から匂い立つ馥郁ふくいくたる香りに、自然と心落ち着いて身を任せていた。


 やがてアニーが離れると、その心地よさを名残惜しそうに見つめる恍惚とした眼差しのまま、メーネは呆然としていたが、やにわに頬を赤らめて、狼狽しながらシーツを顔まで引き寄せた。


「わ、わ、わ……私、その、初めて……まさか、アニーさんが」


 動転のあまり言葉にならない何事かを口走るメーネに頓着することなく、アニーはあっけらかんと答えた。


「何恥ずかしがってるの、生娘きむすめじゃあるまいし。私の魔力を分けたから、呪いへの抵抗力も少しは変わると思うわ。あとはしっかり休養して、メーネ自身の力を回復させること。これが一番ね」


「……お、お心遣いはありがたいのですが、その……できれば前もって言ってほしかった」


 生真面目なメーネには珍しく、ぷいと顔を背けて小さく頬を膨らませる。アニーの感触が残る唇を摩りながら、「ユズキ、これが“ふぁーすときす”なのですね……」と呟きながら視線を漂わせる姿は、恥じらいと不満が相半ばする複雑な心境を感じさせる。アニーは初めて見るメーネの様子に当惑を覚えながら、小首を傾げた。


 救世主の生まれ変わりとうそぶく年端の行かない少女がアミューネ村を訪れたのが数日前。村長のヨシカから報告を受けて、アニーはその少女を見物しに赴いたのが、二人の出会いだった。


 マリスティアによる被害が深刻となり始めた数年前から、過去幾度となく『救世主』を騙る自称聖人が、物珍しい風体で各地の村々に出没し、てんで効果のない祝詞を上げて金品を詐取する事件が横行していただけに、アニーは半ばうんざりしながら、仕方なくその正体を確かめなければならなかった。偏に、アミューネ村の平和と安全のため、である。


 穏やかな昼下がりだった。湖沿いに佇む余所者の少女の背中を胡乱気に眺めながら欠伸交じりに声を掛けると、優雅な所作で振り向いた少女の姿に目を奪われた。聖鳥卵色ロビンズ・エッグ・ブルーの神秘的な瞳、艶やかに光り輝く白金の髪、降り注ぐ日差しが後光のように少女を祝福し、眩いばかりの神々しささえ感じさせた。凛然とした真っ直ぐな眼差しは、地上の俗事に心乱されぬ清澄さと高踏さを強く印象づけ、アニーは考えるより先に得心した。本物の救世主である、と。


 その時の印象が根強いためか、人間らしい感情を見せるメーネにアニーは戸惑いを覚えるのだった。


「何で拗ねてるの? 変なメーネ。ねぇシエラ、私、何か機嫌を損ねるようなことした?」


 水を向けられたシエラだったが、両手で顔を覆い、指の隙間から片目だけを覗かせて、不自然に硬直していた。アニーは再度質した。


「ちょっと、シエラってば」


「え!? な、何!?」


 耳まで真っ赤にして狼狽えるシエラを訝しみながらアニーは続ける。


「だから、私、メーネに何か変なことしたかなって」


「へ、変だなんてそんな……うぶな反応のメーネさんがとっても素敵……」


「……嗚呼、なるほど」


 思わず口を衝いて出た言葉にハッとして、シエラはきまり悪げに苦笑した。彼女の脳内で繰り広げられているであろう関係の自分とメーネの妄想に呆れながら、アニーは椅子から立ち上がった。


「もしかして、メーネは初めてだった?」


 目は口ほどにものを言う。気恥ずかしそうに、或いは暗に抗議するかのようなメーネの視線に、アニーは大袈裟に頭を抱えてみせた。


「あちゃー、そっか、ごめんなさい。貴方の初めて、奪っちゃったのね」


 色っぽさは何一つなく、むしろ戯けた口振りだったが、アニーの発言に人知れず心躍らせていた少女がいるのは言うまでもない。


「でも勘違いしちゃダメよ。普通の殿方は私ほど上手じゃないから!」


「も、もうその話はいいです!」


 アニーは悪戯っぽくはにかみながら、メーネの抗弁もさらりと受け流して戸口へと向かう。だがその途中で立ち止まり、一転して神妙な面持ちをメーネに向けた。


「ねぇメーネ。人の温かさが太陽の光のようなものだとしたら、貴方を苦しめる呪いはその影として生まれたものなの。人は、誰もが他人を破滅させる毒の杯を身体に忍ばせているわ。そして、ふとした契機で、怒りや憎しみに乗せてその毒を吹きかける。心を蝕み、生きる意志や気力を摩耗させる猛毒ことばを、ね。

 人にとって他者は容易く地獄になり得る。それを本能的に察しているから、人は常に自分と同じ輪郭かたちの獣が不意に見せる本性を無意識に恐れている。そして自分もまた、その獣の本性を暴露して、誰かにとっての地獄となる。これが創世神話にいう人の原罪というのなら、救いようがないかもしれないけれど……でもどうか、失望しないでね」


 哀切の響きを持ったアニーの自嘲に、メーネは落胆するように一度視線を落としたが、左腕の手首の一点に目を留めて、安らかな微笑を浮かべた。それは昨夜、柚希が手当てしてくれた患部であり、パステルカラーの絆創膏が彼女の白皙によく映えていた。メーネは柚希と夜遅くまで語り合った思い出とともに、絆創膏を愛おしそうに摩る。


「個人にとって他者が地獄の源泉なのだとしたら、幸福の源泉もまた、他者にあるのだと私は知りました。人は人を慈しみ、優しさを持つことだってできる。希望はあります。皆さんがそれを教えてくれたのだから。

 ――私は必ず、八人目の救世主になってみせます」


 メーネの返答に、アニーは困ったような笑みを残して踵を返した。

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