第22話 失われたもの、傷ついたもの

 薄暗い室内の天井がぼんやりと涼風の網膜に映る。窓から細く差し込む黄金色の光条が、中空を漂う塵を仄かに輝かせていた。


 傍らから覗き込む詩音と柚希は、不安気な表情で涼風の目覚めを見守っていた。涼風は、前後不覚で判然としない思考の中、本能に従って自らの状況を把握しようとしていた。


「……ここ、どこ?」


 柚希が答える。


「マイノアさんのお家だよ」


「……そう。何で私、眠っちゃったんだろう」


 何気ない呟きは詩音と柚希の表情に痛切な驚きを閃かせた。無意識的な自己防衛システムとして、人の心は、受け入れ難い事実から眼を逸らすために、一時的な記憶障害の症状を見せるときがある。涼風の記憶の混濁もそれが原因であった。


「スズカお姉ちゃん……」


 消え入りそうなソフィーの声に反応して、涼風は首だけを動かした。まだ虚ろな眼差しが、ソフィーの泣き腫らした顔を瞳に映す。


「ソフィー……どうして泣いてるの? またネフェが――」


 少年の名を口にした途端、涼風の様子が一変した。両眼は大きく見開かれ、痙攣したかのように、全身が小刻みに震え出していた。


 俄かに覚醒した意識が、泣きじゃくるソフィーの嗚咽に混じって、むせび泣く女性の声を聞き取っていた。ネフェとソフィーの母――デルマの、我が子の死を悼む慟哭であった。


 幼い少年の最期がフラッシュバックされ、涼風はやおら沸き起こる深い悲しみに胸が張り裂けるような思いを痛感していた。その感情の奔流に、自分自信が押し流されてしまったかのように、彼女らしからぬ取り乱し様を見せる。


 涼風は両の手で顔を覆い、滂沱の涙に喉を詰まらせながら呻いた。


「ごめん、ごめんね……私、助けられなかった」


 悲嘆と後悔に打ち震える声が虚しく響き、涼風の頬を涙が伝い続ける。ソフィーにとっての兄、デルマにとっての愛息、そして涼風にとって良き友人であるネフェの不在が、いなくなってしまったからこそ際立つ存在の重さをそれぞれに背負わせていた。悲しみと苦しみを源泉とするその目に見えない重力は、心を過去に縛りつけて、未来へ踏み出す足を立ち竦ませるのだった。


               


 湖畔沿いの集会所には湖に張り出したテラスがあった。尖った山の稜線に隠れ始めた燃えるような夕日が、黄金に似た夕焼けを湖の上に投げかけている。颯磨はテラスの淵に腰掛けて、溶かしたインゴットの膜のような湖面を胡乱気な眼差しで見つめていた。


 普段とは打って変わって悄然とした背中に、玲士朗は遠慮がちに声を掛けた。


「颯磨、探したぞ」


 ゆっくりと振り向いた颯磨は、半身を黄金色に染めた玲士朗とロザリーを視界に捉えて、眩しそうに目を細めた。


 近づくなり、開口一番でロザリーは殊更大袈裟に嘆いた。


「ホンット信じらんないだけど。ソーマってさ、自分が見た目以上に重傷だってこと、分かってるの?」


 言葉の割に責める響きはない。それが素直になり切れない彼女なりの颯磨への労わりなのであろうと感じた玲士朗は苦笑した。


 対して颯磨は、あからさまに迷惑そうな顔つきを見せる。


「マジでロザリーって喧しいよね。傷にも癇にも障るからお引き取りください」


「は!? 何その言い草! あたしが治療してあげたのに酷くない!?」


 マリスティアによって貫かれた颯磨の右の掌は、ロザリーの治癒魔術によって傷口を完全に塞ぐだけでなく、血管、骨、神経あらゆる体組織を元通りに修復するに至っていた。


「うるさい、恩着せがましい、記憶にございません」


「待ってなにこの人! 今の発言ありえないでしょ!? ちょっとレイジロー、どう思う!?」


「まぁまぁロザリー落ち着けって。颯磨の冗談だから。ところで、アニーさん、見てないか?」


「ここには来たけど、つい最前メーネの様子を見に行ったよ。だからほら、ロザリーも早く行きなって」


 ロザリーは肩を竦めた。


「そうしたいのは山々だけど、姉さまからソーマ達の治療を任されてるんだよね……。傷が開いたりしようものなら私が姉さまに叱られるんだから、とっととベッドに戻ってくれない?」


「教師の心証を良くしたい優等生みたいな発言だな」


 玲士朗の軽口に、ロザリーはジロリ、と険のある視線を向ける。


「なんか言った?」


「いや、なんでもない。でも颯磨、ロザリーの言うことはもっともだぞ。今日は安静にしてないと」

 

 治癒魔術は術者の魔力によって被術者の身体に記憶された体組織情報を再構成し、自己治癒力を励起・誘導するのみである。もともと備わっていた自己治癒力を強化し、傷口の再生を速めたのはあくまで被術者の生命力であり、傷が深ければ深いほど、動員する生命力は多大になり、外部からの栄養補給と肉体の休眠が必要となるのだった。


「横になっても眠れなくてさ。気分転換に散歩したくなっちゃって」


 颯磨はこめかみを摩る仕草を見せる。その様子を見て、玲士朗がロザリーに尋ねた。


「マリスティアの呪いってやつか……何とかならないのか?」


 顰め面だったロザリーは、少しだけ眉根を下げて、拗ねるような口調で呟く。


「……二、三日はどうしようもないってゆーか……時間が経てば、症状も治まるんだけど……その、ごめん」


 颯磨が負傷したことについてはロザリーも責任を感じているらしく、小さな肩を落として項垂れた。


「ま、仕方ないね。でも、死ねとか消えろとか、顔を見せないくせに勝手なことを言う奴って、ホント姑息で不愉快なんだって実感するよ」


 口調は軽々しく、後遺症の影響をおくびにも出さない颯磨だったが、時折、苦悶に歪む表情が小さく垣間見える。それが、忍足颯磨という少年の強がりであると看破しているのは、幼馴染である玲士朗だけだった。


 心の痛みは、身体の痛みより、尚、一層疼くし、長引くものだ。心の死というものが物理法則の埒外にある以上、本人の意思で楽になることはない。磔にされたプロメテウスが、生きながらにして肝臓を啄まれ続ける責め苦を受けたように、永遠とも思える苦痛は、颯磨本人が気付かないまま、じわじわと彼の心の奥深くに潜行して生気を削り取っていく。


 その悪辣なマリスティアの毒の特性を、ロザリーは熟知していたわけではない。だが、彼女の意図しない次の行動が、後の颯磨の助けとなったことは僥倖であった。


「じ、実はね、これ、作ってきたってゆーか……」


 恥ずかし気にロザリーが懐から取り出したものは、民族的意匠の刺繍が施された額当てのような細身の帯だった。訝し気に受け取った颯磨は、帯を検めて眉間に皺を寄せた。


「……何これ?」


魔力糸まりょくしで編んだ帯。額に巻くと、精神を安定させるの。まぁ一種の暗示みたいなものなんだけど」


「……こういうテイストのヘアバンドって趣味じゃないんだけどなぁ」


「い、いいから使ってみてってば!」

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